奥沢美咲短編集   作:rain/虹

4 / 10
今回は巻波彩灯さんの作品になります。


恩返しは笑顔の魔法で

 

 空を飛んだり、水の上を歩いたり、動物と言葉を交わしたりと人間単体では実現不可能なものを思い描くのが空想というものだろう。しかし財力や技術力があれば、簡単に実現できてしまうということも知っている。いや思い知らされたというべきか。

 

 ここ最近起きた出来事を振り返りながら、黒髪とベビーブルーの瞳と特に目立った印象を覚えないどこにでもいそうな少女――奥沢(おくさわ)美咲(みさき)はほどほどとは縁遠い毎日を送っていると重いため息を吐く。どれもこれも弦巻(つるまき)こころという同級生のご令嬢が原因だ。

 

 彼女は人を笑顔にするために、あれやこれやと手を尽くす。だから尋常では考えられない計画を立て実行することに対して、躊躇いがない。ただ結果は誰かを喜ばせて笑顔にしているのだから、協力するのもまんざらでもないと思っている。

 

 とはいえ冒険続きの日常だけでは疲れてしまう。たまには息抜きしようと、羽沢珈琲店で休日をのんびり過ごしていた。店内には軽やかなジャズミュージックが流れ、コーヒーの香りが鼻腔(びこう)をくすぐる。

 本来なら自身が所属しているバンドで唯一常識的な先輩である松原(まつばら)花音(かのん)が向かい席に座っているのだが、今日ばかりは予定が合わず。一人コーヒーをちびちびと舐めるように飲みながら、なるべく喧噪から遠ざけるよう意識的にゆっくりする。せっかく羽を休める機会なのだがら、忙しく羽ばたかせる必要はない。

 

 けれど落ち着かない、少し店内を見回す。休日だけあって混雑しているというわけではないものの、それなりに席は埋まっている状況。純粋に飲食を楽しむ家族、ノートパソコンと(にら)み合う大学生らしき若者、談笑に花を咲かせるカップル――多種多様な人々の過ごし方を()の当たりにして何となくお独り様の自分は浮いているのではと錯覚(さっかく)する。

 

 いや気にしすぎだろう。むしろ賑々(にぎにぎ)しいメンバーが誰一人もいないのだから目立つはずもない。落ち着け、今この時間こそが自分が望んでいたものではないか。

 喧噪に慣れた身体というのは、何か行動を起こさなければいけないと衝動に突き動かされてしまいがちなのだと実感する。彼女たちと過ごした時間の密度が濃かった証明と呼べるだろう。またワクワクする出来事が起きないだろうかと思う自分が、心のどこかにいるのも事実だった。

 

 だが休日を満喫(まんきつ)するんだと言い聞かせ、振り払うように窓際の席付近へ目を向ける。ふと一人の男性に留まる。

 距離は斜め二つ前、注視すれば表情の詳細は読み取れそうな気もしなくないところ。ふわりとしたくせっ毛を好き勝手させたショートヘア、黒ぶち眼鏡(めがね)のレンズの奥にあるやや細長い目、顔立ちは二十代らしいと思われる若々しさがある。服装もカーディガンとシャツという無難な格好、さしてどこにでもいそうな青年だが、険しそうに机の上を見つめていた。

 

 何と向き合っているのだろうかと興味本位で彼の視線を追いかけると、箱型のペンケースと紙が置かれている様子。画家でもやっているのだろうかと何気なく推測を立ててみるが、人の事情を邪推(じゃすい)するのは良くないと打ち消す。しかし彼から冒険の予感を抱いているらしいのか、興味が尽きなかった。

 

 観察し続けること、ほんの少し。彼の手が動く気配はない。流石に(なが)め続ける居心地の悪さや飽きを感じて目を離す。

 顔馴染みの女性店員がトレーにコーヒーカップを載せて横切る。向かう先は追いかけなかったが、会話した方向で判明した。先程、凝視(ぎょし)し続けていた斜め二つ前――眼鏡をかけた青年の席。

 

 驚いて顔を向くと彼は穏やかな声音で店員に礼を言い、彼女が会釈(えしゃく)をして立ち去ったあと、注文した飲み物に口つける。予想していた味より苦かったのか、すぐにカップから顔を離し眉根を寄せた。傍らに置いてある角砂糖が入ったビンを手に取り、おもむろに蓋を開けていく。

 

 彼の行動は予想できていたうえに、理解もできる。だが投入する量だけは範疇(はんちゅう)外だった。一個二個ではなく、四個も五個も入れている様に胸焼けしてしまい、再度目をそらす。

 何故、彼の一手一足気にしなければならないのだ。今さらの自問、自ずと浮かび上がった自答を認めたくなくて、コーヒーを口いっぱいに含む。好奇心があるのは良しとして、冒険心を刺激してくれるかもしれないという淡い期待を抱いているのがいささか信じられなかった。

 

 幾度(いくど)も首を振って誤魔化してみるも(うち)はどうも正直なららしく、やはり一瞥(いちべつ)を繰り返ししてしまう。何度目かの一目、ついに機会が訪れる。

 彼が二杯目のコーヒーを注文して届いたあと、先程と同じように角砂糖を大量に放り込む。どう考えても甘くなった液体を軽く啜って、ソーサーの上に戻す。一連の動作に不思議なことはないが、置いた場所が悪かった。

 

 ペンを持った手が不意にカップに当たる。まだ中身が残っている上に勢いも余ってしまい、位置は大きくズレてコーヒーが波立つ。縁を乗り越えた黒茶は机に降り注ぐ。

 こぼして紙がダメになったのは、彼の(かす)かな悲鳴と少しだけ浮かべた沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちで推察できた。美咲は特に考えもなく席を立ち、青年の元へと歩み寄る。拭き取るものを探している彼に声をかけた。

 

「あの、これ使ってください」ショートパンツのポケットから無地のハンカチを取り出し、差し出す。散々興味本位で見ていたのだから、流石に我関(われかん)せずを貫くのは気が引ける。

 

「いやいや、大丈夫だよ」

 

 しかし青年は受け取らず押し留め、苦笑いで遠慮した。「こんなの、これで済むから」指で示したのは、コーヒーの色に染まったカーディガンの袖。たまらず美咲は言い返す。

 

「いや、それこそダメだと思います」

 

 染みになるのが目に見え、せめて酷くならない内に「とりあえずこれで軽く拭いてください」もう一度ハンカチを差し出した。「あたし、ふきん持ってきますから」宣言通りに取りに行こうと振り向く――顔を合わせたのは、先程彼にコーヒーを運んだ顔馴染みの店員。

 彼女の手には既にふきんが握られており、あとは任せてと黒茶にまみれた机上(きじょう)をささっと拭く。二人のやりとりを見て、最初からそうすれば良かったじゃんと美咲は遠い目で眺めていた。

 

 申し訳なそうに青年は店員に謝罪と礼を何度か述べ、彼女が再び去ったのを見送るとベビーブルーの瞳を映す。「君もありがとう」自身が好き放題させているくせ毛のようなふわりと柔らかな笑みを浮かべて()ぐ。「ハンカチ汚しちゃったから、洗って返すよ」カーディガンに付着した分や紙に飛び跳ねた分を拭ったことを示すかのように、柄のないハンカチに黒茶が模様と化していた。

 

「いや別に大丈夫ですよ」逆に自分の方が申し訳なく感じ、美咲は首を横に振って断る。「どこでも買えるものですし」

 

「だからって、借りっぱなしは気が引けるからさ」

 

 眉尻(まゆじり)を下げて青年は困ったように苦笑を(こぼ)す。「今度会った時に返すから」会える保障もない約束に、美咲も当惑(とうわく)するが彼の懇意(こんい)無碍(むげ)にはできないと押し弱く認め、分かりましたと了承した。

 つと机の方へ一瞥(いちべつ)を投げる。コーヒー色の下に、柔らかい線と色(づか)いで温かな世界観を描かれたイラスト。どこかで見た覚えがある気がし、おぼろげに幼き日の記憶が脳裏にチラつくが、強烈に気に留めることはなかった。

 

 

 

 

 青年と出会って数日後、美咲は普段通りに学校に通っていた。彼との約束は鮮明に覚えていても、チラリと目に映した絵のことはさほど気に引っかからない。だが大した思い出ではないと割りきるには、いささか心覚(こころおぼ)えがある。

 

 幼き記憶の残滓(ざんし)を解決するため、昼休みに図書室へ向かう。花咲川女子学園には歴史ある蔵書(ぞうしょ)が多いものの、司書が手広く図書を入れてくれるため、案外答えは見つかるかもしれない。淡い期待を胸に図書室内に入ると、司書が明るく挨拶(あいさつ)する。

 

 礼儀正しく返し、美咲は絵本はあるのかと訊ねた。小説を好んで借りていただけに、他のジャンルに関しては記憶が薄い。

 意外だったのか司書は大きく目を見開くが、やがて落ち着いた相好(そうごう)に戻り、親切丁寧に絵本が収まった棚を教えてくれた。

 

 美咲は素直にお礼を言い、教えられた通りに本棚へと向かう。微かに見覚えがある青年のイラストは、年少のときに読み聞かせてもらった絵本と似ていたような気がする。あまりにも不明瞭(ふめいりょう)な記憶を頼りにするしかないが、見つからなければそれでもいいとあっさりとした諦観(ていかん)が根底にあるからか、気負うことなく探せた。

 

 つと琴線(きんせん)に触れるタイトルを目にする。手に取って表紙を確認すると、青年のイラストとよく似た絵柄の柔らかく温かな世界観が。

 もしかしたらと思い、本を開いて読み進めていく。最初こそはあまりピンと来なかったが、物語が佳境(かきょう)に入る頃には幼い記憶と合致(がっち)していると確信した。

 

 いつかはワクワクして何度も読み返していた作品。大人になろうとする過程でいつの間にか読まなくなっていた思い出。確かな記憶を手繰り寄せる縁だというのだろうか。

 もし先日の出会いと手元の絵本が縁だとして、どうすればいい。互いの存在が人生に大きく影響していないどころか、何者かさえ明確に把握できてさえいないのに。

 

 優しく淡い色が散りばめられた物語を追うごとに思う。ただ彼が思い描いた新しい物語が読みたい。アイディアに行き詰まっているらしい様子だが、手伝えることはなくとも応援し続けたいと温かさが芽生(めば)えていた。

 

 

 

 

 不確定な約束を結んでから一週間ぐらいの休日――今度は花音と共に、コーヒーや紅茶をのんびり楽しむ。こころの突拍子ない行動について、これからのライブについてなどバンド活動を中心にしつつ他愛ない会話を広げていく。だが先日交わした青年との約束が気がかりで、彼が店に来ていないかと何度も周囲を盗み見してまう。

 まだ彼らしい男性は見当たらない。少しだけよそ見が多かったのか、花音にどうしたのと(たず)ねられる。何でもないと誤魔化すも、若干(じゃっかん)心ここにあらずといった様相(ようそう)だと返され、閉口してしまう。

 

 どう説明したものかと頭を(ひね)っていると、来店を告げるベルが鳴る。何気なく振り向き、来訪者を確認。好き放題させたくせ毛、黒ぶちの眼鏡と無地のカーディガンが印象的な青年が柔和(にゅうわ)な笑顔を浮かべて店員と話していた。

 見覚えのある姿を見て、美咲はホッと胸を()で下ろす。また会えるか、不安だったから。青年も美咲に気づいて、ふわりとした笑みを(たた)える。

 

「美咲ちゃんの知り合い?」後ろから花音の問いかけが聞こえ、再び向き直って戸惑いがちに頷く。へーと感嘆(かんたん)()らした彼女から言及する気配はない。

 

 内心詰問(きつもん)されないことに安堵(あんど)しつつもう一度視線の先を戻すと、青年が既に歩み寄っていた。「この前はありがとう」口元に微笑みを(きざ)んで礼を告げ「あと、借りてたハンカチ返すよ」手に持っていた(かばん)からビニールのポチ袋に収められたハンカチを取り出し、美咲に手渡す。

 どういたしましてと返しながら美咲は受け取る。やや間を置いて、「この前絵を描いていましたよね?」躊躇(ためら)いがちに質問した。「あ、うん、そんなところかな」先程の優しげ雰囲気にどこか(うれ)いを帯び、曖昧(あいまい)な返答をする青年。

 

 触れてはならないと察して美咲は口をつぐんでしまい、二人の間に気まずい沈黙が流れる。「あの……お兄さんって、画家なんですか?」助け舟を出すかの如く、花音が質問を投げかけた。

 首を大きく横に振り、「僕は絵本作家……だったんだ」彼は苦笑いで()ぐ。「今は趣味で絵を描いているだけだから」力なく笑う姿に、美咲は挫折(ざせつ)したということだけを明瞭(めいりょう)に感じ取り、ますます(もく)するばかり。

 

 用心深く言葉を選ぼうとすればするほど、何と声をかければいいのか分からなくなる。いや何も言わないことこそが正解なのかもしれない。けれど何も言わないのは不正解だと気づいていた。

 逡巡する中、幼い頃の自分がぽんっと飛び出る。慌てて引き戻そうとしても、もう遅い。

 

「あ、あたしはあなたが作るお話が好きでした」勇気も自信もひと欠片のない胸の内を震える声で明かす。「だから、またあなたが作った絵本が読みたい……って思いまして」否定されることが怖くて、つい目をそらした。

 

 困惑、歓喜(かんき)諦観(ていかん)、希望、もはや一つの境目(さかいめ)が分からぬほどに入り混じった複雑な面持(おもも)ちになり、やがて青年は眉尻を下げて笑う。「ありがとう」礼を言われて美咲は視線を戻し、彼と顔を合わせる。「けど僕はもう絵本は作らない」申し訳なさも含まれた断りが告げられ「才能がないからね」最後の一言で美咲の中で自分がやるべきことが明瞭になったが、意味がないだろうと首を振りたかった。

 

 

 

 

 結局、その日は青年と距離を縮めることはできなかった。ただ自分がやりたいことは見えている。過去の自分が彼の作品で笑顔になったように、自分も何か一つ笑顔になれる恩返しをしたい。

 かといって私情をこころらに明かしたくないのも悩み。伝えれば協力してくれるかもしれないが、確実に大事にしてお祭り騒ぎにするだろう。もうちょっと穏やかな解決法はないかと思案(しあん)(ふけ)っていると、不意にみーくんと呼ばれる。

 

 顔を上げて見回すと、バンドメンバー全員の注目を集めていた。今後のバンド活動についての会議をするということで鶴巻家に集まったが、途中から話を聞いていない。大きな失態(しったい)(おか)した――背筋が異常なほどに凍る。

 

 普段とっ散らかりがちな彼女たちの考えをまとめ役を担っているのだが、今何も話を聞いていないという間の抜けたことをしてしまったことで、忸怩(じくじ)たる思いより胸の内が暴かれる焦燥(しょうそう)が生まれた。しかし騒ぎの筆頭たる三人を見る限り、まだ何かに勘づいた様子はない。呆然(ぼうぜん)としていたことに対しての謝罪をして、適当にお茶を(にご)せば大丈夫だろうとその通りに口を動かす。

 

 反応は思い通りに納得してくれた、と思いきやこころだけが真っ直ぐと見つめたまま。「美咲、とっても素敵なことを隠してない?」ぎくりと心中を(のぞ)かれたかのような錯覚(さっかく)をし、逃げるように視線をそらした。気のせいだよと誤魔化しても、こころの目はまだ美咲を映している。

 

 助けを求めて、花音へ一瞥(いちべつ)を投げかけるが彼女はむしろ話した方がいいと(うなが)す。喫茶店での一幕で多少の事情を知っているものの、詳しい心情までは把握していないと思うが、察してはいるのだろう。ともあれ頼みの綱もこころと同じ意見ならば(すが)るところなぞないため、観念(かんねん)して素直に今抱えている想いを吐露(とろ)した。

 

 幼少期にずっと読んでいた絵本がとても好きで、ワクワクしていたこと。しばらく忘れていた物語だが彼と出会い、再び手に取れて嬉しかったこと。今も昔も心が温かくなったから、今度は挫折(ざせつ)した彼を応援したいと思ったこと。

 

 言葉にしたい分を発した後、気恥ずかしくなり美咲は(うつむ)き加減になる。「それって素敵なことじゃない」一度は顔を上げてこころの真っ直ぐな眼差(まなざ)しと向き合うが、やはり自信がなく濁して逃げてしまう。「どうして、悩むの?」情けを知っているのか(いな)か、こころの問いかけは止まらない。「誰かを笑顔にしたい、とびっきり素敵なことなのに」あまりにも真っ直ぐすぎて耳が痛くなっていく――目を背けるなと強く言われ続けてる気がして。

 

 よくよく考えてみれば、本当に接点はない。部外者にしかすぎない自分が果たして彼を元気づける資格なんてあるのだろうか。仮にあったとしても、自分如きで何とかできる思えない気がする。

 後ろ向きな感情、思考が渦巻いて前へ進めない。「大丈夫よ」あっけらかんとした声が耳に届く。再度頭を擡げて燦然と輝くレモンイエローの瞳とぶつかる。「美咲が考えたことだもの、絶対に笑顔にできるわ!」屈託(くったく)のない笑顔を浮かべて、こころは言い放つ。

 

 何の根拠(こんきょ)もない後押しだが、今まさに欲していたもの。鬱蒼(うっそう)とした心中に一筋の光が見えたところでもう一人の先輩――瀬田(せた)(かおる)が「美咲」と呼びかけて言う。「シェイクスピアの言葉を借りるなら、“天は自ら行動しない者に救いの手をさしのべない”」相変わらず哲学的な言葉を操る彼女だが、「つまり、そういうことさ」たったそれだけで締めて詳しい意味を口にしない。

 

 理解しているからこそ言わないのか、それとも理解ができていないから言えないのかは不明だが、今の美咲にとって必要な言葉だということは確か。力を借りたいと思うなら、自分がやりたいことを正直に伝えるべきだと。

 

 一つ呼吸を置いて、背筋を正す。一人ひとりを見回して最後に花音へ目配(めくば)せすると、彼女は優しげな微笑みで首を縦に振る。美咲も頷き返し、再び正面を見据えて胸を張って告げた。「あたしは……あの人を笑顔にしたい」

 

 

 

 

 美咲らの作戦会議から数日後、絵本の作者かつ今回のターゲットである青年は、穏やかな休日を普段通りに行きつけの喫茶店で過ごしていた。かつて青春を過ごした街並みもやはり多少は変化しており、少しだけあの頃の面影(おもかげ)がない。けれど誰かの青春に合わせて生まれ変わるというのは素敵なことだと思い、彼は気にしないで窓の向こうを見て楽しむ。

 

 どんな縁なのかは分からないが、自分が作った絵本を読んでいたらしい少女と出会った。彼女から好きだった、また続きが読みたいと言われたとき、重く沈んだ心が動き出したのを覚えている。まさか途中で折れた夢の続きを望む人が出てくるとは。

 

 しかし返答は断り。嬉しかった、だがもう諦めた世界だから踏み込みたくはない。彼女が読んでくれた作品以外にも出したが、どれも鳴かず飛ばず。それどころか数々の才能ある人々に追い越され、差をつけられ現実を見続けるのが辛くなった。

 だから絵本を作るのをやめて、ふらりふらりと職を定めないまま絵を描き続けている。趣味程度なら苦にならないとやんわり思っても、脳裏には仕事にしていた時代を思い出して鬱屈(うっくつ)になってしまう。

 

 悩める彼への温情(おんじょう)なのか、昔制作した作品のファンだった少女が目の前に現れた。最初こそはコーヒーを零したから厚意(こうい)でハンカチを貸してもらっただけにすぎなかったが、二度目の対面で彼女が自分の作品を読んで成長していたと知って驚いたことを覚えている。だからこそ、もう一度だけ立ち上がってみようと思う自分がいた。

 何度首を横に振って否定し続けても、立ち消えてはくれない。むしろ声高くもう一回作ってみようと叫び続けている。けれどまた心苦しくなるのではと昔の思い出が甦り、見てみぬふりをして誤魔化す。

 

 日差しが次第に雲に(おお)われ、街の明るさが失っていく。楽しんでいた景色も現実に立ち戻れと突きつけるような厳しい色つきになり、(うち)を曇らせる。

 悶々とした空模様、青年の口の端が下がるばかり。幾度(いくど)も自問自答しても目を向けたくない問題が見えて、答えられない。

 

「あの……」頭上から声が降ってきた。見上げるとつい先日出会ったばかりの少女が緊張した面持(おもも)ちでこちらを見つめている。「ちょっといいですか?」どこかぎこちない様子だが、彼は気にすることなく真剣な表情で頷く。

 

「突然のことで悪いんですけど……」

 

 躊躇(ためら)いがちに彼女は話し続ける。「この後って空いています?」不審(ふしん)に思われていないかと不安そうな相好(そうごう)ながらも絞り出すように言葉を()ぐ。「あ、あたしと一緒に……」後は空気に溶けて聞き取れなかったが、青年は二つ返事で誘いに乗った。

 

 驚愕(きょうがく)して固まる少女を映し、彼は柔らかい笑みを(たた)えて言う。「僕で良ければ大丈夫だよ」立ち上がって目線の高さが逆転する。年端(としは)のいかない女の子と一緒に行動することは傍から見れば不審に思われて仕方ない。だが青年は気に留めない――何となくだが彼女についていけば、きっと今抱えている悩みを打破(だは)する心(おど)る冒険が待っていそうな予感がしていたから。

 

 

 

 

 喫茶店から出て、彼女に連れられるまましばらくして。二人が足を止めた先、目の前には大きいと表現するにはまだ足りないような敷地と瀟洒(しょうしゃ)な屋敷があり、見る者全てを圧倒する。青年もこればかりはひどく驚き、固まる――広大な屋敷を持つ人間と知り合うとは思いもしなかった。

 

 隣に立っていた少女も苦笑いを(こぼ)し、大きいですよねと()く。流石に彼女が住んでいるようではなかったと内心安堵(あんど)し、いつものように彼は柔らかな態度で首肯(しゅこう)する。二人は屋敷の玄関まで真っ直ぐに歩を進める、かと思いきや唐突(とうとつ)に少女が進路を変えて屋敷の裏側に回っていく。

 けれど何も問いかけることなく、青年は彼女の後を追う。まるでウサギに導かれる童話の主人公みたいだと何気なく思えば、胸中はワクワクでいっぱいになる。

 

 予感が的中したかのように、裏庭にはサーカステントらしきものが見えてきた。躊躇(ちゅうちょ)なく二人は中へ吸い込まれていく。テント内は中央の円形ステージ、舞台を周囲を囲むように設置された観客席だけで構成されており、誰もが思い描くだろうサーカステントのイメージをそっくりそのまま再現している。

 

 適当な席に彼彼女らは腰かけ、ステージへ目を向けた。これから何が起こるのだろうか、青年は楽しみで仕方ない。一方少女はどこか緊張した面持(おもも)ちを保ったまま真剣な眼差(まなざ)しで見つめる――今から始まることについて不安を抱いているかのように。

 

 開演ブザーが鳴り響くと同時に、舞台の中央にシルクハットと長身が目を引く女性が(たたず)む。不敵(ふてき)な笑みを浮かべつつ堂々たる演技で青年の心を鷲掴(わしづか)みにし、没頭させる準備を整える。格調的な口上を流水の如く述べた後、煙がステージを包んで女性の姿は立ち消えた。

 

 スモークが目の前に広がり、流石の大らかな青年もやや心配になる。だが杞憂(きゆう)に終わった――すぐに煙は晴れ、中央にはレモンイエローの髪が映える小柄な少女、彼女よりもわずかに小さく見える活発そうな少女が立っており、芝居を繰り広げていく。

 

「楽しくないのかい?」

 

 つと視線を隣に向けると、気難(きむず)しそうな表情を浮かべる少女の横顔が映った。「いや、そんなことは……」彼の声かけに反応した彼女は、歯切れの悪い返答をし、思案(しあん)するかのように(うつむ)き加減になる。

 具合が悪いのではないと分かっているが、いささか心配してしまう。誘ってくれた少女が思い詰めた顔をしていると余計に。

 

 寸劇を(まじ)えたアクロバティックなパフォーマンスが傍目(はため)に繰り広げられている最中、青年の(もく)した憂慮(ゆうりょ)は止まらず気まずさが漂うばかり。いくつかの演目が過ぎた後、少女は(うれ)いに帯びた雰囲気を破るように勢いよく立ち上がる。「すみません、あたしちょっと用があるので!」彼の驚愕(きょうがく)を置き去りにして、彼女は観客席から大急ぎで走り去っていった。

 

 あまりにも突然のことで忘我(ぼうが)していた青年だが、ステージの方から大きな音が響いて我に戻る。視線を舞台に向けると、レモンイエローの髪を(はず)ませて元気よく喋る少女が目を()く。注視(ちゅうし)してみれば彼女が着ている衣装が、かつて自分が描いた主人公の服装に似ていることに今さら気づいた。

 数々の演目に登場する少女、女性らもみなどこか見覚えのある色や柄の衣装を身にまとっている。台詞を一つ一つ丁寧に聞き取ると、昔書いた物語に登場していたキャラクターが言ったものばかり。一度認識すれば、ありとあらゆるものがサーカスという表現の中で映し出された自分の作品だと思い知らされた。

 

 今まで何故気づかなかったのだろうかと首を(ひね)り、(かす)かに(うな)り立てていく。これらしい明答(めいとう)は浮かばず、思考を巡らせるのやめる。ふと観客席へ目を移すと、いつの間にか隣にピンク色のクマが座っていた。

 驚くものの青年はすぐに冷静さを取り戻し、今眼前に見えるものが着ぐるみだと認める。しかしどうして着ぐるみのクマがここにいるのかが理解できない。

 

 戸惑(とまど)いを見せる彼をよそに、クマは上擦(うわず)り声でミッシェルという自分の名を明かす。聞き覚えのある声だなと疑問に思うも、青年は口にすることはできなかった。元気のいいミッシェルに手を引かれてしまい、(たず)ねる間もないままサーカステントから抜け出したから。

 

 裏庭から屋敷内に入るのだが、どこに(つな)がっているのか分からない通路を連れられるまま走り抜けていく。照明はなく、誘導灯らしき光が点々と道案内しているように光っているだけで、いつ何かにつまづいてもおかしくはない。けれど青年は蛍が住まう薄暗(うすぐら)洞窟(どうくつ)だと想像し、楽しそうに笑みを(こぼ)した――きっと向かう先は夢の国、誰もが願いを叶えようと目指している場所なのだと。

 

 しばらく走っていたが、手を引いていたミッシェルが立ち止まったのに合わせて足が止まる。まだ辺りは暗く、ここがどこだが理解できていない。

 不意に柔らかな感触が離れていく。恐らく手を放して前に進んだのだと推測を立てて青年が一歩踏み出すと、突然強烈な光が彼を照らす。

 

 暗闇に慣れた双眸(そうぼう)は光の(まぶ)しさに細めるが、次第に順応していき目の前の光景を捉える。覿面(てきめん)に見えたのはライブステージ、舞台上には五人の奏者(そうしゃ)がそれぞれの楽器を構える。真っ先に自分を導いてくれたクマがDJセットをいじっている姿を認め、他のメンバーも先程のサーカスに出演していた少女たちだと気づいた。

 

 バンドのライブステージだと理解するのに難くはなかったが、どうしてここにあるのかは全く分からない。青年の疑問を置き去りにするかのように、ドラムを担当するふわりとした水色の髪が印象的な少女がカウントを取り、演奏が始まる。

 明るい曲調で童心(どうしん)に返ったかのように、ワクワクが止まらない。けれど歌詞の一つ一つを聞き取れば、自然と後押ししてくれる力強さと温かさを覚えた。言葉だけで足りないなら、音楽の力も借りて応援したい――自分を誘った人物の誠実さと優しさを感じて、青年は笑う。

 

 一度諦めた夢と再び向き合うのは怖い。過去の苦しみが(よみがえ)って、楽な方へ流れようと(ふた)をしたくなる。だが好きなことに正直でいなければ、本当に息詰まっていくばかり。

 もう臆病でいるのはやめよう、もう一回だけ描きたかった世界に手を伸ばしてみよう。彼女らが奏でる音楽で改めて勇気をもらった青年の目尻からは、ひとしずくの感情が(こぼ)れていく。彼の表情は清々しい笑顔で満たされていた。

 

 

 

 

 ライブが終わってから少しして、休憩を挟んだ美咲はやや疲れを見せた足取りである場所へと向かう。大分慣れてきたとはいえ、着ぐるみ――ミッシェルの状態ライブをするのは()し暑い環境面もあって辛い。ましてや今回は走ったものだから、余計に中が蒸れてよりサウナらしい仕上がりになってしまった。

 何度汗を拭ってもまだ流れ出る。本来なら花音と他愛ない話をしながら身体を冷やしているところだが、今日ばかりは待たせている人物がいるため、完全に汗を拭いきるのを諦めミッシェルから奥沢美咲に戻って(おもむ)く。

 

 黒服の女性らに案内されて通された場所は、先程サーカスの曲芸や演技が披露されたテントがある裏庭。テントは早急に片付けられたのか、いつの間にか影すらもなかった。だが美咲はさして気にすることなく、黒服の女性らが指し示す方に歩を進める。

 視線の先には洋風の東屋(あずまや)瀟洒(しょうしゃ)な造りに見劣りしないテーブルと椅子、意中の相手が座って庭を(なが)めていた。彼に歩み寄って、お待たせしましたと声をかける。首を横に振り、青年は柔らか笑みを(たた)えて大丈夫だと言う。

 

 彼の柔和な態度を見てようやく安堵(あんど)し、美咲も口元をほころばせた。張り詰めていた彼女の心が緩くなったのを見計らったように、青年はゆっくり立ち上がって(えり)を正すと穏やかな声で告げる。「ありがとう」(まぶた)を軽く持ち上げて固まる美咲を真っ直ぐ見つめながら言葉を()ぐ。「大好きな世界をもう一度描く勇気が出たよ」天真爛漫(てんしんらんまん)な笑顔を浮かべる彼の相好(そうごう)はいつになく子供っぽく見えた。

 

 惜しげもなく伝えられた感謝の言葉に美咲は照れくさそうにはにかみ、それは良かったですと遠慮がちに返す。本当は心の底から嬉しい、けれどやはり素直になるのは少しばかり恥ずかしい。だから言葉がどうしても(およ)び腰になってしまう。

 

 面映(おもはゆ)い彼女の心情を察したのか、青年は微笑ましそうに双眸(そうぼう)を細める。穏やかな眼差(まなざ)しで見つめられ、再び気恥ずかしさが込み上げてくるが、気持ちを落ち着けて美咲は話柄(わへい)を絞り出す。「またいつかライブ見に来てくれますか?」

 

「もちろん」彼は笑って頷く。「だってこんなに楽しい場所、また行きたいと思っちゃうよ」もの柔らかに()み渡る青空のように、美咲も嬉しそうに破顔(はがん)した。

 

 

 

 

 数週間後、弦巻家の豪邸(ごうてい)で美咲は次のライブに向けて作曲や作詞を取りまとめていたが、全く形になる気配がない。一緒に作業していた花音に休憩しようと言われ、一息入れることに。弦巻家に仕えるお手伝いさんから紅茶と焼菓子を差し入れられ、丁寧に礼を告げてからそれぞれを口に運ぶ。

 

 香ばしい風味を紅茶が程よく包み込んでいき、後味が丁度いい塩梅(あんばい)で残ってのどやかに風味(ふうみ)を楽しめる。こころ自身が優雅(ゆうが)堪能(たんのう)している様は想像できないが、改めてお金持ちの午後はこういうものだと味わいつつ花音と談笑を弾ませていく。話題は先日の青年に関することについて――ライブを見て笑顔になってもらえて良かった、彼が再び作った作品が楽しみなどの成功への安堵や未来への明るい期待で盛り上がっていたが、つと花音が何かに気づいて神妙(しんみょう)な顔つきになった。

 

 どうしたんですかと美咲が問いかけると、彼女は(おそ)(おそ)る正直な疑問を口にする。「あの人って、美咲ちゃんが幼い頃から絵本作っていたんだよね?」一瞬だけ思考が止まるが、遅れを取り戻して理解すると美咲は驚愕(きょうがく)するしかない。

 

 考えてみれば、幼い頃に彼の作品を読んだということは確実に年の差は一回りはあるということ。もしかしたら娘と父親ぐらいの年月かもしれない。今さら認識した現実に、美咲は乾いた笑いを立てるだけだった。




巻波彩灯様からの感想。
ノリと勢いだけで参加させていただきました、巻波彩灯と申します。

 正直、奥沢美咲という人物を主人公として描くのは難しかったです。その分、何を考えているのだろうかと手繰り寄せる時間が非常に楽しかったです。ただ規定字数の上限である1万5000字まで足が伸びそうになって、かなりヒヤヒヤしましたが。
 短編としてはボリュームがある本作品ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

 また美咲短編集の企画をしたrain/虹さんもありがとうございました。この企画に参加している方々の作品も素敵なものばかりなので、楽しんでいってください。


■代表作
『18番テーブルの相席者』
https://syosetu.org/novel/249314/
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