「…………樹里ちゃん…………」
佐鳥はベッドで眠る樹里を見下ろしながら、大きく溜め息を吐いた。
此処はボーダー内にある医務室。
それも、本来であれば感染症患者などに使われる隔離病室だ。
ボーダー本部自体かなり丈夫に出来てはいるが、その中でもこの部屋は特に頑丈に作られている。
外壁と同等の強度、と言えばその硬さが分かるだろう。
地震などの災害時に於いても、そう易々とは壊れないようになっている。
正しくは、その強度は
それはそうだろう。
この部屋は建前としては感染症患者等に使われる隔離病室、という事になっている。
しかし実際は、
彼女が何らかの理由で危険な状態になった場合、万が一に備えて隔離される為に構築されたのがこの部屋だ。
そもそも、通常の感染症患者であれば普通の病院に入院させれば良い話である。
ボーダーは医療施設などではなく、基本的には通常の病院の方が手厚い看護を受けられるに決まっている。
感染症患者という色々とデリケートな対象を扱うに当たっての対処能力がどちらが上か、と問われればそれは明らかなのだ。
向こうは全スタッフが診療と看護に専念出来るが、ボーダーの職員でそれが出来る者は限られている。
故に、感染症患者用というのは対外的な建前に過ぎない。
この部屋は、樹里のように
とある事情により、樹里は普通の病院にかからせるワケにはいかない。
故に健康診断を始めとした医療に関係する行為は全てボーダー内の施設で済ませるように厳命されており、その為に必要なスタッフも用意してある。
樹里本人には「日頃から検査等を行ってデータが揃っているから全部此処で診た方が良い」と説明し、佐鳥もまた彼女が外の病院に行く事がないよう監視しボーダーの施設を使うよう促している。
ちなみに、樹里を外の病院に行かせてはならない、というのは件の入隊の時に鬼怒田から香取達には説明されている。
当然ながら理由について突っ込まれたが、「今は話す事は出来ない」と告げられた事で、後から話を聞いて激昂しかけた香取を華が宥めるという一幕もあった。
普通の病院にかかる事が出来ない、というのは尋常な事ではない。
それも理由を説明出来ないとあっては、不信感を持つのは当然の事だろう。
しかし上層部の一人である鬼怒田に食って掛かる事は得策ではないと判断し、華は香取を止めたワケだ。
無論その後佐鳥に対してもこの事に対する追及が行われたが、彼もまた口を閉ざす他ない立場であった為に、同様の事を話すしかなかった。
流石に二度も同じ事をされて香取が激さない筈もなく胸倉を掴みかかられた佐鳥であったが、凄まじい剣幕の少女相手でも頑なに口を割らない様子に華が事情を察して介入した、という顛末もあった。
勿論華からも厳しい視線を向けられたが、真実を口にする権限のない佐鳥は黙するしかない。
彼の事情を朧気ながらも察している華もそれ以上の追及は出来ず、己の察しの良さを少し後悔していた様子であった。
華は真面目で頭の回転が速い為、少しの情報からでも真実に辿り着いてしまう。
そして相手の立場に立って物事を考える能力も高い為、佐鳥の立場を薄々察して色々と配慮してくれているのだ。
しかし理性ではそれが最適解であると判断していても、感情の上では不義理としか言えない態度を取り続ける佐鳥に対して思う所はたくさんある。
されど理性が感情任せに追及する愚を犯させてくれない為、悶々とする状態を強いられているワケだ。
日頃から華の佐鳥に対する当たりが強いのは、このあたりにも理由がある。
最終的にフォローをしてくれるのも華なのだが、同時に最も佐鳥に負の感情を向けているのもまた彼女なのだ。
(また、無理をさせちゃったね。本当、ままならないなぁ)
今回も再び同様の一幕があった事を思い出し、佐鳥はため息を吐く。
対外的には現在の樹里は原因不明の昏睡状態、となっている。
理由が不明である為各種設備が整ったボーダー内で様子を見ている、という事にしてあるが、それが彼女を一般の病院にかからせない為の方便である事は言うまでもない。
しかも今の彼女は面会謝絶の状態に近く、
一応香取達も面会の権利はあるのだが、その際には忍田や風間といった「事情を知り、尚且つ高い自衛能力のある者」の同行が必須となっていた。
無論彼等の都合がつかない時は面会自体許可されず、香取達は悶々とした日々を過ごしている。
そんな中で佐鳥は同行者なしでも面会に来られる事が知られてしまい、再び華に追及される事になったのは言うまでもない。
「…………あれから、三日か…………」
今日は、1月23日。
大規模侵攻から、既に三日が経過していた。
第一次大規模侵攻に匹敵、否。
四年前のそれとは規模自体では比較にならない未曾有のものとなった近界民の大侵攻が三門市に与えた影響は、大きかった。
通常は警戒区域内で処理を完了するトリオン兵が市街地にまで到達した結果、多くの建物が倒壊。
幸い避難誘導が迅速であった為人的被害は皆無であったが、その爪痕は大きい。
人命と違って替えは利くものの、何の代償もなしに即座に復元出来る、というワケでもない。
被害を受けた建物の持ち主は当然ながら
こういった反ボーダーに類する市民感情の
少々デリカシーに欠ける面がある彼ではあるが、ボーダーアンチを増やさないという重要な役目を担っている為組織にとって必要不可欠な人材である。
そして、その手腕はC級四名が連れ去られた件に関しても如何なく発揮された。
当然ながら、C級から四名の行方不明者を出した事はすぐに知られる事となった。
いなくなった隊員の所属する学校やその家族への説明はしなければならなかったし、同校の生徒は彼等が大規模侵攻の日を境に学校に来なくなった事も、ボーダーに所属していた事も認識している。
人の口に戸は立てられない以上、それが公になるのは時間の問題だった。
組織に預けていた自分の子供がいなくなったのだから、その家族は当然ボーダーへの追及を行ったのだが、そこで何故彼等が攫われる事になったのかを知る事になったのである。
非は明らかに自分の子供の方にあり、ボーダー側にも責任が無いワケではないが、そこで気付いたのだ。
真実が明らかになれば、責めを負うのは自分達の方である事を。
いなくなったC級四名は、身勝手な理由により招集を無視した挙句、軽挙な行動に出た為に仲間を道連れにして連れ去られてしまった。
そうなると、その家族が責任の所在を追及されるのは眼に見えている。
そのC級の面々が普段から品行方正であればそういう事もなかったのだろうが、彼等はボーダーでも学校でも素行が良いとは言い難かった。
ボーダーではある程度猫を被っていたようであるが、学校では時折ボーダーでの仕事を言い訳にして早退し、そのまま本部に向かわずにサボる、といった事も何度かあったようだ。
通常、ボーダーでは防衛任務のシフトが存在しないC級隊員を授業時間中に召集する事は殆どない。
しかし今回の大規模侵攻のような緊急事態に於いては学校に通っている時であろうとも招集する可能性がある為、「場合によっては招集により公休を取って貰う場合がある」と学校側には説明している。
その為学校側も「そういうものか」と判断して、いちいちボーダー側に確認を取ったりはしていなかった。
彼等は成績もそう悪くはなく、教師に対しては良い顔をしていた為に学校もそこまで細かく調べようとしなかったのである。
故に彼等の問題行動が明らかになったのは、侵攻後に根付が独自に調査した結果である。
但し、同じC級の者達にとっては彼等の素行はある程度周知の事実だったらしい。
彼等は件の四名がボーダーでの仕事を言い訳にして早退した時に自分達に召集がかかっていない事を知っていたし、その後彼等が街で遊び歩く光景を目撃した者もいる。
それでも告げ口をする者がいなかったのは彼等が学内カーストにおける上位に位置する者達であり、下手に干渉して眼を付けられる事を厭っていたからだ。
しかしその彼等がいなくなってしまった為、そういった者達も最早遠慮をする理由はなく、憚る事なく周囲に彼等の悪行を暴露してしまった、というワケである。
当然それは学校も知る所となり、大規模侵攻当日に於ける彼等の行動も学内の監視カメラに記録されていた。
そうなると非が誰にあるのかは明らかであり、学校側としても大々的にボーダーを責めるワケにはいかなくなった。
というよりも、その四名の保護者からそれをしないよう言い含められた、と言っても良い。
彼等の親からしてみれば自分の子供が原因で他の子供が連れ去られた、という外聞が悪過ぎる情報を広めたくないという感情がある。
そうなった時、メディアの悪意に晒されるのが誰になるかは眼に見えているからだ。
三門市のメディアはボーダーという格好の
そういった者達はプライバシーなど知った事かという悪質な取材を断行して来る為、何らかの誹謗中傷を負った者の傷を抉って塩を塗りたくるような行動も彼等は平気でやる。
三門市に住まう者達はその事を良く知っている為、下手に攻撃対象にされかねない理由を明かす事を恐れたのだ。
自分の子供の安否よりも自分達の平穏を取ったとも取れる行為だが、それだけ
人がこれ以上なく残酷になれるのは、自分が正義の側に立ったと思い込んだ時なのだから。
根付は、そんな彼等の心理を利用した。
ボーダーとしての正式な記者会見を、彼は侵攻から二日後という最短スピードで行った。
本来であれば一週間後を想定していたのだが、攫われたC級の家族や学校の現状を知り得た事でその日程を早める事を決めたのである。
家族や学校側のスタンスが変わらない内に、面倒な処理を済ませてしまおうという魂胆であった。
そして根付は、C級の家族にこれ以上ボーダーを追及しない事と引き換えに、彼等のいなくなった原因や行方不明になった者の個人名等の秘匿を約束した。
これにより最も加熱する筈だった行方不明者の家族からの追及はなくなり、残るはそれに食いついた報道陣という厄介者達への対処だけになった。
当初、根付は近界民側にC級が緊急脱出を持たない事を知らせる原因になった修にヘイトを向ける形で事態を収束させる予定だった。
だが、大規模侵攻当日の修の行動によってそれが不可能になってしまったのだ。
彼は根付が肝入りでB級に昇格させた茶野隊の失態を拭う形でC級隊員を保護し、尚且つ彼等を率いて主戦場に赴き、そこで敵の首魁の撃破に大きく貢献するという偉業を成し遂げた。
狙われているC級を連れて主戦場に向かった事については理屈が通っていたとはいえ頭を痛めた根付であったが、それ以上に彼を悩ませたのはその光景を目撃していたC級から修が英雄視された事である。
C級の面々からしてみれば、修は危機に陥った者達の下に遊真という頼もしい援軍を連れて現れ、主戦場に赴くと言う危険を躊躇なく冒し、更にその場で華々しい武勲を立てた英雄に見えたのだ。
そして、ミーハーな感性の者達が多いC級の面々はこぞって彼の活躍を喧伝した。
結果として修の名は内外に知れ渡る事になり、実際にその蛮勇を見ていた正隊員の面々もその活躍を肯定した為、彼の勇名は一気に膨れ上がる事になったのだ。
当然ながら、こんな状態で修を悪者にすれば彼に守られたC級隊員を始めとした多くの者が反発するのが眼に見えている。
そんなこんなで頭を抱えていた根付の下に、とうの修本人がやって来たのだ。
最初は何故彼が自分からやって来たのか訝しんだ根付であったが、そこで修は記者会見での
その内容とは、当初の予定通り根付の手回しで修への追及を行うよう誘導し、その上で現場に控えていた修が出て来て演説をする、というものだ。
メディア露出も碌に経験していない子供が何を、と最初は思った根付であったが、修の計画は予想以上に良く出来ていた。
彼の目論見では、最終的に遠征の事を仄めかす事でそちらに報道陣の興味を誘導する事が終着点となっていた。
しかも、既に城戸からはその許可は貰って来ているのだという。
ならば最初から遠征の事を公開すれば良いのではないか、とも思われたが、一度修の件に言及した上で報道陣に自らその話題を投げ捨てさせれば、後々同じ内容を追及し難くなるという目論見もあった。
理屈も通っており、最悪でも修が自分から参加した記者会見によって悪印象を得るだけの結果で済む事もあって、根付は最終的に修の提案を了承した。
そして記者会見では概ね計画通りに事が進み、報道陣は明かされた公開遠征の計画に沸き立ち、修の事についてはすっかり忘れ去る有り様となった。
隊員一人の不祥事と、近界への遠征というビッグニュースではどちらがよりインパクトがあるかは言うまでもない。
かくして王子による英才教育を受けた修による記者会見の茶番は滞りなく完了し、世論を軟着陸させる事に成功したのである。
そんな修の姿に根付は密かに彼の資質を見出す事になるが、それは今口にするべき事ではないと表面的な態度は変えなかった。
隊務規定違反をしていながら一切の反省の色が見られないという問題児である修の事を正面からは認め難かったという理由もあるが、それ以上に敢えて厳しく接する事で修の成長を促す事を望んだのである。
根付は嫌みな性格に思われがちだが、利に聡く尚且つ大人としての責任感もしっかりとある。
言動にデリカシーに欠ける面があるのは事実だが、それでも子供の成長を願う大人としての自負はあるのだ。
嵐山がそうであったように、修もまたとある方面では多大な成長が見込めるからこそ、敢えて突き放す態度を取ったのである。
修のような人間は褒め称えるよりも厳しく接した方が成長を促し易い為、彼の観察眼は間違ってはいない。
そこを指して唐沢には密かに「ツンデレ」と言われている事を、彼が知る事はなかったのだが。
ともあれ、大規模侵攻の事後処理はこうして終結したワケである。
一人の少女の、目覚めを待つ形で。
「ん…………」
「…………っ! 樹里ちゃん…………っ!?」
そして、その時が訪れる。
鼻につくような可愛らしくもか細い声が少女の喉から漏れた事に気付き、佐鳥は慌てた様子で彼女に呼びかけた。
「…………賢…………?」
ぱちり、と樹里の瞼が開く。
彼女が眠り始めてから、三日後。
眠り姫は、ようやくその眼を覚ましたのだった。