この日――川崎競馬場には激震が走った。
場内は静まり返り、やがてどこからかどよめきが上がっていく。
ただただ驚嘆するばかりだった。
あまりにも衝撃的なその走りに。
黒鹿毛の牝馬――その鞍上は一本の指を掲げる。
その姿はまるで――自分たちこそが絶対だと宣言しているようだった。
黒き閃光は確かに群を射抜き、ひとつの頂に立ってみせた。
そんな牝馬の馬主である俺でさえ、言葉を失っていた。
彼女の競馬を一言で表すなら、魔王そのものだ。
他の追随など許さず、徹底的に叩き潰し、勝利を目指す――ただそれだけ。
牝馬につけられた馬名の意はかなり物騒だったはずだが、どうやら走りはそれ以上に物騒だったようだ。
黒鹿毛の牝馬の名は――ラフィアン。
史実では米国競馬で名を馳せ――散っていった、屈指の名牝である。
そんなラフィアンなのだが、今彼女は米国ではなく、日本――それも地方の川崎競馬場にその姿を表している。
JpnⅠ全日本二歳優駿、ダート1600m。
その舞台で、ラフィアンは他馬に埋めようのない差を見せつけた。
十九馬身という、絶望せざるを得ない着差をつけて。
時は遡って1972年。
米国に渡り、そこで当歳馬のセールに参加していたが、なかなか良さそうな馬には巡り会えなかった。
米国は世界有数の馬産地である。セールも盛んであるため、良馬との巡り合わせを狙っていたが……そんなに甘くなかった。
だが――幸運の女神は、俺に微笑んでくれたのかもしれない。
溜め息を吐き、重くなった腰を上げた時だった。
一頭の当歳牝馬が登場した――ここまではどうとも思えなかった。
当歳牝馬は会場内を落ち着きなく見渡していた。
その姿が愛らしく、視線を向けてみたら――当歳牝馬と目が合ってしまう。
同時に、彼女の頭上に信じがたい馬名が表示される。
そう――『☆ラフィアン』と。
瞬間、自然と俺の手が掲げられていた。
次々と手が挙がるも、それでも譲る気はまったく起きなかった。
かなり手痛い出費にこそなったものの、俺は当歳牝馬を連れ帰る権利を得て、帰国の途につく。
競走馬になったらラフィアンという馬名をつけよう――なんて密かな楽しみを秘めて。
1974年に戻って、全日本二歳優駿を圧勝してから。
ラフィアンの様子見と今後の方針の相談も兼ね、栗東にある伊坂周二厩舎を訪れ――唖然とすることになった。
「伊坂先生、こんにちは。早速ですが、あれはどういうことで……?」
「……あれは勘弁してやってください」
困り果てたように溜め息を吐く伊坂先生を横目に、ダートコースを駆け抜けていくラフィアンの鞍上を確認してみる。
「……何をやってるんですか、小田部さん」
騎手――小田部信夫さんは俺の存在に気づいたようで、ラフィアンの手綱を引いて止めると、そそくさと鞍から降りる。
「ああ、オーナー! こんにちは! ラフィアンはとてつもなくいい調子ですよ!」
こちらを向いて、挨拶を投げかけてくる。
それでもラフィアンの手綱を手放そうとしない様子から、余程気に入った馬のようだ。
いずれ怪文書でも書きそうな勢いだが……そうなった際は必ず買わせてもらうとしよう。
「……なぜここに?」
「ラフィアンのためならどこにだって行きますよ!」
この有様である。相当に脳を焼かれている。
小田部さんは関東で名を馳せる名手。そのはずなのに、ここ最近はなぜだかずっとラフィアンにつきっきりだ。
「可愛いでしょう、ラフィアン」
「べっぴんさんですね、わかります」
「そこは私も同意しますね」
「伊坂先生!?」
まさか伊坂先生からも返答が飛んでくるとは思わず、つい振り返ってしまう。
「頑固者ではありますが、けっこう可愛い仕草もしてくれましてね。厩務員も私も、この通り骨抜きにされています」
伊坂先生は苦笑しつつ肩を竦める。
どうやら、ラフィアンは伊坂厩舎の人気者のようだ。
「ラフィアンは可愛いんですよ。意外と人懐っこい面もあって。ただうちの牧場長はラフィアンに散々にやられましたがね……」
「ありゃまあ……」
「……そういえばオーナー。次走はいつにします? 自分としてはいつでもどこでもいいですが」
すっかり忘れていたことを小田部さんに尋ねられ、我に返る。
「ああ、そうでした。その件でおふたりにお話がありまして」
「……はい?」
「まさか……アメリカに遠征、とか?」
「なぜわかるのですか……」
関東の名手の読みとやらは本当に恐ろしい。
自分が話そうとした内容が見抜かれたのだから。
だがそうなると話は早かった。
「しばしの休養を挟み、ダート1800mのGⅠケンタッキーオークスに出走させたいのですが……どうでしょうか?」
「確かにその言葉を待ってましたが、ケンタッキーダービーにしません?」
「えっ」
「……小田部くんに便乗する形になりますが、海外遠征するならケンタッキーダービーを大目標にしたほうがいいかと。牡馬相手だとさらに力を発揮してくれるようですし」
「……前哨戦はどうします?」
「ちょっと間隔が空いているダート1800mのGⅠフロリダダービーが理想ですね。少しでも疲労を取って挑みたいです」
……史実での結末を鑑みるなら、確かにそのローテーションがいいかもしれない。
だが史実での勝ち馬は……いや、立ち向かうとしよう。
ラフィアンが立ち向かうなら、俺も覚悟を決めねばなるまい。
「では――来年の三月末。アメリカに乗り込むとしましょう」
伊坂先生が拳を突き出すと、いつの間にかラフィアンを引いてきていた小田部さんもそれに合わせて突き出す。
最後に俺が突き出し、三人同時に拳を掲げる。
その行動と同時に、ラフィアンが天に向って嘶く。
ラフィアンを連れてアメリカに乗り込む――史実を知っている俺からしたら、少しおかしさを覚えることだったが、そんな雑念はすぐに振り払う。
ラフィアンはきっと、生きて帰る。
運命などぶち壊して、振り切ってしまえ。
俺たちがその助けとなるのだから。
『ラフィアンの背 著者:小田部信夫』