シアトルスルーに初めて乗ったときから、僕は壊れ始めていたのかもしれない。
なんたってシアトルの鞍上となって以降、今ではシアトルのことしか頭にないのだ。
今までの僕なら、ただ手応えがいいだけの実力馬という認識しかしてこなかったのに。
これまで騎乗してきた馬たちが霞んでしまうぐらいには、僕の価値観は引き裂かれてしまっていたようだ。
だけれど、それでいいとも思えてしまう。
いや、むしろそうでなければダメなような気すらしてしまう。
僕にはシアトルが馬ではない何かに見えてしまう。
たとえるなら……そう、夢そのものだ。
こんな馬に乗りたい、という僕の夢が凝縮され、馬に生まれ変わったとしか思えない。
それぐらいに、あまりにも。
シアトルスルーという名馬は、僕の中で絶対的な最強馬だ。
四月にあったGⅠサンタアニタダービー(ダート1800m)をシアトルが圧勝し、それからの五月。
今日も今日とて、アメリカのダートコースで調教に勤しむシアトルには、僕が騎乗している。
手綱を扱いて仕上げるだけ。そんな行為だけでも、シアトルのグッとくる手応えには毎回毎回感動しそうになってしまう。
サンタアニタダービーでの彼は輸送もあってだいぶ不調だったが、今では朝日杯でマルゼンスキーを打ち破った際――いや、それ以上に調子を上げつつある。
これならば、今いるチャーチルダウンズ競馬場が誇る大レース――ケンタッキーダービー(ダート2000m)も楽勝そうだ。
米一冠目のケンタッキーダービー――シアトルが手にするに相応しい栄冠のひとつ。
間違いなく米国中から数多の強豪三歳馬が集まるだろう。確かに試練が待ち受けるだろう。
もっとも――シアトルスルーならばその全てを打破できるが。
ああ、僕はどこまでも壊れてしまっている。
だけれど、そう、これでいい。むしろこうなったほうが競馬の楽しさを再認識できた気がする。
僕はただ、シアトルを盲信し、邪魔にならないよう乗るだけ。
この馬ならばどんな騎手であろうと、どんな窮地に陥ろうと米三冠全てを勝ち抜いてしまうだろう。
もはや最強馬以外の何ものでもない。
僕を壊す馬など、この世にいないと信じていた。
僕が馬を盲信するなど、ないことだと思い込んでいた。
そう。これだから競馬はやめられない。
今年のケンタッキーダービーをリサーチする限り、シアトルに勝つような馬はいない。
もしシアトルに圧勝するかもしれない馬が現れるとするなら、その馬は間違いなく五年連続で年度代表馬に選出されたケルソや快速馬ドクターファーガーなど、歴史上に名を残す名馬クラスだ。
まあ、そんな馬がそうそう現れて堪るかという話なわけだが。
「ミスター・オタベ、オーナーが来たぞ」
と――ケンタッキーダービーに想いを馳せているうちに、いつの間にかオーナーがいらっしゃったようだ。
今僕に声をかけてくれた男性はアメリカの調教師で、名はベブ・ファバードというらしい。
サンタアニタ競馬場でのシアトルの走りっぷりに感動したようで、彼からは「ぜひオーナーを紹介してくれ」と頼み込まれている。
そのオーナーが遂にアメリカにやってきたからか、彼の声音はどこか弾んでいたように思える。
そんなファバードは僕に声をかけるなり、早歩きでオーナーがいるらしい方向へ行ってしまった。
シアトルの疾走を止め、下馬したところで――早くもファバードに連れられて彼はやってきた。
ファバードがやや興奮気味に話しているからか、彼にしては珍しく少々引き気味であったが。
最初こそオーナーは顔を引きつらせていたが、シアトルを見かけると笑顔を浮かべ、こちらに手を振って駆け寄ってくる。
「小田部さーん! お疲れさまです!」
「オーナー、お待ちしておりましたよ。あまりにも待たせるものだから先にGⅠを勝っておきましたよ」
「ハハハ! それは頼もしい!」
オーナーは快活に笑う。その言葉が本心であることはすぐにわかった。
「ミスター・オタベ、この方がシアトルスルーのオーナーだな?」
「ああ。彼がオーナーだぜ。シアトルの他にもとんでもない馬を多数所有しているからね、敵に回さないようにな」
「そんなことなどするつもりはないさ!」
ファバードは笑い飛ばしたが明らかに目が泳いでいた。さては何かやらかす予定だったのかもしれない。
「ああ、オーナー。遅くなりましたね。彼はアメリカの調教師で、ベブ・ファバードといいます。まあ、伝手はあったほうがいいと思うので、紹介しておきます」
「シアトルスルーのオーナー、以後お見知りおきを」
「は、はぁ……」
ファバードの話になるたびに、オーナーの表情に暗雲が差す。
何かあったのだろうか……探らないでおくが。
「あっ、そうだ! 小田部さん! シアトルスルーはどうです?」
「サンタアニタダービーのときは絶不調でしたが、今は持ち直して万全まで持っていけてます。いつでも出れますよ」
「本当に頼もしすぎますね、小田部さんは」
「これほどの馬に乗せてもらってますからね。僕が乗っていたいのもありますが」
「ハハハ、流石変態怪文書名手」
「…………?」
「すみません、なんでもないです」
なにやら蔑称のような言葉を吐かれた気もするが、敢えてスルーすることにしよう。
ともかく、ケンタッキーダービーまであと三日しかない。心が高ぶりに高ぶる。
「オーナー、ケンタッキーダービーどころか、米三冠全て勝ちますよ。なんたってシアトルは……」
――最強馬なので。
そう断言するのは、一頭の馬に脳と常識を焼き尽くされた騎手だった。
【シアトルスルーに脳を焼かれた人 ~アメリカのある調教師~】
「なんだあの馬は!? 不調そうなのにサンタアニタダービーを勝ったぞ!? けっ、血統は……ハアッ!? マイナー血統じゃあないか!?
良血でもないのになぜあそこまで走るんだ……いったい何が違うんだ……。あれは、あれは間違いなく、セクレタリアトに匹敵する存在になるぞ!? なぜあんな血統で……。
……やっぱり、走る馬は走るか。ハハハ、ハハハハハ! ボクの完敗だよ! よし! もう良血に拘りすぎるのはやめやめ! 走る馬はとことん走る! ジャパンからの来訪者よ! 感謝するよ! いつかキミのオーナーと会ってみたいものだ!」