『
機械音声が
烏丸の黒く染まった脚部が地を蹴ると同時、グラスホッパーを上回る加速を得た彼の身体がヴィザに向かって疾駆する。
特殊トリガー、ガイスト。
これは玉狛支部によって作成された、真実彼の為だけのトリガーである。
レイジの
その効果は、トリオン体の安定性を敢えて崩し、特定の個所にトリオンを流し込む事で爆発的な
たった今烏丸が使用した
その推進力は通常のトリガーのそれとは文字通り規格が異なり、疑似的な神速の世界へと烏丸を突入させる。
「…………!」
烏丸の動きを見て、ヴィザは眼を見開く。
バイパーを躱したばかりの彼は、たった今地に足が付いたばかり。
その隙を狙った烏丸の突撃は、真実ヴィザの虚を突いていた。
「速い────────────────ですが、無駄ですよ」
されど。
その程度で攻略出来る程、ヴィザという剣鬼は甘くはない。
ヴィザは即座にサークルブレードを旋回させ、無数の円環状の刃が突撃する烏丸に襲い掛かる。
重石によって速度が減衰したとはいえ、その剣速はボーダーでも随一の速度を以て振るわれる生駒旋空を軽く上回る。
先程までと違って辛うじて眼に映ってはいるが、通常まともに対応出来るような剣速ではない。
「────────!」
だが。
今の烏丸は、決して普通とは言えない状態にあった。
迫り来るサークルブレードを、黒く発光した弧月で迎撃。
致死の刃を刀身で受け流し、その勢いのまま更に加速して流れるような動きでヴィザとの距離を詰める。
まさかこのようなスピードに全てを懸けたような突進の最中、あそこまで的確に防御をされるとは思っていなかったヴィザの眼が驚愕に見開かれる。
ガイストはトリオン体の安定を崩す程のトリオンを特定個所に流し込み、爆発的な強化を得るトリガーだ。
そして、それによって向上するのはあくまでも身体的・武器能力的な
つまり、急激に上昇した身体能力を制御するのは自力でやらなければならない、という事だ。
仮に第三者にこのガイストを渡したところで、一気に上昇した能力に振り回されて自滅するのがオチだろう。
しかし、玉狛支部よりこのピーキーに過ぎるトリガーを預けられている烏丸はその点も問題は無い。
常日頃よりガイストを用いた状態での戦闘訓練は飽きる程行っており、その相手は専らレイジや小南である。
最初は避け切れずに被弾する事も多かったが、今ではガイストのブーストがあれば何とか食い下がる事が出来る程度には成長している。
そして、接近戦のエキスパートにしてボーダー最強の格闘戦能力者である小南とも、烏丸は定期的にやり合っている。
こちらはレイジのような分かり易い火力はないが、とにかく戦い方が
烏丸のガイストによって超強化された脚力を以て接近しても、小南は確実に反応して反撃を叩き込んで来る。
それはかつて旧ボーダーとして本物の戦場を渡り歩いたが故に蓄積された小南の戦闘経験の賜物であり、血と喪失を代価に積み重ねられた彼女の生存本能の発露である。
小南はただ
どんな攻撃であろうと彼女の生存本能は
トリガーによるブーストも、サイドエフェクトによる補助もなくそれを実現させる小南を初めて見た時は烏丸も瞠目したものだ。
「
文字通り、彼女は生きて来た世界が違うのだと、烏丸は改めて実感した。
日常生活に於ける可愛らしい女子高生そのものである小南は、あくまでも彼女の一面に過ぎない。
その本質は数々の死線を潜り抜け、強くならざるを得なかった戦士であるのだと。
烏丸は、その時初めて認識したのだ。
稀に、小南は迅と二人で何処か遠くを見ている時がある。
あれは恐らく、迅と共に駆け抜けた近界の旅やかつての仲間の事を想起していたのだろう。
自分には立ち入れない二人だけの世界が、そこにはあったのだ。
バイトの時間を作る為、という理由でこの玉狛支部に転属した自分には、
伝え聞く情報だけでも過酷な記憶だったそれに、踏み込む勇気も蛮勇もない。
けれど、その時思ったのだ。
自分には自分の出来る最大限で、彼等に報いようと。
ボーダー最強の名を背負う部隊の一員として恥ずかしくない結果を出す為に、己が力を尽くさんと。
彼は、誓ったのだ。
そんな二人との訓練を経て、烏丸はガイストの強化状態に応じた反応速度を手に入れている。
それが今、ヴィザの攻撃を掻い潜るという大戦果を成し得ているのだ。
一人の少年の、覚悟の証。
今烏丸の身体を動かしているのは、彼の想いそのものだ。
断頭台の刃の如く迫るブレードを弾き、或いは紙一重で躱す。
巨大な多重隔壁の如く展開された円環の刃を、烏丸が潜り抜けていく。
その前進はまるで物語に出て来る勇者の如しであり、その刹那の攻防はヴィザを瞠目させるに足るものであった。
(驚きましたな。まさか、此処までの動きが出来るとは)
ヴィザも同じ動きであればトリガーの補助なしで行えるが、彼は烏丸が小南とは異なり本物の戦場を経験していない事を見抜いている。
本物の戦場を経験したか否かは、その動きと眼を見れば分かる。
死線を潜り抜けた経験から来る第六感的な超反応、そして過酷な
烏丸には、小南に見られたそれらがなかった。
だからこそヴィザは小南程の脅威を彼に感じなかったし、射撃支援に徹していた彼にそこまで興味を持ってもいなかった。
だが、今この瞬間その評価は覆される。
ガイストという特殊なトリガーによって急激にブーストされた身体能力を、己の手足として過不足なく扱うその姿は真実敵として認識するに足るものであった。
認めよう。
彼は、烏丸京介は。
忍田や太刀川と同じく、自分の敵として相応しい資格を持っているという事を。
「
故に、容赦はしない。
ヴィザは一時的に剣速を上げ、無数のサークルブレードを檻の如く烏丸の軌道上に配置した。
これまで見せた彼の加速力であっても、この剣の檻を抜ける事は出来ない。
素で今の彼と同じ芸当が出来るヴィザにとって、その動きを掴む事はそう難しい事ではない。
彼の奮闘には驚嘆したし、しばし昂揚もした。
だが、それも此処まで。
戦場の無情さを知らない彼は、これにて退場するだろう。
正直惜しいとも思うが、此処は戦場。
想いや覚悟だけで実力差が覆るような、物語のような展開は存在しない。
「ガイスト────────
故に。
烏丸は想いや覚悟とは別の、確たる
これまで弧月と脚部の両方に注ぎ込まれていたトリオンを、脚部一点に集約。
それによって先程に倍する加速力を得て、烏丸は神速と言える速さを以て剣の檻を突破する。
「…………!」
その動きは、ヴィザをして反応が一瞬遅れる程。
敵の最大速度を看破していたと考えていたが故の、一瞬の虚。
「
目の鼻の先まで肉薄した以上、最早脚力は必要ない。
そう判断した烏丸は、瞬時に弧月にトリオンを集中させる形態へと換装。
決死の刃を、ヴィザへと叩き込む。
烏丸の決意と意地、覚悟。
それらを乗せた一撃が、剣鬼へと迫る。
届け。
相打ちでも良い。
ただ、この一撃を届かせろと。
その一念を以て、烏丸は刃を振り下ろした。
「残念。あと、一歩でしたな」
「な…………っ!?」
されど。
決死の一撃は、ヴィザには届かなかった。
気が付けば、烏丸の身体は両断されていた。
ヴィザがその手に持つ、仕込み刀によって。
星の杖の本体に仕込まれた、一振りのブレード。
その一閃によって、烏丸の腕と胴は断ち切られていた。
神速の居合いを以て彼の身体を斬り捨てたヴィザは、満面の笑みを浮かべている。
それは、彼なりの烏丸への敬意と健闘した彼への称賛だった。
確かに烏丸は驚くべき動きでヴィザに肉薄し、あと一歩まで追い込んでみせた。
しかしそれは、あくまでもヴィザの超反応で凌げる範囲でしかなかったのだ。
ヴィザは此処にいる誰よりも、近界の戦場を経験しそれらを等しく踏破している。
故に経験値という意味で彼に勝てる者は存在せず、死線を潜り抜けた数は文字通り桁が違う。
戦争経験を持つ者とのたゆまぬ鍛錬を経た烏丸であっても、彼等のような本能に由来した生存能力までは獲得していなかった。
膨大な、戦争経験の有無。
それが、彼の命運を分けた壁と言える。
少年の想いと決意は、此処で無為に散る。
致死の刃を受けた烏丸の身体は罅割れ、崩壊していく。
『戦闘体活動限界。
機械音声が鳴り、烏丸はガイストによる自滅を前に光の柱となって消え失せる。
だが、その刹那。
ヴィザは、確かに彼の口元が笑うのを見た。
「…………!」
そして、その意味をすぐに知る事になる。
降り注ぐは、無数の光弾。
それが、ヴィザの頭上へと迫っていた。
太陽を背にしたその光の雨は、誰あろう樹里が空高く飛ばしていた代物である。
出水と二宮が行った、
あれは那須の
ただ一点。
樹里がその高トリオンを用いて射程を限界まで拡張し、可視領域を超えた遥か上空にまで弾を撃ち上げていた事だけはヴィザの想定外であった。
今回の作戦を立てたのは、東である。
如何に烏丸に想いと覚悟、そしてそれを成し得る能力があろうとも。
これまで規格外の化け物ぶりを見せて来たヴィザ相手に、彼一人の奮闘だけで刃が喉元に届く保証など何処にもない。
故に、合理の視点からすれば二の矢を装填する事は当然なのだ。
無論、烏丸が成し遂げればそれに越した事はない。
だが、彼の力だけを頼みに二の矢を用意しない愚策を東は行わない。
信頼して任せるのと、思考放棄して仕事を投げっぱなしにするのは、全く違う事だからだ。
だからこそ、東は烏丸が敵を倒せなくともその奮闘を活かせる形で作戦を組んでいた。
彼が戦った成果を、無駄にしない為に。
それを理解していたからこそ、烏丸は躊躇なくガイストという片道切符を切ったのだ。
自分が失敗したとしても、それは必ず次に繋がる。
そう信じて、彼は己の全てを懸けたのだから。
「成る程。では、見せて貰いましょうか────────────────次の、一手を」
ヴィザはその流れを組んだ敵指揮官を称賛しつつ、サークルブレードを旋回させて迫り来る弾幕を両断。
空より飛来した
爆煙のカーテンが周囲を覆い尽くし、ヴィザの視界を黒に染める。
「「旋空弧月」」
同時、忍田と太刀川による旋空がヴィザへと襲い掛かる。
その数、
太刀川の二刀旋空と、忍田による三連旋空。
片腕を失った事でまともな連撃は二連が限界であった忍田であるが、烏丸がヴィザの注意を惹き付けた事で奥の手である三連撃を成す為の隙を見出したのだ。
無論、片腕での強引な三連撃は直後に無視出来ない隙を生む。
だが、今この瞬間を以てでしかヴィザに刃を届かせる余地はない。
烏丸の迎撃に全力を尽くし、僅かなりとも処理能力を圧迫した今だからこそ。
この決死の攻撃は、有効となるのだ。
「まだ、届きませんな」
されど。
剣鬼は、それさえも凌ぎ切る。
ヴィザは直近に展開したサークルブレードを用いて、その連撃を弾いた。
如何に五連撃に見えようとも、実際に用いられた刀身は
忍田の連撃はあくまでも超高速で刃を振るい引き戻す事を繰り返した上での疑似的なものに過ぎず、途中でその刃を止める事が出来さえすればその時点で攻撃は止まる。
ヴィザはそのブレードの一撃目を受け流し、それが忍田の手元に戻る前にその刀身に攻撃を叩き込んで連撃を中断させたのだ。
神速の領域の中で行われた、凄絶なる絶技。
それを以て、剣士達の奮闘の成果は粉砕される。
烏丸の作った千載一遇の機会すら、こうして失われた。
少年の奮闘は、今度こそ無為に帰する。
「「────────!」」
否。
これで、終わりではない。
そも、太刀川と忍田に依る旋空はヴィザにとって既知の攻撃。
如何に虚を突いたとはいえ、それが通用するとは初めから思ってはいなかった。
だからこそ、彼にとっての
爆煙を隠れ蓑にして彼の元に降り立ったのは、二人の少女。
双月を携えた小南と、スコーピオンを構えた香取である。
爆煙の役割は、あくまでもこの二人の姿を隠す為。
旋空による連撃こそが、陽動であった。
チームメイトの犠牲に報いるべく、二人の少女は手に持つ刃を煌めかせた。