ケンタッキーダービーという頂に上り詰めたのなら。
もうひとつ、いや、あとふたつ。三つの冠を制するには、それらのレースも優勝する必要がある。
と、そういうわけで二冠目、ピムリコ競馬場で開催されるプリークネスステークス(ダート1900m)にも出走したわけだが……。
『さあ米二冠目、プリークネスを制するのは!? アメリカ馬か、日本馬か!? 最終直線に向き、各馬、仕掛けていきます。先頭は、先頭はなんと、なんとスペクタキュラービッド! ケンタッキーダービー馬スペクタキュラービッド! 鞍上日原、今日は前目に着けて押し切りを狙います! 前走とは打って変わって! プライヴェイトアカウントが追うが、届くどころ差は開く一方! 7、8、9馬身……突き放す突き放す!
スペクタキュラービッド、今ゴールイン! やはり日本馬! ケンタッキーダービー馬が見事やってくれました! 拳を突き上げて、日原も歓喜を露わにします!
勝ちタイムは……1.53.2! 惜しくもレコードには届きませんでしたが、見事な勝ちっぷりを見せてくれました!』
と、このようにスペちゃんが圧勝してくれたのだ。
となると、残る一冠はベルモントパーク競馬場のGⅠベルモントステークス。
無敗で米二冠を達成したとなれば、三冠達成への注目度はなおさら高まるばかりだろう。
日本調教馬での達成となると、1977年にシアトルスルーが名手を背に成し遂げたのが記憶に新しい。
聞いたところによると、日本競馬内でもスペクタキュラービッドが三冠馬となるのかどうか、そういう話題で持ち切りだという。
日本からの期待に応えて、ベルモントも勝って歴史的快挙をもう一度、といきたいところではあるが……。
今度ばかりはそう簡単に勝てそうな気がしない。
史実において、スペクタキュラービッドという名馬は2000mならば
本当にセクレタリアトと対決したならばどうなるか、というのはさておいて。
なにせ、このベルモントステークスが2400mという距離で行われるのだから。
実際、史実では安全ピンを踏み抜いてしまうというアクシデントこそあったものの、ベルモントでは無念の敗退を喫している。
俺だけが知る実例があることによって、なおさら不安に駆られるというもの。
「……伊坂先生、スペちゃんの脚元、大丈夫でしょうか?」
「え? え、ええ。今のところはまったく異常はありませんでしたね。生き生きとしてました」
「ならいいのですが、やっぱり不安ですね」
晴天の下、赤茶の砂が風に運ばれる。
ベルモントステークスの出走頭数は僅か7頭。
そのうちの5番、それがスペちゃんの馬番だ。
日原さんは「勝ちますよ、絶対に」とコメントしてくれていたが……結果はどうなるのかわからなさすぎる。
一応人気もスペちゃんが一番人気で、オッズは1倍台と、完全に一強と予想されてはいるが。
発走時刻間近に迫って、ゲート入りも次々と済まされていく――そんな光景を目にすると、自然と肩に力が入ってくる。
深呼吸して、呟く。
「――頼む」
そして――運命の始まりを告げるように。ゲートが開け放たれた。
『――さあ、スタートしましたっ!
5番スペクタキュラービッド、好スタート、好ダッシュを決めました! スタンド、拍手喝采が沸きます! 拍手喝采が沸きます! その勢いのままスペクタキュラービッドがハナを切ります! スペクタキュラービッドがプリークネス同様の逃げ切り、押し切りを図るか!
鞍上の日原成樹、自信を胸に力強く手綱を押して押して押します! 行った行った、スペクタキュラービッド! 三冠の懸かったスペクタキュラービッドがいった!』
「伊坂先生、どうですか? これは」
「日原くんは作戦があると言ってましたが……まあ、けっこういくんですね、彼」
「2番手とのリードは2、3馬身ほど。まあまあの逃げ、でしょうか?」
「うーん、たまになにを考えてるのかよくわからない競馬をしますからね」
「天才かなにか、ですかね……?」
「まあ上手い時は上手いですから」
『1000mの通過タイムは1.00.6! 少し速いペースとなりましたベルモントステークス! 先頭は依然スペクタキュラービッドですが、すぐ後方にはアメリカのコースタルが構えています。米三冠の偉業を成し遂げるか、スペクタキュラービッド。このまま逃げ切りを図ろうとしています』
「思ったよりも速いが、大丈夫なのか……?」
伊坂先生が眉をひそめて呟く。
未知の距離でこのペースともなれば、不安になるのも仕方ない。
ただこのペースで逃げるとなると……。
「ここからどう
それでもあの天才タッグはやってくれるはずだ。
『残り800mを切りました。後方2頭、位置を押し上げにかかっています。スペクタキュラービッドを捉えられる位置取りか。中団、先団の馬も徐々に動き始めます。
スペクタキュラービッドと二番手コースタルとの差は少しづつ詰まりつつあります。これはどうか、スペクタキュラービッド。一番人気スペクタキュラービッド、逃げ切れるのか。
残り600m、最終コーナーにかかっても、先頭はまだ、まだスペクタキュラービッド! 二番手との差は1馬身ほど! 日原成樹はまだ手綱を抑えている! ここから行くのかスペクタキュラービッド!
残り400mを切って、最終直線へと、三冠目へと差しかかっていきます! 先頭スペクタキュラービッド! 手綱が動いてスペクタキュラービッド! しかし鞭は打たないか! 二番手はコースタル! この脚勢はどうか! 先頭へ躍り出られるか!
しかし、しかし! まだ先頭はスペクタキュラービッド! 2、3馬身がなかなか縮まらない! 手綱を押して、三冠ロードを突っ走る!
残り100mだが、もう決まった! もう決まった! 差が縮まらない! 差が縮まらない! アメリカンホースを押し退けて、スペクタキュラービッドが駆け抜けていく!
――スペクタキュラービッドが今、ゴールイン! 完勝です! 完勝でした!
1979年、今ここに、史上2頭目の無敗の米三冠馬が誕生しました! スペクタキュラービッドが……っ……やりました! 関西の若きホープと共に、トリプルクラウンを勝ち取ってみせました!』
「日原成樹騎手、スペクタキュラービッドでの米三冠達成おめでとうございます。ケンタッキーダービー、プリークネス、ベルモントと続いて完勝でしたが、実感のほうは?」
「うーん……そう、です、ね。正直ね、こんな名馬と出会えるなんて……これはオレが勝ったわけじゃないんです、スペが勝ってくれたんです。なのでね、実感はあんまり、ですね」
「そうですか。では、最終直線での手応えのほうはいかがでしたか?」
「ずば抜けてますね、この馬は。まだケンタッキーダービーでの手応えのほうがよかったですけど、それでも最後、踏ん張ってくれました。ベルモントはちょっと長かったみたいです」
「つまり距離は合っていなかった、と?」
「うん、そうです。最後はちょっとばかり慌てましたけど、そこをスペが……っ……うん、カバー、してくれて、ね……。まだまだ下手なんですよ、オレは」
「今回は馬の力で勝ったようなもの、と?」
「はい。最初は脚を溜めつつ逃げ切るつもりだったんですが、思っていたよりも詰められまして。まあ、完全に作戦負けです。スペが踏ん張ってくれました」
「なるほど。では最後に、なにかひと言を」
「今はただ、スペにありがとう、と言いたいです、はい」
「ありがとうございました。こちらアメリカから、日原成樹騎手の勝利騎手インタビューでした」
「あの馬は、オレにとって永遠の思い出で、永遠に残る心の傷、かな。あれには本当に後悔しかなくて、もし今会えるのなら、土下座でもなんでもして、ひたすら謝りたいよ」
――かつて天才と呼ばれていた男