暮れの中山には、多くの観客が押し寄せていた。
その視線が向けられる先は、ただ一頭。
凱旋門賞後に引退を発表したカブラヤオーと、その主戦であった倉田隆景さんだ。
夕陽が沈みゆく光景をバックに、カブラヤオーは鞍上の倉田さんと共に、観衆の前を通り過ぎていく。
湧き上がる大歓声に応え、観客席に向け、倉田さんが右腕を大きく振る。
「寂しくなりますねぇ、カブラヤオーがいないとなると……」
「……そう、ですね。カブラヤオーは俺だけじゃなく、多くの人々にも夢、ロマンを与え、それに応えてきました。本当にね、偉大な名馬ですよ……」
「私も、カブラヤオーから多くのものを貰いました。……今度は私が、カブラヤオーの産駒を育て、彼に恩返しをする番ですよ」
伊坂先生は何度も何度も、腕で目元を拭っていた。
こうして伊坂先生が涙するのは珍しい。言葉にしている通り、やはりこの人も、カブラヤオーから多くのものを受け取ったのだろう。
つまるところ、伊坂先生もカブラヤオーに魅了されたひとりというわけだ。
『今年度に引退します、三冠馬カブラヤオーであります。全戦に渡って手綱を取った倉田隆景騎手が、涙を堪え切れず目元を幾度となく拭っております。史上初めて、無敗のまま三冠を達成したカブラヤオー。残念ながら凱旋門賞制覇こそなりませんでしたが、カブラヤオーは常に先頭を征き、我々に多くの希望、多くの光を与えてくれました。気が早くはありますが、カブラヤオー産駒が今から楽しみであります。
ありがとう、カブラヤオー! さらばカブラヤオー! またいつか、会える日まで!』
倉田さんが下馬し、カブラヤオーの手綱を引いてこちらにやってくる。
緑のメンコをしたカブラヤオーの姿をファンに見せるのも、これが最後だろう。
けれどその勇姿は、永遠に、忘れ去られることはない。
大逃げ馬にして三冠馬。異色の名馬は、人々の記憶にいつまでも焼きつくのだ。
「ありがとう……! カブちゃん、今まで本当に、ありがとう……!」
号泣しながら、倉田さんが手綱を引く。
カブラヤオーはそっと、倉田さんの顔に自身の額を合わせる。
この光景で、俺の涙腺は限界を迎えた。
馬が人に寄り添う光景というのは、いつ見ても泣けてしまう。涙腺が緩いとかどうこうじゃない。見るだけで昇天してしまいかねない。
倉田さんはカブラヤオーの頭に手を添え、撫でる。
割れ物を扱うかのように、そっと優しく。
ダメだ、これ以上は俺が保たない。それでも永遠にこの光景を堪能していたい。そんな自分がいる。
カブラヤオーと倉田さんを祝福するように、またもや歓声が湧き上がる。
こうして目の当たりにすると、こう実感できる。
カブラヤオーは、確かに愛されていたんだと。
後日、新しく購入し事務室に設置したラジオから、なんとカブラヤオーの話題が飛び出してきた。
お笑い馬券師だったか、そういう類の方がカブラヤオーの名前を幾度となく口にしていた。
そこからさらに時を重ねると、今度は競馬そのものを主題にしたラジオが流れ始めたのだが、その際もカブラヤオーの話題で持ち切りだった。
他にもトウショウボーイやらテンポイントやらシアトルスルーやら、そういった名前も出てきていたが、一番話題になっていたのはカブラヤオーだった。
ここまでされると、もう思い知るしかなかった。
カブラヤオーたちのおかげで、競馬ブームの気運が高まりつつあると。
預託馬の様子見も兼ねて、伊坂先生の厩舎を訪れると、少しげんなりした様子の伊坂先生が出迎えてくれた。
「お、オーナー、助けてください……」
開口一番、助けを求められたのだが。
だいたい察しはつく。察したくないが。
調教コースに通されると、予想通りの光景が目の前に広がっていた。
そう、つい最近入厩したジョンヘンリー。彼が人を背に荒れ狂うという、そんな光景だ。
ジョンヘンリーは暴れながら走っている。調教をつけている人からすると堪ったものではない。
それでもなんとか走らせている辺り、ジョンヘンリーの背に乗る人はただ者ではないのだろう。
「すみません、ジョンヘンリーの背に乗っている彼は?」
「ああ、彼ですか。……おーい! オーナーが来ましたよ!」
その一声に反応して、下馬し、ジョンヘンリーを引いてこちらにやってくる。
「ああ! オーナーさんですか! すんません、自己紹介が遅れてしまって……」
ジョンヘンリーをなんとか御するとはなかなかのやり手。きっと気性難の扱いが上手い騎手なのだろう。
「自分、
名前を聞いて、合点がいく。
なるほど、確かに彼ならジョンヘンリーを乗りこなせるかもしれない。
「一月のデビュー戦、ワイが鞍上務めますんで、そこはよろしくお願いします! あっ、ちょっ、ジョン! 暴れんでくれって!」
たぶん……上手くやってくれるだろう。
1977年度 表彰馬
最優秀三歳牡馬:シアトルスルー
最優秀古馬牡馬:カブラヤオー
最優秀ダート馬:シアトルスルー
年度代表馬:シアトルスルー(187票、カブラヤオーは113票)
顕彰馬:カブラヤオー