9月、真夏の猛暑を乗り越えた先に待ち受けるのは、秋のGⅠ戦線。
その戦線に乗り込む俺の所有馬は2頭、グリーングラスとジョンヘンリーだ。
ジョンヘンリーは今月のGⅡ神戸新聞杯(阪神・芝2400m)からGⅠ菊花賞へ。グリーングラスは10月のGⅡ京都大賞典(京都・芝2400m)からGⅠ天皇賞(秋)へ。それぞれ出走させるつもりではある。
……正直、不安要素しかない。
グリーングラスは的田さんが絶不調に陥っていて、ジョンヘンリーは長距離が未知数すぎる。
いくらこの2頭が名馬とはいえ、調子が悪かったりレース条件が合わなかったりすると、あっさり負ける。こればかりはある程度整えないとどうしようもない。
今、俺の顔を舐めに舐めてべちょべちょにしている芦毛だってそうだ。史実ではピンを踏んで負傷してしまい、その結果の敗北を喫している。それはそうとあとで顔を洗わねば。
どれだけ速かったりしても、どれだけ万能だったりしても、どれだけ力強かったりしても。どうしようもないときはどうしようもないのだ。
芦毛のスぺちゃんこと、スペクタキュラービッドを宥めながら、どうしようもなさを打破する方法を探る。
栗東の伊坂厩舎に来てから何時間は経ったであろう。その合間に、ことあるごとにスぺちゃんは甘えてくる。
俺を見かけるとすぐさま顔を寄せようとしてくる。可愛いが。流石に調教中は真面目に走っている。
ただ伊坂先生や担当厩務員には、そんなに過度に甘えてこないそう。これも愛らしく思えるが。
「スぺちゃん……」
伊坂先生が苦笑する。こんなに懐かれているところを見せられて、ちょっと落ち込んでいるみたいだ。その気持ちは複雑なのだろう。
「調教はけっこう走るし、操縦性も非常に高い……芦毛は走らないとは……」
伊坂先生の口から漏れたジンクスで、ふと思い出す。
――スペクタキュラービッドがとんでもない勝ち方をした新馬戦を。
8月の新潟競馬場。そのダートコースに、彼は降り立った。
若き騎手が手綱を取るというのもあり、人気は8頭中の4番人気というもの。オッズは8倍、そこそこといえよう。
だが――レースは一方的だった。
ゲートが開くと真っ先に最後方待機を選択。あの瞬間だけであれば、鞍上が何を考えているのかまったくわからなかった。
それでも最終直線手前、やや強引に先頭を奪い取ると、あとは差が開いていくだけ。
あれは間違いなく地力が違う――改めてそう確信できるようなレースっぷりだった。
芦毛は走らないというジンクスを、あの場にいた観客はみな一様に忘れていたのではなかろうか。
しかし、今現在はこうして甘えてくれている。普段とレース時のギャップが凄まじすぎる。
「先生、オーナー、いいでしょ? スぺちゃん」
いきなり声をかけられて、伊坂先生ともども振り向く。
かけてきた張本人は、その美貌でこちらに笑いかけてくる。
「ああ、最高の馬です、スぺちゃんは」
「でしょでしょ?」
「ちょっと日原くん……」
「まあいいじゃないですか、伊坂先生」
「……ですかね?」
ラフな口調を注意しようとした伊坂先生を制止する。
目の前に立つ騎手――日原成樹さんへ向き直り、うんうんと頷く。
「ありゃあ並大抵の馬じゃないですよ。オレが乗ってきた馬の中で、あれほどの馬はいなかった。とんでもない馬に巡り会えたみたいですよ」
日原さんは続けざまにスぺちゃんの魅力を語っていく。
なんだかちょっと小恥ずかしかったが、自分のことではないと割り切って聞き入る。
「……ああ、そうだ。言い忘れてた」
日原さんはポンと手を叩いて、「ちょっと失礼」と耳元に近づいてくる。
「……オーナー、新馬戦のあれ、申し訳ないんですが、わざとああやって乗りました」
「……マジ?」
「です。流石に、あそこまで引き離すとは想像もしてなかったですけど……」
「えーと、つまり、スぺちゃんは後方待機が合ってるってこと?」
「あー、いや。そうじゃなくて。どんな展開でも勝ち切れるような競馬ができるってことです。つまりね、変幻自在なんですよ。……あっ、ちなみに伊坂先生はすでに知ってます」
やはりといえばやはりだが。どうやらスペクタキュラービッドという名馬に、脚質なんてものは関係なさそうだ。
「ですけど、しばらくは追い込み一辺倒にしてみようかと」
などと考えていると、日原さんがとんでもない発言を繰り出す。
「まあ、様子見ってところですね」
苦笑しつつ、日原さんは囁きかける。
なかなかにとんでもない。天才と称された騎手はどういう思考をしているのやら。
「伊坂先生」
ならば、少し意地の悪いことをしてみるか。
俺の呼びかけに応じた伊坂先生は、こちらに向かって首肯する。
「日原くん、スぺちゃんなんだけどね。次、アメリカの2歳GⅠシャンペンS(ダート1600m)だから。よろしくね」
その爆弾発言に日原さんは唖然とする。
それもそうか、誰だって新馬戦の次に海外遠征を敢行しようとは思うまい。
だけれど、こうやって日原さんの驚愕した顔を拝めるのは、ちょっとばかり新鮮味があった。