この日の東京競馬場は、熱気で溢れ返っていた。
まだ冬なのにも関わらず、肌を焦がすような熱さが場内を支配している。
額に冷や汗が滲む度、ハンカチを取り出しては拭いている。今か今かと自身の馬が発走するレースを待ち侘びているのだが、新馬戦、条件戦とはまた違う緊張感で全身が固まる。
なるほど、これが重賞かと思い知る。重賞に持ち馬を出走させる馬主たちは、いつもこの緊張感と戦っているのだろう。でなければ、呑まれてしまう。
今からカブラヤオーが重賞を走る。ならば俺も戦わずして何が馬主か、何が陣営か。
カブラヤオーがこの重圧に立ち向かっているのだ、俺にも戦えない道理などないと己を奮起させる。
「頼むぞ……」
そう呟いて、共同通信杯の出走馬表に改めて目を通す。
今回の出走頭数は十二頭。カブラヤオーは最内枠である一枠一番からのスタートとなっている。それでもなお、六番人気という低評価だったが。
だがそれは仕方ないところがある。カブラヤオーは条件戦を勝ち抜いてきたばかりで、今回が重賞初挑戦。そして相手関係もある。
――十一番、一番人気テスコガビー。昨年のGⅠ阪神ジュベナイルフィリーズを圧勝し、最優秀二歳牝馬に選出された強豪牝馬だ。
史実では桜花賞とオークスを大差で圧勝し、二冠牝馬となる名牝。スピードで押し切るような逃げを大得意とする。
カブラヤオーにとって、最大の天敵になり得る名馬が、このレースに出走してきているのだ。
カブラヤオーとテスコガビー。史実だと二頭は一度だけ対決し、そのときはカブラヤオーが辛勝している。
今思えば、二頭がこの世界でも対決することは必然的な運命だったのかもしれない。
共同通信杯。史実の1975年に二頭が激突した際は別のレース名であったが、このレースでカブラヤオーとテスコガビーは激闘を繰り広げた。
ならば、鞍上こそ違えどこちらのカブラヤオーもテスコガビーと渡り合えるはず。人気と評価こそ、史実を知っている俺からすれば逆転しているが。
カブラヤオーの鞍上は
倉田さんとは伊坂先生の紹介で知り合い、カブラヤオーに全戦に渡って乗り続けてくれている。まさにありがたい存在だ。
のちの名調教師でもあるため、この縁は大切にしたい。
倉田さんなら、俺のカブラヤオーを重賞初勝利に導いてくれるだろう。カブラヤオーの適性、弱点、脚質を把握しているだろうから。
出走馬表から目を外し、パドックの方を見やる。
厩務員に引かれ、緑のメンコを装着したカブラヤオーがパドックを闊歩する。
しばらくすると騎乗合図が発せられる。カブラヤオーに駆け寄って騎乗するのは、倉田さん。青を基調とし、黄色い星々が散りばめられ、袖は白と真紅の二色で染められた、そんな勝負服を身に纏って登場する。
カブラヤオーの首元を撫で上げると、手綱を握り、ゴーサインを出す。
彼らが駆けていく。俺たちの夢を背負って、駆けていく。
返し馬としてターフ上を駆けるカブラヤオーを眺めて、思わず両手を包み込むように握ってしまう。
手汗が滲み出ていた。やはりこの場の重圧感に慣れるのには、時間が必要なようだ。
カブラヤオーと倉田さんの勝利と無事を祈るばかりだった。
しばらくし、全馬がゲート入りを終える。
競馬場が静寂に包まれた刹那――
――それは、火蓋を切った。
『スタートしましたっ! 一枠一番カブラヤオー、それから一番人気十一番テスコガビーが好スタートを切りました!
おっとここで逃げ馬二頭が並んだ! テスコガビーはどうする!? テスコガビーはどう出るか!? 鞍上倉田隆景が手綱をぐいっと押してカブラヤオーがペースを上げました。テスコガビーは二番手に控える態勢。カブラヤオー、カブラヤオーが差を一馬身、二馬身、三馬身……と大きくリードを広げ始めました。カブラヤオーが先頭であります。
テスコガビーが追走しています、テスコガビーが二番手。昨年の最優秀二歳牝馬はやや外に持ち出し始めております。最内をすいすい通ってカブラヤオーが単独先頭。リードは六馬身ほど』
カブラヤオーが大逃げを決め、テスコガビーが二番手に控える態勢。俺が知っている史実とは真逆の展開となっている。
それにカブラヤオーがレース展開を引っ張っているため、ペースが非常に速い。1000mのタイムが気になるぐらいだ。
残り800m辺りだろうか。カブラヤオーに騎乗している倉田さんがさらに手綱を押す。カブラヤオーもその合図に呼応するかのように脚の回転を速める。
どうやら、ここらで押し切るつもりのようだ。
『コーナーを曲がって、最終直線! カブラヤオー、なんとカブラヤオー、カブラヤオーが未だに単独先頭であります! テスコガビーが必死に追うが届くかどうか!
カブラヤオーに鞭がポーンポーンと入っております! カブラヤオーが先頭! しかしテスコガビー、テスコガビーが食らいついてきました! その差は六馬身、五馬身と縮まっていく!
カブラヤオーが逃げ切るか!? それともテスコガビーが差し切るか!? どちらだ!? どちらだ!?
――カブラヤオーが逃げ切って一着! カブラヤオーが勝ちました! 鞍上倉田隆景が左手を上げました! テスコガビーは惜しくも二着! カブラヤオーとの差は一馬身ありました! 六番人気カブラヤオーが大逃げでテスコガビーを破りました!』
ああ、ああ、勝ってくれた。カブラヤオーと倉田さんが、あのテスコガビー相手に逃げ切ってくれた。
もう、限界だった。地面にぽたりと雫が落ちる。
目元をハンカチで何度も拭うも、一向に止まる気配はなかった。
仕方なく、そのままウィナーズサークルに向かうことにした。
ウィナーズサークルでは、優勝レイを引っ提げたカブラヤオーに、ゼッケンを掲げた倉田さん、それから調教師の伊坂先生などの関係者が勢揃い。
目元から溢れすぎて、もはや枯れそうだった。
「やりましたね、オーナー」
伊坂先生がガッツポーズを決めながら、喜びを隠せない笑顔でこちらに話しかける。
「ありがとうございます……! 本当に、なんと言っていいのやら……!」
「いえいえ。私など微力です。カブラヤオーと倉田くんが頑張ってくれました。この頑張りのおかげで、本格的にクラシックへの道が拓けました」
「先生、僕はカブラヤオーの手綱を押しただけです。あとはカブラヤオーが自分で勝ってくれましたよ。……本当にいい馬ですよ、彼は」
「倉田くんだって仕掛けの合図を送ったり、日頃から調教で乗ってくれたりしてるんだけどねぇ。
そういえばオーナー、次走はどうしましょうか? 私としては皐月賞トライアル、中山の芝2000mのGⅡ弥生賞に出走させたいのですが……」
「俺も同意見です。できればそれでお願いします」
「わかりました。この勝利を絶対にクラシックに繋げましょう」
こうして、GⅢ共同通信杯は幕を下ろした。
俺たちのカブラヤオーが、史実のようにテスコガビーに打ち勝つという結果で。
カブラヤオーVSテスコガビーはどうしても書きたかったのです……。