狂気的な逃げは、過去も、果てには未来すらも置き去りにした。
誰も追えない、たった一頭の独走。
傷ひとつない三つの冠を戴いたあとに手にしたさらなる栄光。
数多の強豪が彼を追った。
しかし――ついてこれる者など存在しなかった。
彼の走りはトップスピードで先頭を駆け抜けること。ただそれだけだった。
日本競馬史に燦然と輝く史上初の無敗三冠馬。
その馬の名は――
――1975年有馬記念勝ち馬、カブラヤオー。
年度末表彰が閉会し、拠点である牧場に戻り、育成場を訪れてみると、そこに広がっていたのは、もうすぐ二歳になる牡馬が暴れ回っている光景であった。
すぐに誰かわかってしまう――そう、ジョンヘンリーである。
牧野さんが必死にジョンヘンリーの引き綱を引いているが、けっこう引っ張られまくっている。
飛び跳ねまくるわ、飛び跳ねまくるわ。ホップ、ステップ、ジャンプが見事に決まっている。
こうして見てみると、ジョンヘンリーという馬の身体能力の高さが窺えるが……それはそれとして気性があまりにも悪すぎる。
史実で騸馬にされてしまうのも納得といった具合だ。
「ちょっ、オーナー! たっ、助けてくださーい! 力強すぎて引くどころか引かれてますー!」
……まずはジョンヘンリーをなんとかして牧野さんを救出するとしよう。
「おーい! 来たぞー!」
俺の声が響き渡ると、ジョンヘンリーは立ち止まり、耳をピンと立て、キョロキョロと辺りを見回す。
立ち止まってくれているジョンヘンリーを驚かせぬよう、ゆったりと歩を進め、彼の前に現れる。
そうすると牧野さんを引っ張りながら駆け寄ってきてくれた。
ジョンヘンリーの首元を撫で回し、まずは動きを止める。
その隙を突いて、牧野さんは一旦ジョンヘンリーから離れる。
言わずもがな、牧野さんはボロボロであった。
「だ、大丈夫ですか? 牧野さん……」
ジョンヘンリーの額を撫でつつ、牧野さんの状態を尋ねる。
「危なかったです……すみません、オーナー……」
言うまでもなく、明らかにぐったりとしていた。
ジョンヘンリーの馴致をふたりがかりでなんとか終え、事務所に戻ったはいいものの、互いにボロ雑巾のような状態になっていた。
「気性が……激しすぎる……」
ソファに腰かけた牧野さんが溜め息を交えて呟く。
俺としても、あれには頭を抱えるしかない。
「……ジョンヘンリーの預託先、どうします?」
「伊坂先生に押し……預かってもらう予定です。あの荒馬を御せるかはわかりませんが……」
一方で俺は、もうひとつのソファに顔を埋めて答える。
伊坂先生が俺たちと同じように頭を抱える光景が容易に想像できる。
厩務員が頭突きを喰らわないかが少し心配だが……その時はその時だろう。
可愛い愛馬は凶暴である。
「あっ、そうそう。オーナー、表彰はどうでした?」
思い出して、ハッとする。
ジョンヘンリーに気を取られすぎてしまっていた。
ソファから起き上がり、三本の指を立てる。
「ひとつ目、シアトルスルーが最優秀二歳牡馬に。
ふたつ目、グリーングラスが最優秀三歳牡馬に。
三つ目、カブラヤオーが最優秀古馬牡馬、そして……二年連続で年度代表馬に選出されました!」
「えっ、本当ですか!?」
「何を仰る。本当ですよ」
ふたりで抱き合い、飛び跳ねる。
それぞれが表彰されたこと、それからカブラヤオーが再び年度代表馬に選出されたことに。
二年間無敗に加えて、無敗のまま秋古馬三冠達成。
決定的な要素は、やはりそれらだったようだ。
「やりましたね! カブラヤオーがまさかここまで活躍してくれるとは……!」
まさにその通り。感無量である。
テスコガビーも、TTGも蹴散らした果てに見える景色は、さぞいいものに決まっている。
三つの冠には未だ傷ひとつなし。
この勢いを保てれば、必ず世界にも手が届く。
そう――まだまだ道は続いているのだ。
来年、カブラヤオーは国内で一戦したあと、勝利すればフランスに渡る。
日本の三冠馬を凱旋させる――世界に日本競馬を見せつける。
「本当に底が見えませんよ、カブラヤオーは」
俺はただ笑みを浮かべる。
来年も、まだ見ぬロマンを追い求めるとしよう。
――その時が迫っていることなど、露知らず。
『無敗三冠馬が倒せない 歌唱:テスコガビー』