記憶にある中では、天皇賞(春)三連覇と聞くと、どうにも寒気に見舞われる。
思い起こす光景は、ある芦毛のステイヤーが黒い刺客に敗れ去った瞬間。この京都競馬場をどよめきが覆った。
今こうして、自分たちがそうなるかもしれない大舞台に立つというのは、どうしても身が引き締まる。
我らがグリーングラスがいかに強いステイヤーだとしても、波乱は起こりえるもの。
気づけば、競馬新聞がしわに塗れるほど、強く握ってしまっていた。
冷や汗は止まらないし、肩も震えている。胸に手を当てても、いつもの倍近くは拍動しているのではなかろうか。
「……頼むぞ、グリーングラス、的田くん」
隣で、顎に手を当てうずくまるような体勢でいる伊坂先生が、ポツリとそう呟く。
天皇賞(春)三連覇。誰も成しえないこの偉業に挑もうというなら、ここまで緊張感を漂わせるのはもはや必然かもしれない。
ひと呼吸置いて、返し馬を終えていく各馬に視線を注ぐ。
「……グリーングラスは、強いんだ」
思い込ませるように零す。あれは間違いなく名馬であって、俺の知る『緑の刺客』なのだから。
「伊坂先生……自信のほうは?」
「……お恥ずかしながら、五分五分ですね。自信と不安で」
「仕上がってそうですけどね……」
「はい、そこはきっちりと」
「あとは……」
一頭の鹿毛に視線を移す。以前グリーングラスを破った名馬に。
「逃げ馬次第、ですかね?」
「あの馬が逃げるとなると、展開がまったく変わってきますからね……」
「……エリモジョージ、俺たちにとってはトリッキーな相手ですね」
このレースは、天皇賞(春)は。間違いなくエリモジョージがペースを握ろうとしてくる。
だが問題は、どんなペースに持ち込んでくるかがわからないというもの。
「グリーングラスは6歳ですが、エリモジョージは7歳馬。それもあって人気はちょっと落としてますが、こちらにとっては油断ならない相手です」
「伊坂先生が想定している中で、最悪なペースは?」
「1000m時点で1分を切っていて、なおかつグリーングラスが外を回っていたら、です。……枠順もいいとは言えませんから」
18頭中の16番。グリーングラスがスタートするのはその枠から。
「……道中は的田さんの判断能力が問われますか」
ならその不利を覆すのが、操縦者である騎手というもの。
「3200mという長丁場、どう乗り切るのやら……」
ゲートに入っていく各馬の姿を目の当たりにして、緊張感がより強まっていく。
だが同時に、胸からはまた違うなにかが込み上げてくる。なにやら熱いものが。
「それゆけ、グリーングラス……!」
俺の言葉が歓声に飲み込まれる瞬間――
天皇賞(春)が開幕を告げた。
『スタートしましたっ! おっとグリーングラス、ポンと出ました。1番人気グリーングラスが好スタートを切りました。拍手が沸きます、拍手が沸きます。しかし行かせまいとエリモジョージ、3番エリモジョージがハナを取りに行きます。グリーングラス、争わずスッと下がります。4番手から5番手辺りに下がっています。
先頭は、やはり先頭はエリモジョージ。エリモジョージが逃げを打ちました。古豪エリモジョージが逃げます。若干後ろ、エリモジョージの半馬身ほど後方にサクラショウリ、逃すまいと続いております。グリーングラスは前方を眺める形、4番手に位置を取っていますが、外、やや外を回っています』
淡々と状況が告げられていく場内を、並々ならぬ熱が包み込む。
それでもグリーングラスと的田さんは、粛々と自分たちの競馬をしていくだけ。
たとえ三連覇であろうと、天皇賞であろうと。グリーングラスを信じて突き進んでいく。
エリモジョージらを前に、人馬は臆することなく立ち向かう。
――――だが。
的田さんがなにかに気づいたように最内へ切り込む。そこでまさかと、掲示板へと目をやる。
『1000mの通過タイムは、59.7! かなり速いペースとなった天皇賞(春)! これは大丈夫か!? これは大丈夫なのかエリモジョージ!?』
「……これ、は……」
ふと横に顔を向けると、伊坂先生が頭を抱えていた。
「やられたっ……!」
苦い表情を垣間見せる伊坂先生で、この状況を理解する。
「エリモジョージ……
ということは、あちらにかなり意識されている。グリーングラスを打倒するための逃げだというのなら。
「伊坂先生……!」
「やはり、ひと筋縄ではいきませんね」
「これ、まずいですね…………ん?」
先頭に立つエリモジョージがここでサクラショウリに差を縮められていく。これだけのハイラップを刻んで失速、しかも残り1400m付近というと――
「……すぐ捕まえないと……!」
自然と、そんな言葉が口から飛び出す。
間違いない、あれは間違いなく。
「
頼む、頼む、頼む。
ただただ、気づいてくれと。ひたすら祈るしかない。
現在グリーングラスは5番手。前目ではあるが、このまま最終直線となれば。
心理戦という意味では、こちらの敗北は濃厚だ。
『間もなく残り1000mを通過していきます。2番手サクラショウリは後退気味。ここで単独先頭はエリモジョージとなります。まだ、まだエリモジョージが先頭であります。グリーングラスは、グリーングラスはいつ仕掛けるか。じっくりとじっくりと構えております』
「どうだ……!?」
的田さんは手綱を握って、鞭はまだ持ったまま。
もうすぐ残り900mとなろうというのに、いつ仕掛けるのだろうか。
「このままでは……」
顔を覆おうとしたその一瞬。
『あーっと、グリーングラスが仕掛けた! グリーングラス、的田弘が手綱を押して仕掛けていきました! 一気に動きます! 一気に展開が動きます! グリーングラスが上がっていった!
間もなく最終直線! エリモジョージが先頭で、さあ天皇賞(春)、盾の覇者は果たして!? 最終直線に差しかかります! 外からグリーングラス来た、グリーングラスがやってきました! エリモジョージが粘っている! まだ粘っている! 図ったかエリモジョージ! このまま逃げ切れるか!? しかし外、外からグリーングラス! グリーングラスが! 突っ込んできた! 撫で切るかグリーングラス! 的田はやっぱり怖かった! 必死に鞭を打って、グリーングラスが、エリモジョージを、躱していきます!
躱した! 躱した! グリーングラス、エリモジョージと半馬身ほどのリード! 三連覇濃厚! 三連覇濃厚! グリーングラスの三連覇だ! グリーングラスの三連覇だ!
先頭、グリーングラスがゴールインッ! 勝ちましたのは、三連覇を目指したグリーングラス! 見事に、見事に天皇賞(春)三連覇を成し遂げました! 大仕事をこなしました的田弘!』
ほんの一瞬。それだけで、勝負は決した。
まさか春の盾を三連覇するなど、先ほどまでは思うことさえできなかったのに。
「……あっぱれ、グリーングラス、的田くん」
唖然とした様子で、伊坂先生が呟いた。
【1979年 天皇賞(春) 着順
1着 グリーングラス 3:19.7
2着 エリモジョージ 1馬身
3着 カシュウチカラ 4馬身】
「……グリーングラス、宝塚記念は回避ですか」
「まあ、天皇賞での疲労が抜けきらないようですしね、牧野さん」
「そうですか。……それにしても、春の盾を三連覇とは。すごいことを成し遂げてくれましたね」
「グリーングラスも的田さんも、素晴らしい仕事をしてくれましたよ。……まさか的田さんが三連覇しようとは」
「……オーナー?」
「ああ、いえ。数奇なこともあるものだなと」
「ところでオーナー、来年産まれる幼駒の予約をしたというのは本当ですか?」
「本当ですよ。牝系もよさげでしたし。繁殖牝馬は買っていませんが。確か名前は……」
――ニホンピロエバートでしたね。秘めてるのはスティールハートの仔だったような。