「有馬記念、いよいよですね」
茜色に染まりつつある空を見上げて、隣に立つ伊坂先生が告げる。
中山競馬場、有馬記念、芝2500m――。
1978年も終わりを迎えようとしている。日本競馬の総決算であるGⅠ有馬記念を以て、GⅠ戦線にはひとまずの終幕がもたらされる。
「今年のダービー馬こそいませんが、これは大いに盛り上がりますよ」
伊坂先生からは嬉々としているような声があがる。
「俺の所有馬からはシアトルスルー、グリーングラス。他だと菊花賞馬インターグシケン、皐月賞馬サクラショウリ、年度代表馬トウメイを母に持つテンメイ……かなり揃いましたね」
「一筋縄ではいかないみたいですが、個人的にはグリーングラスとシアトルスルーの対決に注目しております」
この中山競馬場を訪れた観衆も、多くはグリーングラスとシアトルスルーの一騎打ちになるだろうと予想しているようだ。
だが、伊坂先生も気にかけていたのは少し驚いた。日頃から併せ馬でよく眺めている光景かと。
「伊坂先生も気にされていたのですね」
「はい、併せ馬ではよくやってますが、流石に実戦となると展開もありますから、どうなるのかまったくわからないのです」
「……伊坂先生的には?」
「グリーングラスの複勝を買いたかったです」
「競馬関係者ですからね……」
まあ、グリーングラスは恐らく2着以上には突っ込んでくるだろうし、その買い方もわからなくはない。
調教師という立場的に馬券を買えない伊坂先生に、少々悲しみを感じるが。
「伊坂先生、シアトルスルーのほうは?」
「この距離こそ経験はありませんが、余裕で走れそうですよ」
まさかの即答で、目を丸くしてしまう。
「鞍上は変わりなく小田部さんですから、シアトルスルーにとってはかなり有利なレースになりそうです」
「そうですかね……」
誘導馬を先頭に馬場にその姿を現したグリーングラスに視線を向け、首を傾げる。
「グリーングラスもグリーングラスで、やってくれそうですが」
「けっこう仕上げましたからね。これには的田くんも微笑んでましたから」
グリーングラスと的田弘、シアトルスルーと小田部信夫。
これらの人馬がどういう動きをするかで、展開は決まるかもしれない。
さてどうなるか……。
『冬枯れの中山、有馬の舞台に集ったのは、どれもこれも実績馬たち。日本競馬の総決算であり、一大決戦でもあるこのグランプリ。16頭の強豪による競走をさあ、ご覧あれ。
――最後に16番、小田部信夫騎乗シアトルスルーが枠入りを終えます。
暮れの中山、冬枯れのターフ、年末のグランプリ、制するのは果たして! GⅠ有馬記念――!
スタートしましたっ! ややバラついたスタート! 注目馬は各々どのような位置に着けていくのか!
まず行きましたシアトルスルー、大外枠でも関係なし。やはり一気に先手を奪っていきます。1番人気馬は逃げていきます。2番手には菊花賞馬インターグシケン、そのあと3番手に、馬場の真ん中を通ってグリーングラス。こちらは今日の2番人気です。
皐月賞馬サクラショウリは5番手、前目を見ながらの競馬か。各馬、600mの標識を通過していきます』
シアトルスルーが先頭を奪取し、それを他が追う展開。そうなりつつあるが、ペースはどうだ。
馬群は縦長に伸びてきている。後方に控える追い込み馬には不利な状況なのだが、まだ600m~800m辺り。ここで仕掛ける馬はいないだろう。
『先頭はシアトルスルー、リードは2、3馬身ほど取っています。それからインターグシケン、さらにはグリーングラスと、逃げていく米三冠馬を追う形。
1000mの通過タイムは1:01.4。やや遅くはありますが、展開への、後方勢への影響はどうか。
まだ悠々と逃げるシアトルスルー。このまま逃げ切ってしまうのか! 鞍上の小田部の読みはどうだ!
馬群は縦長に形成されています。後方勢、追い込み馬には非常に厳しい展開』
残り800mへ差しかかりつつある。グリーングラスと的田さん、シアトルスルーと小田部さんはどのように仕掛けるか。
『残り800mを切って、間もなく最終コーナー。先頭はまだ、まだシアトルスルー。だがインターグシケンが競りかけてきた! ここでインターグシケンが仕掛けて、シアトルスルーを捉えにいく! グリーングラスはまだ動かない!
最終コーナーを回ります! 夕陽を、歓声を浴びながら、間もなく最終直線! 最後の攻防!
グリーングラスに鞭が入った! グリーングラスに鞭が入った! 的田弘、手綱を扱き始めた!
さあ、有馬記念! 最終直線! 先頭、逃げる逃げるシアトルスルー! 競りかけたインターグシケンはズルズルと後退! だが入れ違うように、グリーングラス! グリーングラスがシアトルスルーに襲いかかる! シアトルスルーはまだ鞭を入れず! 小田部信夫はまだ持ったまま!
やや外を回ってグリーングラス! グリーングラスが突っ込んでくる! シアトルスルーとの差が4馬身、3馬身と縮まっていく! しかしまだまだシアトルスルー先頭だ! 粘るか!? 差すか!? どちらだ!? どちらだ!? グリーングラスががシアトルスルーに並びかける! ようやく小田部が手綱を押す! ここで小田部が手綱を押した!
グリーングラス、一杯か!? グリーングラス、一杯か!? 残り100mで、シアトルスルーが再び突き放す! やはりこの馬は強い! これが世界最強か! シアトルスルーだ!
シアトルスルーが1着! 1着でゴールイン! 1馬身離されて2着にはグリーングラス! 3着にはサクラショウリのようです!
やはりここでも強かった! 米三冠馬シアトルスルー、圧巻の勝利です!』
【1978年有馬記念 結果
1着 シアトルスルー 2:31.9
2着 グリーングラス 1馬身
3着 サクラショウリ 5馬身】
「伊坂先生……」
思わず、目を見開かざるを得ない。
あのグリーングラスが最後に突き放されて完敗する。彼だってかなりの名馬だというのに。
だけれど今回は、相手が相手だったか。負かしにはいったが、返り討ちに遭ってしまったようだ。
「とんでもないものを見れましたよ……」
伊坂先生も唖然とした様子で、こちらに振り向く。
「シアトルスルーってやっぱり馬のような何かですね」
苦笑しつつ、俺はそのような冗談を発する。
こんなレースを見せつけられると、歴代の米三冠馬とも競わせたくなる気持ちが湧いてくる。
だがこれでお終い。そう、シアトルスルーはここで引退だ。
鞍上を務めてくれた小田部さんは、きっと悲しむが喜んでもくれるだろう。
シアトルスルーなら、必ず大種牡馬になってくれる――と。
しかしこの時点では、まだわからなかった。
まさか小田部さんが本を出版するなどとは――。
「すみません、オーナー。よければなんですけど、これどうぞ」
有馬記念から何日か経て。牧場を訪れた小田部さんから、一冊の本を手渡された。
タイトルは――『シアトルの背』。完全に怪文書集と思しき本だった。
シアトルスルー、引退。初年度種付け料は1300万円。