アメリカから帰国して、牧場に戻ってみれば。そこに広がっていたのは、やはり見慣れた新緑。
放牧地に赴けば、1歳馬のダンジグがまだ幼いシャーガーの毛並を舌で整えている。
いわゆるグルーミングという一種の親愛的行為なのだが、シャーガーも目元を綻ばせてまんざらでもない様子でされるがまま。
すっかり緩みきった表情で、2頭の幼駒は触れ合う。
そんな光景を見逃すわけにはいかない。俺はそう意気込んで、牧柵に腕、腕の上に頭を乗せ、2頭から醸し出される尊さを味わわせてもらう。
「いい……」
だらしなく綻んだ口から、ふとその言葉が零れる。
彼らの行動をひとつひとつ観察していても新たな発見ばかりだ。
「あのー、オーナー?」
「んん? ああ、牧野さんですか。彼らは本当に仲がいいですねぇ」
「それはそうなのですが……」
牧野さんはなぜか目を泳がせている。口に出すことを躊躇うかのように。
「どうしました? 牧野さん?」
「あ、いやー……そのですね……」
「……なにかありましたか?」
「なにかあったというか、そのですね……」
「……もしかして、あれですか?」
左に目を向け、ふわふわした物体と戯れるカブラヤオーを指す。
「そうですね……」
牧野さんは頭を抱えながら再び口を開く。
「カブラヤオー、あのクッションにハマりすぎてですね……」
「あー……」
なんとなくではあるが、牧野さんの言葉が理解できた。
というより、そうなった元凶はあれを与えた俺だが。本当に申し訳ない。
「とにかく離したがらないのでちょっと困ってます」
「ふわふわって人だけではなく馬も狂わせてしまうのですね……」
改めて、あのクッションの効果を思い知ってしまうとは。
カブラヤオーでさえ夢中になってしまうその威力は、間違いなく本物と認めざるを得ない。
「……事故さえなければいいんじゃないんですかね」
クッションに頭を委ね休眠に入るカブラヤオーを、互いに遠い目で眺めるしかなかった。
11月末、東京競馬場。
晴れ渡る青空の下、超満員のスタンドが見据えるのは、ゲート前で周回を行う出走馬たち。
いわゆる輪乗りを行いつつ、だんだんと競馬場内から騒々しさが消えていく。
「よろしかったのですか? オーナー」
馬主席に座っていると、ふと伊坂先生から声をかけられる。
「このぐらいなら大丈夫ですよ」
「2頭ともいい仕上がりですが……」
「はい、だからこそ一度見てみたかったのですよ」
「その気持ちはわかりますが……」
「ははは、伊坂先生もそうでしたか。まあ、
ダービー馬同士の競走――この場ではすなわち、グリーングラスとジョンヘンリーの対決。
1976年のダービー馬グリーングラスと、1978年のダービー馬ジョンヘンリー。彼らが激突し合うその瞬間を、俺はこの目に焼きつけたかった。
伊坂先生には無茶な申し出をしてしまった。互いに次走はジャパンカップに定めていたとはいえ、2頭のダービー馬を出走させたのだから。
「グリーングラスが1番人気、ジョンヘンリーが4番人気ですか……」
人気に関しては妥当だと認めるしかない。
安定感のあるグリーングラスと、前走で5着に敗れたジョンヘンリーとでは、どうしてもこの差は生じてしまう。
「どちらもやる気十分ではあるのですがね」
伊坂先生は苦笑しつつも「どちらも好走しそうですけどね」と続ける。
「的田さんと山南さんはどうです?」
ふと気にかかって、ふたりの騎手の様子を尋ねてみる。
「的田くんは必死に隠してはいましたが、だいぶ焦りを感じているみたいでした。一方で山南くんは闘志を漲らせて前走からの挽回を図るとしてました」
「……大丈夫ですかね、的田さん」
「正直けっこう深刻かと……」
こうなってくると、どうしても的田さんが心配だ。
大事なければいいが……どうなるか。
やがてファンファーレが鳴り渡り、スタンドの熱気も最高潮に達する――そんななか、俺はひとり表情を強張らせる。
16頭の出走馬中、グリーングラスは12番枠、ジョンヘンリーは13番枠にそれぞれ収まり、場内は再び静寂で満たされる。
『欧米各国からの来訪者たち、どれもこれも強豪揃いではありますが、日本馬はどう立ち向かうのでしょうか。国際GⅠジャパンカップ、間もなく発走となります。
――――全馬、ゲートに収まりまして、さあ、日本馬は外国馬相手にどういう立ち回りを見せるか? 外国馬もどうやって日本勢を破ろうとするのか?
――スタートしました! 各馬、まずまずの出だし。前に行きますのは――」
グリーングラスは4番手、ジョンヘンリーは14番手という互いを意識しないような位置取り。
2頭のダービー馬は、それぞれ自身の競馬に向き合うようだ。
「ジョンヘンリー、上手く出てくれましたね」
伊坂先生がホッと胸を撫で下ろす。
激しすぎる気性ゆえに立ち遅れることがあったジョンヘンリーでも、今日は出だしから調子がよさげだ。
それでも息を呑む。ここからだ。ここからどういう競馬をしてくれるか。
『グリーングラス、鞍上の的田弘。前走での雪辱をこのジャパンカップで晴らせるか。1番人気に見事応えられるか。今年の日本総大将は4番手の位置。グリーングラスは4番手であります』
グリーングラスは馬場の真ん中から先行集団に取りつくような形。
俺からしたら、上手く好位に着けられているように思える。
しかし一方で、伊坂先生は心配そうにグリーングラスを眺めていた。
「こりゃあ、まずいかもな……」
小声ではあったが、伊坂先生の口からそんな言葉が漏れる。
だがすぐにその意味を理解してしまう。
『1000mを通過しまして、前半は1:00.4、やや平均的ではありますがこれはどうだ。グリーングラスは3番手、2番手と進出していきました』
「……焦ってますね、明らかに」
俺がそう分析すると、伊坂先生も頷き返す。
「そのようですね。冷静さを失ってはなりませんが……」
「残り1400mですからね。しかも最終直線も長いですから」
グリーングラスは先頭の逃げ馬に標的を定めたようで、半馬身ほど後ろに着ける。
対してジョンヘンリーはペースを読み切ったのか、15番手に。完全に直線勝負へ持ち込む態勢だ。
「……
残り800mへ差しかかろうとした頃、伊坂先生の呟きが耳に入る。
その言葉が気にはなったが、もうすぐ最終直線。視線はターフを向いていた。
『間もなく最終コーナー、間もなくであります! 府中の長い直線! 制するはどの馬だ!
先頭グリーングラスへ! グリーングラスが一気に抜き去る! グリーングラス、的田弘が手綱を扱いて扱いて先頭だ!
グリーングラス、突き放す! 先頭に立って離す! 連覇を狙って引き離す! だが、だが! 外から、外から外国産馬! ダービー馬ジョンヘンリーが大外を回ってやってきている! 山南の鞭が飛んでいる! 鞍上がゴーサインを出して突き抜けてくるジョンヘンリー!
内はグリーングラス、大外はジョンヘンリー! しかし並ばない! 並ばない! あっという間に、ジョンヘンリーが抜き去った!
残り200mで、一気にジョンヘンリー! 一気にジョンヘンリー! グリーングラスは懸命に追っているがもう届かない!
ジョンヘンリーが今、1着でゴールイン! 勝ちましたのは、4番人気のジョンヘンリー! 年上のダービー馬相手に下剋上を成し遂げました! 鞍上の山南が大きく右手を掲げております! 再び府中を震撼させましたジョンヘンリー!』
「実はですね、グリーングラス対策は打ってましたわ」
地下馬道でジョンヘンリーから下馬し、鞍を外した山南さんが何気に衝撃的な一言を発する。
「噓でしょ……」
「いや、かなりの馬ですから本格化前のジョンヘンリーだとどうやろ思ってたんですが、なんとか勝てたんでひと安心です」
「ちなみにその対策というのは?」
「ああ、簡単な話です。グリーングラスとちょっと距離取ったんです」
「ああ……」
その一言だけで納得してしまう。
なるほど、山南さんはすでに見破っていたわけだ。
「あれと叩き合うとなると分が悪すぎますから、外埒から強襲するようなイメージで差しにいきました。展開も向いてくれたんで助かりましたわ」
にこやかな表情でジョンヘンリーの頭を撫でる山南さんだが、彼も一介の勝負師だと改めて認識させられる。
一方で的田さんは酷く落ち込んでいるようだった。
顔を俯かせたまま下馬し、鞍を外していく。
だけれど今回ばかりは、フォローができない。
焦りから生じた早仕掛けの結果、ジョンヘンリーにやられた。
今日のレースに関しては……申し訳ないが一言を添えさせてもらおう。
「……的田さん」
呼びかけると、的田さんは今にも泣き入りそうな表情を向けてくる。
「その焦燥はあなただけのものではないんです。今回はグリーングラスにも焦りが伝わっていました」
「…………すみません……」
「……もうこの際だから言いますが、あなたを降板させようとはまったく思っていませんよ。だからせめて、グリーングラスとちゃんと向き合って、自分たちの競馬を見出してください」
余計な言葉を添えた気はするが、それでもいい。
今はただ、彼らにとって悔いのない競馬を見つけてほしい。それだけだ。
グリーングラスVSジョンヘンリー――ジョンヘンリーの勝利!
カブラヤオーVSクッション――クッションの勝利!