春の盾獲り――天皇賞(春)が間近に迫るなか、栗東トレセンにはピリピリとした緊張感が張り巡らされていた。
天皇賞(春)といえば、京都競馬場の芝3200mで開催されるGⅠであり、古くから存在感を放つ八大競走の一角である。
出走できるのは、四歳以上の古馬のみ。数多の激戦をくぐり抜けた猛者たちが集結する、日本競馬屈指の長距離レース。
史実において、この時代の日本競馬では、春の盾はとても重要な位置づけにある。
持続力があり、成長力があり、スタミナもスピードも充実している――勝ち馬に求められる条件としては、これらの要素ではないだろうか。まあ、そんな理想を体現したようなサラブレッドなどそうそういないのだが。それがたまに現れるのだから競馬はやめられない。
伝統の春の盾。秋の盾と並び称される大レース。
その前週にあるのだから、日本のホースマンが緊迫するのは当然といえる。
どの馬が出走して、どんな競馬をして、どのように勝つのか――気になる要素は盛りだくさんである。
そんなふうに緊迫しているホースマンには、もちろん俺も含まれる。
なんせ所有するグリーングラスが出走するというのだ。前週にあって緊張しないわけがない。
けれどもだからこそ、こうして栗東トレセンを訪れたのだが。無論グリーングラスのもとへ足を運ぶ。
「グリーングラスの様子はどうですかね?」
「抜群にいい動きをしてくれていますよ」
俺の問いかけに、隣を歩く伊坂先生が答える。
GⅡ阪神大賞典(芝3000m)を叩き台に使ってもなお、グリーングラスの状態は万全であるという。
「脚、大丈夫そうですか? 違和感なんかあったり」
「まったく大丈夫そうです。違和感なども見受けられません。阪神大賞典を経て闘志には火が点いていますし、勝機は十分あります。ただ……」
表情を苦いものに一変させ、伊坂先生は続ける。
「問題は出走馬にテンポイントがいるという一点のみですね。菊花賞、京都ではどうなることやら……」
そう、菊花賞でグリーングラスを破った『貴公子』テンポイント。それとまたもや相まみえるというのだ。
俺の所有するグリーングラスと同じく関西馬であり――この天皇賞(春)で人気を集めており、最有力馬だと見なされている。
競馬新聞によれば、想定一番人気はテンポイント。この世界では菊花賞馬であることが最大の決め手となったのだろう。
そして二番人気こそが、昨年のダービー馬であるグリーングラスとされている。
見出しでは大々的に『TGの一騎打ち、決戦来たる』と書かれ、実際、どちらが勝つかという論争がたびたび起きている。
それが決着するときこそ、来週の天皇賞(春)である。
まさに負けられない一戦。ホースマンとしてのプライドでも、菊花賞での雪辱的にも。
と、思考を巡らすうちに芝が敷き詰められた馬場が目に入ってくる。
俯かせていた面を上げると、芝コースを疾駆する人馬が。
そう、グリーングラスと主戦騎手の的田弘さんだった。
春の盾を奪取すべく、本来なら関東に所属している的田さんがわざわざ栗東まで乗りに来てくれている。以前からかなりの頻度で調教に乗りに来てくれているのだが。いったい何が的田さんを突き動かすのだろうか。
菊花賞での完敗か、あるいは自身をダービージョッキーに輝かせた馬への恩返しか、はたまた別の要因か――。
いずれにせよ、的田さんも的田さんで天皇賞(春)に向けて気合いが入っているのだろう。
こうしてやれることをやりに来てくれているのだから。
と、気づけば傍らに控えていた伊坂先生が姿を消していた。
どこへ行ったのか、気にかかって周囲を見回すと、
「おーい、的田くん! もういいぞ!」
グリーングラスのほうに歩み寄り、口元に手を添え、メガホンのようにして呼びかける伊坂先生を見つける。
その呼びかけに応じて的田さんは手綱でブレーキをかけ、疾走を止める。
と、ここで俺の存在にようやく気づいたようで、慌てて下馬し、ペコリと一礼したのち、小走りでやってくる。
「すみません! どうにも熱中しすぎてたようで……」
「いいんですよ的田さん。むしろこんなに調教に乗ってくれるのはありがたい限りです。今後ともグリーングラスに乗っていただければ……」
「ちょっ!? 頭を上げてください! 僕のほうこそ乗せてくださいと言いたいですよ!」
「そうまで言っていただけると嬉しいですね。鞍上はなるべく固定しておきたいので。それに……」
グリーングラスが厩務員を引きずりながら、こちらに歩いてくる光景を傍目に。ふっ、と微笑んでしまう。
「グリーングラスはあなたがお気に入りなようですからね」
まるで「構ってくれ」とでも言っているかのように頭を的田さんの後頭部に擦りつけてくるグリーングラス。
愛らしい姿ではあるのだが、的田さんはやや押され気味。これには厩務員も苦笑いしていた。
お気に入りの騎手を背に、遂に
馬主である俺からしたら、勝利を願うことしかできない。けれどもだからこそ、祈り、願うのだ。
彼らの安全と、あわよくば勝利を。
『春先の京都競馬場に、十六頭の強豪が集いました。春の盾、最高の栄誉を手にするのはいったいどの馬でしょうか? 大本命の貴公子テンポイントか、昨年のダービー馬グリーングラスか、はたまた伏兵か。伝統の長距離GⅠ、天皇賞(春)。ただいま十六番のテンポイントが収まります』
馬主席から見えるのは、既にゲート入りを済ませた各馬。
九番に入ったグリーングラスは、ゲートに入っても動じることなく落ち着いた様子で佇んでいる。あとはもう、スタートを待つだけ。
大外枠に収まった菊花賞馬テンポイントも、落ち着いているようだった。
狙うはただ一頭。作戦は既に決まっているのだから。
『1977年天皇賞(春)が、TとGの競走が、幕を開けます!』
そうして、時は満ち――間もなく告げられる。
乾いた音と共に、優駿たちは飛び出していく。
『スタートしました! テンポイントが飛び出したテンポイントが飛び出した! 好スタート! テンポイントは好スタートを切ってくれました! 内に切り込むテンポイント! ここは最内に着けるべきと読んだか、テンポイント! しかし逃げ馬にいかせて三番手、テンポイントは三番手の位置です。不気味に潜んでおります。
グリーングラスはやや出負けしたか六番手。これは既に勝負あったか、グリーングラス、的田弘は前から数えて六番手であります』
思い描いていた以上に、グリーングラスはのっそりと出てきた。対するテンポイントは抜群としか言いようがない好スタートを決めてきたのだから、これには焦るというもの。
それでも、淡々とレースは進んでいく。
グリーングラスは馬群の真っ只中、中団のやや前目。そう、六番手の位置。
あそこから抜け出すのは容易ではない。しかもこれは3200mという長丁場であって、垂れていく馬も多い。
そんな中でいったいどうやって抜けてくるのだろうか。見てみたいが……どうしても目を背けたくなってしまう気もする。
『第一コーナー、最初の坂に差しかかります。さあTとGはどのようにいくのでしょうか。テンポイント、グリーングラス、両者ともスタートからのポジションをキープしております』
グリーングラスは未だに馬群に包まれたまま。この状態で坂を登るというのは、かなりのスタミナロスに繋がってしまう。
……的田さんは何を考え、どう動くつもりなのだろうか。
段々と胸騒ぎがしてくるが、今はそんなことなどに思考を割けない。
ただ、提示された作戦は守っているのだろうと、不思議とそう思えた。
1000m――テンポイント、グリーングラスともに動きなし。
通過タイムは1:02:5――遅くもなく、早くもない印象であった。
淡々としたペース。だがそうでないと馬が保たないこともあるかもしれない。
京都競馬場の、3200mという長丁場。
観客が待ちわびるのは、TとGの一騎打ち。
祈るように、手と手を絡める。
胸の奥からドクンドクンと響く。
果たしてどうなのか――妙に心臓が拍動する。
『2000mを通過して、残り1200mを切りました。春の訪れと共に台頭するのはどの馬か。間もなく最終直線となります!』
残り1000m。グリーングラスは未だ中団。テンポイントもまだ動かない。
残り800m。テンポイントの手綱が押され始める。グリーングラスは抜け出せない。
残り600m。テンポイントが逃げ馬二頭を躱した刹那――!
『やはりテンポイント、テンポイントだテンポイントだ! 抜け出したのはテンポイント! グリーングラスはやってこないか!? 緑の刺客はどうした!? テンポイントは既に抜け出している! テンポイントの独走!
いやグリーングラスがやってきた! グリーングラスやってきた! 的田弘の、グリーングラスがやってきた! ダービー馬が追い上げてきた! テンポイントに並びかけるか!? 並びかけるか!? 貴公子が負けじと踏ん張っている! 残り200m! テンポイント引き離せ! テンポイント引き離せ! だがグリーングラスが、グリーングラスがアタマ差抜けた! テンポイント、テンポイントは差し返せない! 貴公子の喉元を穿ったグリーングラス!
グリーングラスが今、ゴールイン! 貴公子討ち取ったり! グリーングラスが、緑の刺客があっさりと貴公子テンポイントを討ち取りました!』
優勝レイで着飾ったグリーングラスと、九番のゼッケンを手に持つ的田さん。
京都競馬場のウィナーズサークルには、俺たちグリーングラス陣営が立っている。俺は馬主なだけだが。
贈呈された春の盾を天に掲げる。その際に思わず飛びそうになったが盾が危ないのでやめておいた。
だがこれで菊花賞での無念は晴れただろう。
グリーングラスの実力を存分に引き出せて、テンポイントに勝利できたのだから。
それにしても……最終直線でのグリーングラスの瞬発力はどこから来たのだろうか。
そこが少々謎だったが、もう気にしないことにした。
とにもかくにも、今はGⅠ二勝目を飾ってくれたグリーングラスを称える他ないだろう。
「……また買ってきたんですか?」
「……はい」
周辺を元気よく飛び跳ねまわる当歳馬を傍目に、牧野さんから早速説教を受けることとなってしまった。
なんたってまたアメリカから当歳馬を買ってきたのだ。しかもかなりの良血馬だし。
放牧地を走り回る当歳馬を見つめて、内心で頭を抱える。
――どうして買えてしまったんだ、と。
当歳馬の頭上には、『☆ダンジグ』という馬名が表示されていた。
おは大種牡馬。