関東のやり手である小田部さんと知り合ってから、遂に約束が果たされる時が訪れる。
八月の最終盤――新潟競馬場の芝1600mで行われる新馬戦。
その新馬戦から、新星が生まれ落ちる。
そんな様子を表すように、競馬場内はとても新馬戦とは思えない緊張感で包まれていた。
一頭の黒鹿毛がパドックに姿を見せるなり、観衆が息を呑む音がこちらにも伝わってくる。
八頭の若駒が競い合い、勝ち抜くのだが、視線はただ一頭にしか注がれていなかった。
その視線の先は、五番の黒鹿毛――小田部信夫さんが騎乗する予定のシアトルスルーである。
この圧倒的な注目度に、馬主としては誇らしくもあるが、同時に緊張感の一部が俺に差し向けられているようでならない。
そのおかげか、はたまたそのせいか、先ほどから背筋に冷たい水が伝いまくっている。
足もガタガタと震えて止まらない。おかしい、GⅠの馬主席で痛いほどに慣れたはずなのだが。
やがて騎乗合図が発せられると、小田部さんがゆったりとした足取りでシアトルスルーに歩み寄る。
異常なぐらいの注目度の高さの要因なのだが、原因というか元凶は間違いなく小田部さんだろう。
関東の硬派なやり手が関西馬、それも微妙な血統の外国産馬に乗るなど、傍から見たら狂っているようにも思える。
そんなことを今、小田部さんは仕出かしているのだから。
周囲の視線など気にする様子もなく、小田部さんはシアトルスルーの手綱を取る。
するとどういうことか、小田部さんの口角が釣り上がった。
それはまるで――勝利を確信しているような微笑みだった。
ゴーサインを発し、駆けていく。
一歩、また一歩と走るたびに小田部さんの笑みは深まっていく。
まるでスルメを噛みしめ、味わっているような表情だ。
鞍から伝わるシアトルスルーの手応えを楽しむかのように。
そして――シアトルスルーがどういう勝ち方をしてくれるのか、心を踊らせているように。
その姿は、まさに理想と巡り合った人間そのものだった。
この姿を直に目の当たりにしてしまってから、俺の中の印象は怪文書執筆名手というより理想を直視してしまった狂信者に移り変わってしまった。
とんでもなく失礼だが、これを見てしまったからには……仕方ないというものだろう。
シアトルスルーは五番のゲートに収まり、静かに時を待つ。
馬主席から眺めていても、シアトルスルーの落ち着きようは素晴らしいというより異常さが際立っていた。
ゲートに入っても落ち着きを失うどころか、じっと待ち構えるばかり。
ゲートを理解しているような素振りに、流石の小田部さんも動揺しているようだった。
そのせいだろうか――
ゲートが開いた瞬間、初っ端から小田部さんが手綱を押して押して押しまくったのは。
『スタートしましたっ! 圧倒的な一番人気、五番シアトルスルーが飛び出て……鞍上小田部信夫は手綱をグイグイ押しています。後続と四、五、六馬身……かなり差を広げていきます』
ちらりと小田部さんが後ろを振り返った頃には……後続とは六馬身もの差がついていた。
みるみるうちに小田部さんの顔が青ざめていく――そんな様子が馬主席からでも窺えた。
恐らくだが、小田部さんの中では逃げるつもりなど毛頭なかったのだろう。
だからこそ、このようになってしまってはもう逃げ切る他ない。そう、1600mというマイルをだ。
だが小田部さんは決心したように手綱を抑え直す。
自身が盲信する馬がここで負けるはずがない――そう考えたからこその持ち直しだろうか。
このまま逃げ切る作戦に急遽変更したようだ。
『シアトルスルーが逃げます、逃げて逃げて逃げまくります。このまま逃げ切るのかシアトルスルーと小田部信夫。後続との差は八馬身に広がっております。
1000mの通過タイムは……っ!? なんと57秒! とても二歳馬が出していいタイムではありません! これは果たして保つのか!? シアトルスルー!』
ざわめく場内。それすらものともせずに淡々と逃げ続けるシアトルスルー。
もはや言葉を失って、開いた口が塞がらなかった。
シアトルスルーは本来アメリカのダートで活躍した名馬……なのだが、新潟の芝をすいすいと推し進んでいく。
芝への適性を見せつけながら、シアトルスルーが仕掛け始める。
最終直線に入り――小田部さんは手綱を押さず、敢えて持ったまま。
もはや勝負は決した。なぜなら――
押さずともシアトルスルーが伸びに伸びているのだから。
大逃げでの消耗はどこにいったのやら。楽々とゴール板にまで至った。
掲示板に表示されたタイムは――1:33:9という、馬主の俺でも目を疑うようなタイムであり、着差に関しては文句なしの大差と、信じられないことが目の前で起きていた。
だがこれは、アメリカンドリームの始まりに過ぎなかった。
「小田部信夫騎手、おめでとうございます。どうしてもシアトルスルーの勝ちっぷりを伺いたくて……」
「ああ、いいよ。シアトルスルーに関して話したいことは山ほどあるからね」
「ありがとうございます。早速ですが、シアトルスルーの乗り心地はどうでしたか?」
「うん、恐ろしいぐらいによかったよ。たとえるなら……いい意味で操作が効きすぎるスーパーカーだね」
「では、小田部騎手の中ではこの馬が最速と?」
「いや、最速どころの話じゃないね。この馬は――最強だよ、世界最強レベル」
「……! そこまで言い張るとは……! それほどの馬、ということですね?」
「そう、だね。僕の中での最強が覆るぐらいだから」
「そこまでとは……。もう少しお伺いしても?」
「ああ、いいけど」
「では次ですが――」
ルドルフの脳は真っ黒焦げよ。