午後の東京競馬場に満ちているのは、肌を焦がしそうなほどの熱気。
各々から溢れる熱気が集い、この府中にそびえる競馬場を包み込んでいる。
その熱気はどこからというと、スタンドにいるファンからだったり、馬券師からだったり。もちろん、競馬関係者からもだ。
あるレースに出走する強豪たちがパドックに躍り出てから、熱気は徐々に増し始めている。
かくいう俺も手を忙しなく動かしたり、視線を右往左往させたりしていて、落ち着きなどない。
やっぱり、何度体験していてもこうなる。こうなってしまうのだと。
それほどに、ダービーという一生に一度のGⅠは、迫力やら盛り上がりやらが違う。
1978年度東京優駿、日本ダービー。すべてのホースマンの憧れであり、情熱であるこの競走の盛況ぶりは、昨年を遥かに上回っている。
三冠馬カブラヤオーの独走、TTGの群雄割拠、マルゼンスキーの楽勝。それらを経て、東京競馬場、ダービーの舞台はさらなる活気で溢れ返っている。
周囲を見渡しても人、人、人……スタンドは満員状態といっていい。
ここまで盛り上がるとは。そう内心で感嘆する。
史実ではハイセイコーブームが巻き起こったとはいえど、世間には競馬という文化が浸透し始めた頃。それなのに、この世界では東京競馬場に大衆が押し寄せている。
カブラヤオーが無敗で三冠を達成した辺りだろうか。やけに競馬場への来場者が増えているような気もする。
この大観衆が渦巻かせる熱気の中を、優駿たちは放たれた矢のように突き抜けていく。
その結末こそ、ダービーという栄冠。人々からの祝福を一斉に浴びる、誉れ高き競走。
三歳の若駒たちがその栄誉を求めて争い、たった一頭のみが勝ち取れる。生涯でたった一度だけ挑戦し、勝利できるのが、この日本ダービー。
今年も粒揃いの三歳馬。皐月賞での結果により、混戦気味となったダービーだが、結局は皐月賞馬サクラショウリが最有力と見られている。
「オーナー、こちらにいましたか」
顎に手を添え、思考を巡らせていると、不意に隣から声が聞こえる。
振り向いてみれば、そこにはやはり、あの人物が。
「こんにちは、伊坂先生。ははは……これからあるダービーが楽しみすぎましてね」
「わかりますよ。私の厩舎からもオーナーの持ち馬が出走しますんで、正直落ち着かなくてですね」
意外な言葉が耳に入る。今まではダービーであろうとなんであろうとほとんど緊張を見せなかった伊坂先生が、ここに来て初めて緊張を口にするとは。
余程仕上げが悪かったのだろうか、あるいは……。
「どうです? 今年は。ダービーに自信はありますか?」
「ありすぎて緊張してしまうぐらいですよ。これで負けたら、オーナーとジョンヘンリーに見せる顔がありません」
なるほど、その発言からして仕上げには相当の自信がある、か。
「ジョンヘンリーは確かに手のかかる馬ではありますが。ですけど、手がかかるほど、なぜだか愛着が湧いてくるんですよ。不思議ですね」
「でしたら、このダービーはまた一味違うと?」
「勝てたら、ですがね。……今日のダービーはなんとしてでも勝ってほしい、そんな気分ですよ」
伊坂先生は微笑む。だけれど俺には、それが不気味に見えて仕方ない。
「失礼を前提としてですがね。ここだけの話、ジョンヘンリーはカブラヤオー以上の素質を秘めていますよ。カブラヤオーにはなかったものがありますから」
「……なかったもの、ですか?」
「ええ、それがですね――凶暴さ、なんですよ」
「……えぇ」
思わず困惑の声が零れてしまう。まさか、そう来るとは。予想外もいいところだ。
「確かに、ジョンヘンリーは気性が激しいですが……」
「ええ。乗り手すらも尻込みしそうになるほど凶暴で、威圧感がありますからね。断らずに乗ってくれた山南くんにはある意味感謝していますよ」
「あそこまで気性難となると、騸馬にされることもしばしばありますからね……」
「そうなんですよね。だからオーナーにも感謝していますよ。あれほどの傑物をこのまま預けていただいたことに。あの馬にはぜひとも種牡馬入りしてほしいですよ」
伊坂先生からそんな言葉を聞くとは思いもしなかった。色々と突っ込みたいが、今はそうしている場合じゃない。
各出走馬が返し馬を終え、間もなくファンファーレが響き渡ろうとしている。そう、開戦の時が訪れる。
「山南さん、なんというか、楽しそうですね」
ふと思いついた言葉を口にすると、
「山南くんも、私と同じように、今日のダービーを待ち侘びていました。『絶対負けられへん』と何度も呟いていましたから」
伊坂先生含め、陣営がジョンヘンリーにほとんど焼け野原にされているようだった。
というか、山南さんも相当に入れ込んでいるな……。
そうこうしているうちに、既にファンファーレは鳴り終わっている。あとは各馬がゲート入りを済ませ、発走するだけ。
ジョンヘンリーは内枠の三番。皐月賞での好走が評価され、四番人気に収まっている。
まあ、今現在まで重賞勝ちの実績がないのだから、妥当といえば妥当かもだが。
次々と枠入りを終えていき、最後に十八番の馬が係員に引かれ、ゲートに収まる。
『世代の頂点を決める東京優駿、日本ダービー! 群雄割拠を統一するのは、果たしてどの若駒か!?
――今、スタートしました!
皐月賞馬、皐月賞馬サクラショウリが、サクラ軍団のエースが飛び出していった! サクラショウリが好スタートですが、三番手まで下げて控えました。サクラショウリは先団、先行していく態勢か』
スタートを一瞥し、胸を撫で下ろす。
三番の馬に視線を移す。今日はどうやら、やる気に満ち溢れているようだ。
だが敢えて下げて最後方に控えている。ここからどうするというのか? 山南さんはどう乗るつもりなのだろう。
『今日は上手く出ましたジョンヘンリー。最後方のジョンヘンリー。まずまずのスタートを切ったようです。
そのジョンヘンリーの少し前、芦毛のシービークロスが最後方から二番手にいます』
間もなく800mを通過し、最初の1000mに差しかかる。
ジョンヘンリーは位置取りなど完全無視。知ったことかとばかりに最後方のままだ。
『1000mの通過タイムは、1:09:6、ややスローペースとなっているか。2400mにしてはやや遅いか。後方待機を決め込んだ馬には少し辛い展開。皐月賞馬サクラショウリは二番手に位置を押し上げている。それをマークするようにインターグシケンが機を窺っている。先行勢がこのままいってしまうのか。残り1000mとなりました』
かなりのスローペースなのだが。このままだと末脚が不発に終わるのだが。
どう出てくれるのか、山南さんは。ジョンヘンリーはどう動いてくれるのか。
残り800mで、緊張で張り詰めた思考が、展開によって弾けた。
『シービークロス! シービークロスがまくっていった! ここで後方から仕掛けたシービークロス! ダービーポジションなどお構いなし! 白い稲妻、シービークロスがやってきた! 外からじわじわと先頭に迫る!』
後方待機を決め込んでいたシービークロスが痺れを切らしたのか、ここに来て仕掛けていった。
展開が一気に揺れるなか、三番のジョンヘンリーに視線を注ぐ。
まだ、まだ動いていない。このままだと上位入着すら怪しい。
なぜここまで最後方に拘るのか。いや、何かあるのか。
まさか……本当にそこから? そこから仕掛けるというのか?
『残り600m! 最後の直線! 大外に持ち出したのはジョンヘンリー! 最後方から末脚を使ってやってきたのはジョンヘンリー! 二番手インターグシケン! しかし先頭はサクラショウリ! サクラショウリが先頭だが、シービークロスも連れてやってきている! ここで大外、超大外からジョンヘンリー! 山南克弥の夢乗せて! ジョンヘンリーが四番手、三番手! 一気に! 一気に撫で切った! サクラショウリとシービークロス! シービークロスが僅かに前!
残り200! 前二頭、前二頭はこのままいきそうだが、だが二頭を一気に差し切った! ジョンヘンリーが、一気に! 皐月賞馬も、白い稲妻も敗れるか! サクラショウリはシービークロスを差し返したがもう先頭には届きそうにない!
ジョンヘンリーだ! ジョンヘンリーだ! 若手の山南を背に、最後方一気! もはや勝利は確信した! 日本を震わせる衝撃、その豪脚の持ち主が今ゴールイン!
ジョンヘンリー! 山南克弥とジョンヘンリー! 皐月賞馬も白い稲妻も打ち破って、ダービーを手にしたジョンヘンリー! これはあんまりにも強かった! あんまりにも、強すぎた!』
「日本ダービーの勝利騎手インタビューとなります。山南克弥騎手、おめでとうございます」
「ありがとうございます! いやぁ、なんとか……なんとか勝てましたわ」
「では早速ですが、今日の勝利はいかがですか?」
「最高に決まっとります! まさか、まさかワイを、ワイをダービージョッキーにしてくれるとは……うん、すんません、泣きますわ」
「今日の勝ち馬ジョンヘンリーなんですが、乗り心地はどうでした?」
「彼自身はとんでもない荒馬なんですけど、今日はなんというかね、勝つ気持ちがこっちにも伝わってきてですね……最高に抜群の手応えを味わえました」
「今日は出遅れませんでしたが、そこは?」
「ワイも驚きました。まさか……こうもいい感じにね、出てくれるとはね」
「では最後に一言、お願いします」
「ジョンヘンリー、勝たせてくれてありがとう! 本当に……本当に……」
「――以上、勝利騎手インタビュー。山南克弥騎手からでした」
「あの馬を乗りこなすのは……いやー、キツいでしょ」