胸の奥から、熱い何かが込み上げてくる。この何かをマグマに置き換えると、まるで自分自身が火山になったような気分だ。噴火寸前の火山であるようだが。
鏡などあるはずがないため、詳細にはわからないが、今の俺の顔は茹でられたタコそのものなのだろう。
口から火どころかマグマを吹き出せそうだ。いや、それでは火山ではないか。
だが、タコは茹でられたら全身が真っ赤に変色する。俺も緊張したら顔が真っ赤に様変わりする。つまり、俺はタコなのかもしれない。
そんなくだらない暴論で自身の緊張を解そうとしているが、一向に表情が柔らぐ様子はない。
それも仕方ないのかもしれない。今から馬主として目にするのは、自身の持ち馬がGⅠを駆けるところなのだから。
再確認のため、改めて出走馬表に目を落とす。
十八頭中の十八番、大外枠にカブラヤオーと鞍上である倉田隆景さんの名前が記されてあった。危うく出走馬表を投げ捨てそうになるが、マナー違反どころか人前でやっていいことではないうえ、ランダムに決定されてあるため、なんとか思い留まる。
大外枠の十八番という単語を繰り返し呟いてみる。すると、胸の奥から先ほどの熱さとはまた違う、今度は泥のような生温かい熱が込み上げてくる。だからそこで思考を打ち切る。目の前で行われる現実を目の当たりにせねばならない。
次にパドックに目をやる。
この場まで勝ち抜いてきた強豪の三歳馬たちが厩務員に引かれ、周回している光景が目の前に広がる。
空には雲ひとつなく、太陽がその姿を現し、競馬場を照らす。そんな中を十八頭の馬たちは闊歩する。そう、陽射しで作られたそれぞれの栄光への道を。
だが、この一冠を奪取し、皐月賞馬となるのはカブラヤオーだ。俺はそう信じて疑わない。というか疑おうにも疑えない。やはり所有馬というのは可愛いものである。
当のカブラヤオーに視線を注ぐ。
首を少々揺らしているが、いつも以上に絶好調といったところか。
前走の弥生賞と同じように圧勝とまではいかずとも、十分に勝利を狙えそうだ。
出走馬表を握る手に思わず力が入ってしまう。だけれど、もはやそんなことは気にならなかった。
この大舞台を、皐月賞を、満足のいくように駆け抜けてほしい。そんな欲張りな願いを胸に秘めて。
今度は胸だけでなく、目頭も熱を帯びてくる。
『いざ参らん、狂気の逃げ打て、カブラヤオー』と記された馬券の形をした白紙を握る。応援馬券代わりに自作したものだ。
白紙には既にいくつもの皺ができていた。握り潰しすぎたようである。
間もなく騎乗合図が発せられる。これからだ、この世代で最も仕上がりの速い馬が決まるのは。
中山競馬場が静寂に包まれる。
瞬きする間もない一冠目。
『――スタートしましたっ!』
静寂が一瞬にして歓声へと変わっていく。
競馬場全体に響き渡るは、各々の声援。
『さあ、大外枠から飛び出してカブラヤオーがいった! カブラヤオーが内に食い込んでいった! 先頭は逃げ馬カブラヤオー! 鞍上倉田隆景が手綱を押している! 二番手にエリモジョージ、カブラヤオーに競りかけるか。いや競りかけない。エリモジョージは二番手で様子見か。
やはりいった! やはりいったぞ、カブラヤオー! リードを四馬身ほど取っている! ここでも大逃げを炸裂させるかカブラヤオー。倉田隆景は落ち着いた様子で我が道をいっております』
逃げて、逃げて、逃げまくる。
倉田さんの表情は窺い知れない。だがわかることがひとつ。
――倉田さんは本気で逃げ切るつもりだ。
『1000mを通過しました。未だにカブラヤオーのペースは緩まない。このまま押し切るつもりか倉田隆景。超ハイペースを展開しております。
おっとここで競りかけていった! エリモジョージ! エリモジョージが迫ってきた! 仕掛けた仕掛けた、エリモジョージが仕掛けた!』
――エリモジョージ。稀代の癖馬とされ、カブラヤオーとはまた違う狂気性を発揮する逃げ馬。
史実ではエリモジョージは無尽蔵のスタミナを有していた。とすると、最終直線でカブラヤオーの逃げが少しでも鈍った瞬間に食らいつき、差し切るつもりかもしれない。
しかも鞍上はかの『天才』。一瞬でも気を緩ませると、あとは食われるのみだろう。
カブラヤオーにとっても、倉田さんにとっても厳しい展開になってきている。
だが、その展開がどうした。
『最終直線であります! 残り300m! 先頭は鞭が入ってカブラヤオー! 先頭はカブラヤオーのまま! エリモジョージが迫ってくる! エリモジョージが迫ってくる! しかしなかなか差が縮まらないか! このまま逃げ切るか! 栄光まであと200m!
カブラヤオーが突き放した! なんとなんとここで後続を突き放す! 振り切った、振り切った! 後ろからはなんにも来れない! 後ろからはなんにも来れない! 後続は伸びない! カブラヤオーが逃げて差したァッ!
カブラヤオー、今一着でゴールイン! カブラヤオーです! 今ここに、無敗の皐月賞馬が誕生しました! 倉田隆景とカブラヤオーであります!』
カブラヤオーが無敗の皐月賞馬となってくれた。そう、なってくれたのだ。
夢を見ているのだろう。いや、これは現実。紛れもない現実だ。頬をつねっても目覚める気配がない。
ウイニングランを行うカブラヤオーと、観客席に向かって手を振る倉田さん。心なしか、倉田さんの目には涙が溜まっていたように見えた。
「おめでとうございます。カブラヤオー、強かったですね」
「あっ、ああ、ありがとうございます!」
ちょうど隣席していた四十代から五十代くらいの馬主さんからお祝いの言葉を頂く。
しかしこの方は、どこかで見かけたことがあるような気がするが。
「申し遅れました、私、メジロという冠名で馬主をしております。
「ああ! あのメジロの!」
やっぱりだった。この男性こそ、メジロ軍団の総帥であった。
メジロ軍団を率い、牧場を経営するオーナーブリーダー。天皇賞の盾を欲し、悲願を叶えようと奔走する。それこそが北見豊武さんという馬主だろうか。
だがまさか、この場で顔見知りになれるとは思っていなかった。嬉しい誤算である。
「カブラヤオーはとても速い馬でしたね。流石無敗の皐月賞馬です」
北見さんが温和な微笑みを浮かべる。声音も明るいため、心から祝ってくれているようだ。
「ですがエリモジョージに競りかけられたときはヒヤッとしましたよ! いやぁ、まさかあそこから加速するなんて……」
「そうですね。恐らくですが、あんな芸当を見せられたらメジロムサシでも厳しいでしょう」
「……!?」
思わず池から飛び出てしまい、必死に水を求める魚のように口を開閉してしまう。
今の発言はメジロムサシですら敵わないかもしれないという、事実上の負けを認めた宣言にも取れてしまう。
北見さんの口からそんな言葉が飛び出てくるのも、完全に予想外の出来事だった。
「……あなたは馬を大切にしそうな目をしています。どうかこれからもぜひ、そのスタンスを貫いてください。申し訳ないです、時間を頂いてしまって」
「ああ、いえいえ! それでは!」
動揺したまま、慌ててウィナーズサークルへと駆け出していく。
だが駆けていくさなか、北見さんの言葉が脳内で再生される。
『……あなたは馬を大切にしそうな目をしています』
混乱と感動が交錯し、脳が今にもオーバーヒートしそうだったが、なんとか持ち堪える。
あの言葉はいったいどういう意味だろうか。そんな考察を振り払い、俺は皐月賞馬カブラヤオーのもとへと歩いていった。
メジロファントムしゅき。