「シアトルスルーに乗せていただきたい」
目の前で二十代半ばの男性が土下座をしそうな勢いで、大きく頭を下げてきた。
彼の目的はただひとつ――そう、この厩舎に属するシアトルスルーだろう。
どこから聞きつけたかはわからないが、恐らくこの来訪者は、シアトルスルーの能力を知っているのかもしれない。
男性は頭を下げたまま意地でも動こうとしない。
困り果てた、あるいは戸惑っているような、そんな表情で伊坂先生がこちらを見合わせてくる。
ああ――どうしてこうなった。
内心で思わず頭を抱えてしまった。
時は遡って。あの男性が来訪する直前。
カブラヤオーとグリーングラスが牧場でのびのびと休養している中、俺はシアトルスルーが入厩した栗東トレーニングセンターに顔を出しに訪れた。
事前に伊坂先生から許可も得て、久々にシアトルスルーのもとへと足を運んだ。
しばらく顔を出さずかれこれ七月。俺の顔など覚えているのだろうかと自嘲せざるを得ない。
栗東の伊坂厩舎に着くと、厩舎の前で伊坂先生が出迎えてくれていた。
伊坂先生は笑みを湛えながら、
「グリーングラスもカブラヤオーも頑張ってくれました。彼らには感謝しかありません。今は放牧中ですが、元気にしていますか?」
「ええ。飼い葉ももりもり食べてて、とても元気ですよ。こんなに暑いというのに」
そう言って、互いに苦笑する。
「なら良かったです」と伊坂先生はどこか安心したように胸を撫で下ろす。
「特に宝塚記念での他馬の消耗は激しかったですからね。テスコガビーは残念ですが……」
「そうですね……骨折引退とは……」
「カブラヤオーが無事そうで私としてはホッとしてます。故障した馬が出てくるとヒヤリとしてしまいますが……」
「競走馬の脚は消耗品ですからね……カブラヤオーがある意味異常なのかと思えてきました……」
「あんな超ハイペースで走ってたら普通は壊れますよ、あれ。
――あっ、そういえば、シアトルスルーでしたね」
「はい、今日はシアトルスルーを訪ねに」
伊坂先生が腕で厩舎の方を指す。
「すみません。では、行きましょうか」
伊坂先生が歩きだし、俺の足が一歩進んだ瞬間。
「すみません、伊坂周二先生はいらっしゃいますか?」
ひとりの男性が訪れ――時は戻る。
開口一番に「乗せてください」と言い放たれたことに、驚愕せざるを得なかった。
その次に困惑という感情が出てきてしまう。
来訪者の目的はシアトルスルーに騎乗することなのだから、騎手であるのは確定だろう。
だが何度顔を覗いても名前までには辿り着けない。
「……あのー、お名前は?」
俺がそう尋ねると、男性はハッと我に返ったように顔を上げる。
「失礼しました。関東に所属しております、騎手の
来訪者から飛び出した名前に開いた口が塞がらない。
伊坂先生の方を一瞥すると、ブンブンと首を横に振る。
「まさか関東のトップジョッキーが営業しに来るとは……」
小田部信夫という騎手は、史実だと競馬好きであるならほとんどが知る関東の大名手の一角。
騎手界にエージェントという騎乗依頼仲介者をもたらしたことでも有名である。
そんな男であるなら――シアトルスルーに騎乗したいという売り込みにはどこか納得してしまった。
確か史実でも外国産馬には詳しい騎手のひとりだったはずだ。
「で、シアトルスルーに乗りたいというのは……?」
「こちらに凄まじい調教タイムを叩き出す外国産馬がいると聞き及びまして。それがシアトルスルーという馬だと」
「……血統はちょっと地味ですが?」
「それでもなんとなくわかるんです、この馬は走るって」
「……どのぐらい走ると思いますか?」
「そうですねぇ……間違いなく世界レベルではあると思います。どこまで通用するかはまだ未知数ではありますが」
「……小田部さんが今まで乗ってきた馬で例えると?」
「例えられる馬がいないレベルですね。なんとしてでも乗りたいです」
もう一度、伊坂先生を一瞥する。
俺の視線に気づいた伊坂先生は、ただ頷くだけ。
「オーナーに委ねます」ということだろうか。
「……わかりました。そこまで言うのであれば、八月最終盤の新潟である新馬戦、そこで必ず乗ってください」
「……! ありがとうございます! 必ず予定を空けておきます!」
「これはついでですが――」
「……はい」
「シアトルスルーに、会っていってください」
小田部さんはシアトルスルーと対面するなり、
「やはり……シアトルスルーはいずれ大成しますよ。世界レベル――いや、世界最強レベルになります」
そう言い放つものだから、俺からしたら遠い目をするしかなかった。
自身が愛した最強馬に関する怪文書を執筆するほどの者だ。覚悟はしていたものの……これは予想以上だったが。
「小田部くん」