ジョンヘンリーがダービーを完勝してから一週間後の東京競馬場は、再び大歓声に湧いていた。
競馬場全体が揺らごうかというほどのそれを傍目に、青々と茂るターフで勝利を証明するかのようにウイニングランを行う人馬に注目する。
GⅠ安田記念、芝1600mの大レース。
掲示板に映し出された着順には、本来あり得ない表示が為されていた。
実況が木霊する。だが気にもならない。
歓声も、どよめきも、何もかもが耳に入ってこない。
あまりにも衝撃的なレースに、言葉が詰まってしまう。
目線の先には、自身の愛馬であるシアトルスルー。
鞍上の小田部さんが右腕を大きく掲げる。表情には笑みがあり、この勝利が余程嬉しかったのだろう。
だけれど、問題は掲示板。それが壊れているのかと思い込みたくなるような、そんな恐ろしすぎるものが目に入る。
一着馬はシアトルスルー。そこまでならまだ理解できるのだが……。
二着につけた着差は、大差と表示されるだけ。
おまけにタイムは1:31:1というもの。無論、レコードの文字が載っている。
この時代では考えられないような、とんでもない日本レコードが目の前で叩き出されていた。
【1978年安田記念 結果
一着 シアトルスルー 1:31:1】
シアトルスルーが安田記念で化け物じみたレコードを叩き出した後日。
伊坂先生から招いてもらったのもあって、再度栗東に足を運んだ。
恐らくだが、今日呼びつけたのには何かしらの用がある。
そうなると、シアトルスルーで再びの渡米か。あるいはまた別のことか。もしくは両方か。
前者はほぼほぼわかるが、後者がどうにも読めない。ジョンヘンリーが何かやらかしたとかじゃなさそうだし。
「お待ちしておりました。すみません、呼びつけてしまって」
厩舎まで歩けば、前にはやはり伊坂先生が立っている。
「いえいえ、お気になさらず。今日はどうされました?」
「では単刀直入に。シアトルスルーなんですけどね……またアメリカに遠征しませんか? もちろん、大目標はBCクラシックの連覇で」
「俺の心を読みすぎていません? ちょうど切り出そうとしてたんですが……」
「ははは! これは失礼!」
予想は的中した。シアトルスルーで再びアメリカ競馬を蹂躙しよう、というわけだ。
「俺も渡米には賛成です。恐らくですが、小田部さんも乗ってくれそうですし」
「……ただ」
伊坂先生の表情が快活なものから打って変わって、陰りを見せる。
ああ、そうか。そういえば、BCクラシックにはあの
つい最近、超良血馬な好敵手を降して、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを制した名馬がいると小耳に挟んだ。
「シアトルスルーが勝てるかどうかわからない相手もいます」
「……その相手というのは?」
既に検討はついているが、問いかける。
「今年の米三冠馬……
やはりかと頭を抱えるしかない。まあ、知っていたというのは口に出さないが……。
「あれは間違いなくBCクラシックにまで駒を進めてきます。恐らくですが、一騎打ちになるかと……」
「なるほど、米三冠馬同士の一騎打ち、というわけですね」
「はい。BCクラシック前にいくつかのレースを叩こうとは思いますが、途中であの怪物と激突する可能性もあります。
……改めてお伺いしますが、どうしますか?」
神妙な面持ちで、伊坂先生はこちらを見据える。
「もちろん行きますよ。昨年のトリプルクラウン、いや、グランドスラムホースとしてここは打って出ないわけにはいきませんから!」
「打倒怪物、ですね。わかりました。シアトルスルーは夏に渡米して、まずはGⅠパシフィッククラシック(ダート2000m)、それからジョッキークラブ金杯(ダート2000m)、最後に大目標のBCクラシック……それでよろしいでしょうか?」
「はい! そのローテーションで!」
「わかりました。ではそのように登録を。……ああ、それからですね」
「……はい?」
他にも用事があるようで。正直こちらがまったく読めない。
「……今日はもういないんですけどね、どうしてもオーナーに会いたいという騎手がいまして」
「その方は?」
「けっこうやんちゃなイケイケでしたね。確か……
「……え?」
その名が伊坂先生の口から発せられて、思わず凍りついてしまう。
まさか、この世界でもそのトップジョッキーの名を耳にしようとは。
いったい何が目的なのかはまったくわからない。
ただ、会ってみる価値はあるかもしれない。
なにせ、こちらでも恐縮してしまうレベルの名手なのだから。