凱旋門賞を惜敗という結果で終え、俺たちは日本に帰国した。
三冠馬となり限界を超えたカブラヤオーでもなお、世界にはあと一歩及ばず。非常に悔しい結果となってしまった。
あと少し、あと少しの差のように見えるが、俺からするとその差は絶望的に開いていた。
この時代の日本と欧米はあまりにも格が違いすぎる。馬産だって、調教だって、騎乗だって。
ありとあらゆる技術に差がありすぎたのだ。
今回はカブラヤオーで遠征したためなんとか二着に食い込めたが、これがグリーングラスとなるとさらに厳しい。グリーングラスには申し訳ないが、せいぜい五着が限界だっただろう。
輸送面や芝質の違いという影響も大きいが、それ以前に慣れの差という壁が高すぎる。
今年の凱旋門賞は降雨によって重馬場。こうなってくると、比較的軽い芝を得意とする日本馬は善戦すらできない。
何度も言うが、今回はカブラヤオーが異常すぎるだけ。あれほど水を吸った芝をものともせず進んでいくうえ、日本競馬のようなタイムを叩き出すのだから、手応え的に勝てると確信してしまったほどだ。結果は惜敗だったが。
「カブラヤオーはよく頑張ってくれましたよ。……いやぁ、悔しい」
馬房から頭を覗かせるグリーングラスに人参を与える伊坂先生。その声は酷く震えていて、鼻をすする音も聞こえてくる。
グリーングラスが心配そうに顔を寄せている辺り、伊坂先生は泣いている。余程悔しかったのだろう。
レース後、倉田さんも「僕のせいでカブちゃんを引っ張ってしまった」と号泣しながら話してくれたから、凱旋門賞という大舞台は日本競馬にとって夢そのものなのだろう。
史実を知ってしまっている俺からすると、この夢がいずれ呪いのような何かと化していくのは、見ていて辛いものがある。
そんなことを思う俺も、夢を担うひとりとなってしまったのだが。
しかし凱旋門賞挑戦はしばらく見送りたい。勝てそうな馬が生まれるまで、ここは息を潜めたい。
今所有している馬たちだと、間違いなく返り討ちに遭う。恐らく、ジョンヘンリーが完成したとしても二着が限界かもしれない。かといってダンジグは距離とスタミナが不安すぎる。
こうなってくると、現在所有している馬の中で候補は限られてくる。
ただその馬は史実を鑑みても不良馬場を苦手とする。後世で『太陽の王子』という異名を与えられるぐらいには。
とすると、1978年に生まれてくる馬が頼りになるかもしれない。来年を楽しみに待つしかないだろう。
そういえばジョンヘンリーで思い出した。つい考えごとに耽ってしまい、伊坂先生の厩舎を訪れた理由を失念してしまっていた。
「伊坂先生、すみません。ちょっとご相談が」
「……はい、どうされましたか?」
伊坂先生のテンションが低い。というより、低すぎる。余程凱旋門賞での惜敗が堪えたのか。
「ジョンヘンリーなんですが……鞍上のほうはどうしましょう?」
「ああ、既に決めてますよ」
「早っ!?」
「ジョンヘンリーが育成を終えて入厩する時、ここを主戦予定の騎手が訪れますので、その際にご対面をお願いしようかと」
「あ、ありがたい」
テンションは低すぎるが、仕事は早すぎる。なんなのだ、このお方は。
「ああ、そうでしたか。こちらもお伝えしなければならないことが……」
なにやら嫌な予感しかしないのだが。所有馬の故障とか、なにか様子がヘンだとか、そういうことでなければいいのだけど。
「……恐ろしいですが、聞きます」
「えーと、今シアトルスルーが遠征しているBCクラシックなのですが……」
ゴクリ、と生唾を飲み込む。いったい何があったのだろうか。
「出走馬がシアトルスルー含め、僅か三頭になりそうです」
「…………え」
「で、その出走メンバーがですね、一番フォアゴー、二番がシアトルスルー、三番エンシェントタイトルとなっています」
「う、嘘でしょ……」
「本当です」
予想はしていたが、まさかケルソに匹敵する大名馬が出走してくるとは。それに加え、西海岸のアイアンホースまでもが相手となろうとは……。
警戒すべき相手はもう決まっている。フォアゴーという馬だ。
「俺的にはフォアゴーを最も警戒したいのですが……」
「私も同意見です。あれの追い込みは怖いですね」
1970年生で米三冠馬セクレタリアトとの対決経験もある騸馬フォアゴー。アメリカ競馬にしては珍しい直線での豪脚一閃を武器とする名馬だ。
フォアゴーにとってはニ回目となる米三冠馬との対決。ここは負けられないとばかりに仕上げてくるのは間違いない。
こうなってくると、流石のシアトルスルーも逃げ切れるかどうか未知数だ。それでも上手くやってくれると信じるしかないが。
ただ、フォアゴーとシアトルスルーの一大決戦となると、どうしても心が弾んでしまう。
名騸馬フォアゴーか、米三冠馬シアトルスルーか。豪脚か、逃げ脚か。
確実に名勝負となるだろう。
「ああ、それからですね、オーナー」
「はい?」
「カブラヤオーの様子がちょっとおかしいんです」
一瞬、時が止まったかのような衝撃を受ける。
「え、大丈夫なのですか!?」
「幸い、怪我はなさそうなのですが……凱旋門賞でのダメージが大きいのだと思います。ちょっと歩様に乱れが……」
ああ、ここで確信してしまう。
これ以上はいけない、と。
「……本当に悔しいですが、カブラヤオーは……有馬記念を回避して、引退させましょう」
伊坂先生が目を伏せる。申し訳ないとばかりに。
「カブラヤオーの検疫が終わった後日に、引退を発表しましょう。もちろん、倉田さんもお呼びして」
斯くして、狂気の逃げ馬はここで身を引くこととなった。
だがその走りは、産駒にも受け継がれていくだろう。
――カブラヤオー、引退。種牡馬入り。
カブラヤオー 初年度種付け料:1500万円