空を飛んだり、水の上を歩いたり、動物と言葉を交わしたりと人間単体では実現不可能なものを思い描くのが空想というものだろう。しかし財力や技術力があれば、簡単に実現できてしまうということも知っている。いや思い知らされたというべきか。
ここ最近起きた出来事を振り返りながら、黒髪とベビーブルーの瞳と特に目立った印象を覚えないどこにでもいそうな少女――
彼女は人を笑顔にするために、あれやこれやと手を尽くす。だから尋常では考えられない計画を立て実行することに対して、躊躇いがない。ただ結果は誰かを喜ばせて笑顔にしているのだから、協力するのもまんざらでもないと思っている。
とはいえ冒険続きの日常だけでは疲れてしまう。たまには息抜きしようと、羽沢珈琲店で休日をのんびり過ごしていた。店内には軽やかなジャズミュージックが流れ、コーヒーの香りが
本来なら自身が所属しているバンドで唯一常識的な先輩である
けれど落ち着かない、少し店内を見回す。休日だけあって混雑しているというわけではないものの、それなりに席は埋まっている状況。純粋に飲食を楽しむ家族、ノートパソコンと
いや気にしすぎだろう。むしろ
喧噪に慣れた身体というのは、何か行動を起こさなければいけないと衝動に突き動かされてしまいがちなのだと実感する。彼女たちと過ごした時間の密度が濃かった証明と呼べるだろう。またワクワクする出来事が起きないだろうかと思う自分が、心のどこかにいるのも事実だった。
だが休日を
距離は斜め二つ前、注視すれば表情の詳細は読み取れそうな気もしなくないところ。ふわりとしたくせっ毛を好き勝手させたショートヘア、黒ぶち
何と向き合っているのだろうかと興味本位で彼の視線を追いかけると、箱型のペンケースと紙が置かれている様子。画家でもやっているのだろうかと何気なく推測を立ててみるが、人の事情を
観察し続けること、ほんの少し。彼の手が動く気配はない。流石に
顔馴染みの女性店員がトレーにコーヒーカップを載せて横切る。向かう先は追いかけなかったが、会話した方向で判明した。先程、
驚いて顔を向くと彼は穏やかな声音で店員に礼を言い、彼女が
彼の行動は予想できていたうえに、理解もできる。だが投入する量だけは
何故、彼の一手一足気にしなければならないのだ。今さらの自問、自ずと浮かび上がった自答を認めたくなくて、コーヒーを口いっぱいに含む。好奇心があるのは良しとして、冒険心を刺激してくれるかもしれないという淡い期待を抱いているのがいささか信じられなかった。
彼が二杯目のコーヒーを注文して届いたあと、先程と同じように角砂糖を大量に放り込む。どう考えても甘くなった液体を軽く啜って、ソーサーの上に戻す。一連の動作に不思議なことはないが、置いた場所が悪かった。
ペンを持った手が不意にカップに当たる。まだ中身が残っている上に勢いも余ってしまい、位置は大きくズレてコーヒーが波立つ。縁を乗り越えた黒茶は机に降り注ぐ。
こぼして紙がダメになったのは、彼の
「あの、これ使ってください」ショートパンツのポケットから無地のハンカチを取り出し、差し出す。散々興味本位で見ていたのだから、流石に
「いやいや、大丈夫だよ」
しかし青年は受け取らず押し留め、苦笑いで遠慮した。「こんなの、これで済むから」指で示したのは、コーヒーの色に染まったカーディガンの袖。たまらず美咲は言い返す。
「いや、それこそダメだと思います」
染みになるのが目に見え、せめて酷くならない内に「とりあえずこれで軽く拭いてください」もう一度ハンカチを差し出した。「あたし、ふきん持ってきますから」宣言通りに取りに行こうと振り向く――顔を合わせたのは、先程彼にコーヒーを運んだ顔馴染みの店員。
彼女の手には既にふきんが握られており、あとは任せてと黒茶にまみれた
申し訳なそうに青年は店員に謝罪と礼を何度か述べ、彼女が再び去ったのを見送るとベビーブルーの瞳を映す。「君もありがとう」自身が好き放題させているくせ毛のようなふわりと柔らかな笑みを浮かべて
「いや別に大丈夫ですよ」逆に自分の方が申し訳なく感じ、美咲は首を横に振って断る。「どこでも買えるものですし」
「だからって、借りっぱなしは気が引けるからさ」
つと机の方へ
青年と出会って数日後、美咲は普段通りに学校に通っていた。彼との約束は鮮明に覚えていても、チラリと目に映した絵のことはさほど気に引っかからない。だが大した思い出ではないと割りきるには、いささか
幼き記憶の
礼儀正しく返し、美咲は絵本はあるのかと訊ねた。小説を好んで借りていただけに、他のジャンルに関しては記憶が薄い。
意外だったのか司書は大きく目を見開くが、やがて落ち着いた
美咲は素直にお礼を言い、教えられた通りに本棚へと向かう。微かに見覚えがある青年のイラストは、年少のときに読み聞かせてもらった絵本と似ていたような気がする。あまりにも
つと
もしかしたらと思い、本を開いて読み進めていく。最初こそはあまりピンと来なかったが、物語が
いつかはワクワクして何度も読み返していた作品。大人になろうとする過程でいつの間にか読まなくなっていた思い出。確かな記憶を手繰り寄せる縁だというのだろうか。
もし先日の出会いと手元の絵本が縁だとして、どうすればいい。互いの存在が人生に大きく影響していないどころか、何者かさえ明確に把握できてさえいないのに。
優しく淡い色が散りばめられた物語を追うごとに思う。ただ彼が思い描いた新しい物語が読みたい。アイディアに行き詰まっているらしい様子だが、手伝えることはなくとも応援し続けたいと温かさが
不確定な約束を結んでから一週間ぐらいの休日――今度は花音と共に、コーヒーや紅茶をのんびり楽しむ。こころの突拍子ない行動について、これからのライブについてなどバンド活動を中心にしつつ他愛ない会話を広げていく。だが先日交わした青年との約束が気がかりで、彼が店に来ていないかと何度も周囲を盗み見してまう。
まだ彼らしい男性は見当たらない。少しだけよそ見が多かったのか、花音にどうしたのと
どう説明したものかと頭を
見覚えのある姿を見て、美咲はホッと胸を
「美咲ちゃんの知り合い?」後ろから花音の問いかけが聞こえ、再び向き直って戸惑いがちに頷く。へーと
内心
どういたしましてと返しながら美咲は受け取る。やや間を置いて、「この前絵を描いていましたよね?」
触れてはならないと察して美咲は口をつぐんでしまい、二人の間に気まずい沈黙が流れる。「あの……お兄さんって、画家なんですか?」助け舟を出すかの如く、花音が質問を投げかけた。
首を大きく横に振り、「僕は絵本作家……だったんだ」彼は苦笑いで
用心深く言葉を選ぼうとすればするほど、何と声をかければいいのか分からなくなる。いや何も言わないことこそが正解なのかもしれない。けれど何も言わないのは不正解だと気づいていた。
逡巡する中、幼い頃の自分がぽんっと飛び出る。慌てて引き戻そうとしても、もう遅い。
「あ、あたしはあなたが作るお話が好きでした」勇気も自信もひと欠片のない胸の内を震える声で明かす。「だから、またあなたが作った絵本が読みたい……って思いまして」否定されることが怖くて、つい目をそらした。
困惑、
結局、その日は青年と距離を縮めることはできなかった。ただ自分がやりたいことは見えている。過去の自分が彼の作品で笑顔になったように、自分も何か一つ笑顔になれる恩返しをしたい。
かといって私情をこころらに明かしたくないのも悩み。伝えれば協力してくれるかもしれないが、確実に大事にしてお祭り騒ぎにするだろう。もうちょっと穏やかな解決法はないかと
顔を上げて見回すと、バンドメンバー全員の注目を集めていた。今後のバンド活動についての会議をするということで鶴巻家に集まったが、途中から話を聞いていない。大きな
普段とっ散らかりがちな彼女たちの考えをまとめ役を担っているのだが、今何も話を聞いていないという間の抜けたことをしてしまったことで、
反応は思い通りに納得してくれた、と思いきやこころだけが真っ直ぐと見つめたまま。「美咲、とっても素敵なことを隠してない?」ぎくりと心中を
助けを求めて、花音へ
幼少期にずっと読んでいた絵本がとても好きで、ワクワクしていたこと。しばらく忘れていた物語だが彼と出会い、再び手に取れて嬉しかったこと。今も昔も心が温かくなったから、今度は
言葉にしたい分を発した後、気恥ずかしくなり美咲は
よくよく考えてみれば、本当に接点はない。部外者にしかすぎない自分が果たして彼を元気づける資格なんてあるのだろうか。仮にあったとしても、自分如きで何とかできる思えない気がする。
後ろ向きな感情、思考が渦巻いて前へ進めない。「大丈夫よ」あっけらかんとした声が耳に届く。再度頭を擡げて燦然と輝くレモンイエローの瞳とぶつかる。「美咲が考えたことだもの、絶対に笑顔にできるわ!」
何の
理解しているからこそ言わないのか、それとも理解ができていないから言えないのかは不明だが、今の美咲にとって必要な言葉だということは確か。力を借りたいと思うなら、自分がやりたいことを正直に伝えるべきだと。
一つ呼吸を置いて、背筋を正す。一人ひとりを見回して最後に花音へ
美咲らの作戦会議から数日後、絵本の作者かつ今回のターゲットである青年は、穏やかな休日を普段通りに行きつけの喫茶店で過ごしていた。かつて青春を過ごした街並みもやはり多少は変化しており、少しだけあの頃の
どんな縁なのかは分からないが、自分が作った絵本を読んでいたらしい少女と出会った。彼女から好きだった、また続きが読みたいと言われたとき、重く沈んだ心が動き出したのを覚えている。まさか途中で折れた夢の続きを望む人が出てくるとは。
しかし返答は断り。嬉しかった、だがもう諦めた世界だから踏み込みたくはない。彼女が読んでくれた作品以外にも出したが、どれも鳴かず飛ばず。それどころか数々の才能ある人々に追い越され、差をつけられ現実を見続けるのが辛くなった。
だから絵本を作るのをやめて、ふらりふらりと職を定めないまま絵を描き続けている。趣味程度なら苦にならないとやんわり思っても、脳裏には仕事にしていた時代を思い出して
悩める彼への
何度首を横に振って否定し続けても、立ち消えてはくれない。むしろ声高くもう一回作ってみようと叫び続けている。けれどまた心苦しくなるのではと昔の思い出が甦り、見てみぬふりをして誤魔化す。
日差しが次第に雲に
悶々とした空模様、青年の口の端が下がるばかり。
「あの……」頭上から声が降ってきた。見上げるとつい先日出会ったばかりの少女が緊張した
「突然のことで悪いんですけど……」
喫茶店から出て、彼女に連れられるまましばらくして。二人が足を止めた先、目の前には大きいと表現するにはまだ足りないような敷地と
隣に立っていた少女も苦笑いを
けれど何も問いかけることなく、青年は彼女の後を追う。まるでウサギに導かれる童話の主人公みたいだと何気なく思えば、胸中はワクワクでいっぱいになる。
予感が的中したかのように、裏庭にはサーカステントらしきものが見えてきた。
適当な席に彼彼女らは腰かけ、ステージへ目を向けた。これから何が起こるのだろうか、青年は楽しみで仕方ない。一方少女はどこか緊張した
開演ブザーが鳴り響くと同時に、舞台の中央にシルクハットと長身が目を引く女性が
スモークが目の前に広がり、流石の大らかな青年もやや心配になる。だが
「楽しくないのかい?」
つと視線を隣に向けると、
具合が悪いのではないと分かっているが、いささか心配してしまう。誘ってくれた少女が思い詰めた顔をしていると余計に。
寸劇を
あまりにも突然のことで
数々の演目に登場する少女、女性らもみなどこか見覚えのある色や柄の衣装を身にまとっている。台詞を一つ一つ丁寧に聞き取ると、昔書いた物語に登場していたキャラクターが言ったものばかり。一度認識すれば、ありとあらゆるものがサーカスという表現の中で映し出された自分の作品だと思い知らされた。
今まで何故気づかなかったのだろうかと首を
驚くものの青年はすぐに冷静さを取り戻し、今眼前に見えるものが着ぐるみだと認める。しかしどうして着ぐるみのクマがここにいるのかが理解できない。
裏庭から屋敷内に入るのだが、どこに
しばらく走っていたが、手を引いていたミッシェルが立ち止まったのに合わせて足が止まる。まだ辺りは暗く、ここがどこだが理解できていない。
不意に柔らかな感触が離れていく。恐らく手を放して前に進んだのだと推測を立てて青年が一歩踏み出すと、突然強烈な光が彼を照らす。
暗闇に慣れた
バンドのライブステージだと理解するのに難くはなかったが、どうしてここにあるのかは全く分からない。青年の疑問を置き去りにするかのように、ドラムを担当するふわりとした水色の髪が印象的な少女がカウントを取り、演奏が始まる。
明るい曲調で
一度諦めた夢と再び向き合うのは怖い。過去の苦しみが
もう臆病でいるのはやめよう、もう一回だけ描きたかった世界に手を伸ばしてみよう。彼女らが奏でる音楽で改めて勇気をもらった青年の目尻からは、ひとしずくの感情が
ライブが終わってから少しして、休憩を挟んだ美咲はやや疲れを見せた足取りである場所へと向かう。大分慣れてきたとはいえ、着ぐるみ――ミッシェルの状態ライブをするのは
何度汗を拭ってもまだ流れ出る。本来なら花音と他愛ない話をしながら身体を冷やしているところだが、今日ばかりは待たせている人物がいるため、完全に汗を拭いきるのを諦めミッシェルから奥沢美咲に戻って
黒服の女性らに案内されて通された場所は、先程サーカスの曲芸や演技が披露されたテントがある裏庭。テントは早急に片付けられたのか、いつの間にか影すらもなかった。だが美咲はさして気にすることなく、黒服の女性らが指し示す方に歩を進める。
視線の先には洋風の
彼の柔和な態度を見てようやく
惜しげもなく伝えられた感謝の言葉に美咲は照れくさそうにはにかみ、それは良かったですと遠慮がちに返す。本当は心の底から嬉しい、けれどやはり素直になるのは少しばかり恥ずかしい。だから言葉がどうしても
「もちろん」彼は笑って頷く。「だってこんなに楽しい場所、また行きたいと思っちゃうよ」もの柔らかに
数週間後、弦巻家の
香ばしい風味を紅茶が程よく包み込んでいき、後味が丁度いい
どうしたんですかと美咲が問いかけると、彼女は
考えてみれば、幼い頃に彼の作品を読んだということは確実に年の差は一回りはあるということ。もしかしたら娘と父親ぐらいの年月かもしれない。今さら認識した現実に、美咲は乾いた笑いを立てるだけだった。
巻波彩灯様からの感想。
ノリと勢いだけで参加させていただきました、巻波彩灯と申します。
正直、奥沢美咲という人物を主人公として描くのは難しかったです。その分、何を考えているのだろうかと手繰り寄せる時間が非常に楽しかったです。ただ規定字数の上限である1万5000字まで足が伸びそうになって、かなりヒヤヒヤしましたが。
短編としてはボリュームがある本作品ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
また美咲短編集の企画をしたrain/虹さんもありがとうございました。この企画に参加している方々の作品も素敵なものばかりなので、楽しんでいってください。
■代表作
『18番テーブルの相席者』
https://syosetu.org/novel/249314/