「……それは本当ですか? オーナー」
こちらを見つめる目は見開いていて、動揺と驚愕が入り混じったような表情――伊坂先生は、信じられないものを見るかのような視線を向ける。
栗東の伊坂厩舎。ここに預託している三頭の様子見と、伊坂先生へのとある報告も兼ねて、そこを訪れたのだが。
報告を聞いた瞬間から、伊坂先生の顔色が明らかに変わっている。
「はい――本当ですよ。テスコガビーを購入して、アメリカからアレフランスも購入してきました」
「テスコガビーはともかく、アレフランスを購入したというのは……?」
「ああ、凱旋門賞勝ちのある繁殖牝馬ですね。とてもいい馬体でしたし、父がシーバードだったので。思わず購入してしまいました。……かなりの出費にはなったのですが」
伊坂先生の口が水から打ち上げられた魚のように開閉する。
ある程度の反応は予想していたのだが、まさかここまでとは。
「……アレフランスは世界が誇る名牝ですよ。それを購入できる日本人馬主とは……」
「……まあ、その分、かなりの出費にはなりましたがね……」
「だいたいおいくらぐらいで……?」
無言で指を三本立ててみせる。約なのでだいたいだが。
すると伊坂先生はまたもや目を見開く。
「……話は変わりますが、カブラヤオー、グリーングラス、シアトルスルーの様子は?」
流石にこれ以上はまずいと察してしまったがため、無理矢理にでも話を変える。
伊坂先生もそんな空気を知ってか知らずか、「こちらです」とコースへ招き入れる。
……その際、伊坂先生の足が震えていたのだが、どうしても指摘する気にはなれなかった。
十一月も中盤に差しかかり、さらに寒さが強まる。
だがそんな寒さなど意にも介さず、黒鹿毛の二頭が並んで芝コースを駆け抜けていく。
レースでもないのに、これが本番かのような――そう思い込んでしまうぐらいに、カブラヤオーとシアトルスルーの併せ馬は圧倒的だった。
双方とも騎乗しているのは――全戦で鞍上を務めている主戦騎手。
つまり、カブラヤオーには倉田さん、シアトルスルーには小田部さんが乗って走っているのだ。
コーナーを曲がり、直線コースに突入していく。
カブラヤオーは内、シアトルスルーは外。それぞれのポジショニングを以って決着をつけようとしていた。
互いに鞭が入る。
倉田さんも小田部さんも、相当に白熱しているようだった。
今の芝コースは、二組だけの世界。
もうすぐだ。この併せ馬の勝者が決まる。
「――そこまで!」
伊坂先生の一言によって、両馬の鞍上が手綱を引く。
二頭はすんなりとその指示に従い、徐々に速度を落とし、やがて止まる。
その直前だった。カブラヤオーが僅かに前に飛び出ていた。
「いやぁ、倉田くんのカブラヤオーも強い。まったく振り切れないとは」
「いえ、小田部さんが乗っているシアトルスルーも相当でしたよ。負ける気は毛頭ありませんでしたけど」
両馬の鞍上は笑顔を浮かべていたが、空気は明らかにピリついていた。
ホースマンが自身の脳を消し炭にした馬に関わるとこうなる。改めて思い知らされた。
カブラヤオーとシアトルスルーの併せ馬を遠目に眺めたところで、伊坂先生に向き直る。
「そういえば、伊坂先生。カブラヤオーとシアトルスルーなんですが……」
「……はい?」
「カブラヤオーは来年の大阪杯を勝ったら、シアトルスルーは今年の朝日杯を勝ったら海外遠征させませんか?」
「……! 本当ですか!?」
「はい。カブラヤオーは大阪杯を勝利したら渡仏。芝2400mのGⅠサンクルー大賞典、GⅡフォワ賞を経て、凱旋門賞へ。
シアトルスルーはサウジアラビアロイヤルカップ、デイリー杯二歳ステークスを勝ってくれましたし、朝日杯に出走して勝利したら渡米。ダート1800mのGⅠサンタアニタダービーを経て、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスへ。それらを勝ちましたらトラヴァーズステークス後、BCクラシックに。
……どうでしょうか?」
「二頭とも世界クラスですからね。私もそう考えておりました」
「では……!」
「はい。来年は海外遠征を決行する方向でいきましょう」
「……! ありがとうございます!」
「そのために、まずカブラヤオーはジャパンカップ、有馬記念、来年の大阪杯。シアトルスルーは朝日杯を勝たなければなりませんね」
伊坂先生は解すように腕を回す。
「調教にも一層励まねば……!」
どうやら、伊坂先生にもスイッチが入ったようで。
カブラヤオーたちの調教にさらに熱を注入しそうだ。
カブラヤオーはジャパンカップと有馬記念、グリーングラスは有馬記念、シアトルスルーは朝日杯を目標に――それぞれまた駆けだす。
まだ見ぬ怪物がエンジンを動かし始めたことなど、失念したまま。
ヒシスピード兄貴……。