中山競馬場には、風が穏やかに吹いていた。
夏であるなら、やや熱を含み、蒸し暑さを増幅させてそうなそよ風だった。
だが今は春。桜の花弁を巻き込み、散らしていく様は、中山競馬場に新たな時代の訪れを知らせているようにも見えた。
――そう、競馬で春といえば、三歳馬のみが挑める一生に一度だけの大舞台、クラシックであろう。
クラシックに挑める三歳馬たちは、一世代の中でも選りすぐりの強豪ばかり。
競馬関係者ならば、誰もが挑みたい大舞台でもあるのだ。
クラシックで台頭した馬が、やがて古馬となり、新たなる時代を切り拓いていく。俺の認識としてはこれだ。
しかし、中にはクラシック最有力候補に名を挙げるが、直前で故障し、クラシック出走どころか引退を余儀なくされた馬や、二冠を制したのに、故障により三冠目への出走を断念、引退した馬もいる。
競馬とはままならないものである。クラシックには栄光もあれば、その影に無念や雪辱もある。
今こうして、中山競馬場を見渡していると、騎手はもちろん、馬でさえ必死に掴み取ろうとしているように見える。そう、クラシックへの出走権を争って。
鞭を打ち、手綱を押し、息を入れ、馬と騎手が一心同体となる。
勝ちたくて堪らない。そんな気迫を互いに発し合い、そして彼らは、優先出走権へと手を伸ばす。
先頭に立ち続けているのは、一頭の逃げ馬。
俺にはその馬が、手綱を握る騎手と一体化しているように見えた。その光景はまるで、漆黒の弾丸のようだった。
彼らの間には、目には見えない絆がある。なんとなくだが、そのような確信があった。
気がつけば、風が一層強まっていた。
観客席を見やれば、開いている競馬新聞を必死の形相で握りしめ、飛ばされないようにしている中年男性の姿がある。風はそれぐらいに強かった。
だがそれは、このレースの決着の合図のようにも思えた。
『最終直線に入って、カブラヤオーです! カブラヤオーが未だに先頭であります! 後続が必死に追うが、その差は縮まるどころか開いている! 四馬身、五馬身、六馬身……いったいどれほどの実力馬なのか!? これはもう決まった! これはもう決まった!
カブラヤオーが一着! カブラヤオーが華麗に逃げ切りました! なんと六馬身! 後続に六馬身もつけての圧勝劇となりました! GⅡ弥生賞を制したのは、無敗のカブラヤオーであります!』
GⅡ弥生賞――皐月賞のトライアルレースで逃げ切った馬こそ、俺のカブラヤオーだった。
鞍上の倉田さんが鞭を掲げる。その表情は、この競馬場を覗くような青空よりも晴れやかに見えた。
弥生賞を勝ったということは、カブラヤオーの皐月賞出走は確実となったこと。
春が深まってきた四月。俺は鼻歌を歌いながら、栗東にある伊坂先生の厩舎を訪れた。
カブラヤオーに会うことも目的のひとつだが、伊坂先生や倉田さんとも話したくなったからだ。
「ああ、オーナー。こんにちは」
「伊坂先生、こんにちは。すみません、どうしても来たくなってしまって」
「いえいえ、構いませんよ」
穏やかな笑みがより一層深まったようにも思える。伊坂先生も楽しみにしてくれているのだろう。
「ええ、言わずとも察しておりますよ。カブラヤオーと倉田くんですね? 今は芝コースで倉田くんが乗ってくれていますので、行きましょうか」
あっさりと内心を看破されたものの、それなら話は早かった。
芝コースで軽めに追われている緑のメンコを被った馬、あれこそがカブラヤオーであった。
「倉田くん、オーナーが来たよ!」
伊坂先生がそう呼びかけると、カブラヤオーに乗っている倉田さんは手綱を引き、追いを止める。
首元を二、三度撫でてから下馬し、カブラヤオーを厩務員に引き渡すと、こちらに駆け寄ってくる。
そして、肩で息をしながら、こちらに一礼した。
「こんにちは! オーナー!」
「こんにちは、倉田さん! ……大丈夫ですか?」
「ああ、いつものことなんでお気になさらず!」
倉田さんは腕で額を拭い、快活に笑う。
続けて大袈裟に両手を広げ、肩を竦める。
「いやぁ、凄いですね、カブラヤオーは! 今日も手応え抜群! いつでも皐月賞に臨めますよ!」
さらに笑みを深め、童心を踊らせているような声音だった。倉田さんはカブラヤオーに乗ることをますます楽しみにしてくれているようだ。
クラシックは生涯一度の大舞台。ホースマンたちの気合いの入れようは凄まじいものだ。
「いよいよ皐月賞。ここまで来れる馬だとは思っていましたが、どうやらカブラヤオーは、我々の予想を遥かに凌駕しているようです」
厩務員に引き連れられたカブラヤオーの首元を撫でながら、伊坂先生は表情を強張らせる。
倉田さんの方を振り向くと、うんうんと頷いていた。
やはりといっていいか、カブラヤオーはこちらの杞憂など蹴り飛ばしてくる名馬だった。
この調子ならば恐らく――いや、確実といえるレベルで皐月賞を勝てるだろう。
クラシック一冠目、皐月賞にはある格言が存在する。
――最も速い馬が勝つ。それは仕上がりにおいても、純粋なスピードにおいてもだ。
なればこそ、カブラヤオーの仕上がりとスピードを見せつけようではないか。
「カブラヤオーは、速い馬です」
拳を握り、唇を結う。
皐月賞は必ず勝つ。この陣営で、絶対に。
「勝ちましょう、必ず」
伊坂先生が首を縦に振り、倉田さんの方を振り向く。
倉田さんは、先ほどの頷きより、さらに大きく頷く。
今こうして、カブラヤオー陣営は団結する。
俺たちの今の目標はただひとつ。カブラヤオーと共に勝つことだ。
次回、クラシック一冠目、皐月賞。