『樹里、若村くんに敵を誘導させるから、狙えると思ったら撃って頂戴。焦らず、タイミングを計るのよ』
「了解」
摩天楼の一角、ビルの屋上。
そこでは、ビルの間にあるクレーンを伝って跳び移って来たばかりの樹里が華からの指示を受けていた。
若村が樫尾と遭遇し、逃走が不可能になった時点で樹里はこの場へ移動していた。
先程までいた場所からでは、若村のいる路地を狙撃するには高度が足りなかったからだ。
だから樹里は工事用のクレーンがビルの中間にあった事に目を付け、それを足場として用いて大ジャンプを決行したのだ。
グラスホッパーもなしで跳べるかどうかはギリギリの距離ではあったが、失敗したところでトリオン体に落下によるダメージは無い。
トリオン体は生身の身体よりも高い膂力を持つだけではなく、トリオンを用いない
新陳代謝等はほぼ完璧に再現されているので水中に落ちれば苦しいし、精神的な面からも考えてもこんな高高度からの落下など体験したくはない。
しかし、落ちてもダメージが無いという保証があるのなら、ショートカットを実行しない理由は無い。
この試合では樹里以外に狙撃手がいないのだから、視認される心配もそこまでしなくて良いだろうという考えもあった。
(それに、若村先輩がそこまで耐えきれるとも思えないし。多分、そんなに保たないよね)
また、樹里は犬飼と樫尾相手に若村が耐えられるのはごく僅かな間だけだろうという目算もあった。
若村は、弱い。
それは純粋な実力だけではなく、精神面もであると樹里は見ていた。
以前の経緯から若干の色眼鏡をかけているとはいえ、若村の実力が大した事が無いのは理解している。
前回の試合では役には立ってくれたが、結局のところ隊の中で唯一落とされているし、樹里の眼から見ても彼は優秀な駒には見えない。
更に自分より先に香取とチームを組んでいた事に依る嫉妬心も加味され、樹里による若村の評価は「多少は見直したけどまだまだ弱い先輩」というものに留まっていた。
だからこそ、樹里は若村があの状態で長く保つとは思えなかった。
華からも許可は貰っているし、若村がやられそうになったらさっさと撃って終わりにしよう。
そう考えて、樹里はイーグレットを構えた。
(どうせ碌な抵抗は出来ないだろうし、やられるタイミングで狙うのがベストかな。華も撃つタイミングは任せるって言ってたし、それで良いよね)
「犬飼隊員から逃げる若村隊員でしたが、ここで樫尾隊員とエンカウント…………っ! 三つ巴の乱戦が開始されました…………っ!」
「此処で来たか。王子も用意周到だな」
風間はそう告げ、目を細める。
此処に来ての王子隊の動きに、思うところがあるのだろう。
常の仏頂面は崩れていないが、何処かしら感心するような雰囲気が見て取れた。
それだけ、王子隊の行動は予想外だったのかもしれない。
「ここで動いて来た王子隊ですが、狙いはなんでしょう?」
「単純に点が欲しいのもあるだろうが、盤面のコントロールを行う為というのが大きいだろうな。この試合で戦力上不利な王子隊なら、このチャンスは逃せないだろう」
「戦力上不利、ですか」
ああ、と風間は続ける。
「二宮という絶対的なエースがいる二宮隊、香取と木岐坂の二枚看板のある香取隊と異なり、王子隊には
「だから、王子隊が勝つには戦術で勝るしかないのよね。この試合では今の局面が重要なターニングポイントだから、こうして出て来たんでしょうし。少しでもイニシアチブを取らないと、後で取り返すのは難しいでしょうから」
絶対的なエースがいない。
それが、王子隊の抱える弱点と言える。
二人の言うように、王子隊には樹里や二宮といった投入するだけで盤面を一変させるエースが存在しない。
隊長の王子は優秀な隊員ではあるがエースと呼べる程ではないし、他二人も同様だ。
故に、王子隊は戦力的な
だからこそ、王子隊が勝ちを狙うには純粋に戦術で優位を取るしか方法が無いのだ。
香取隊や二宮隊のようにエースを中心とした戦術を組み上げる事が出来ない以上、彼等の取れる戦術は堅実な方法に限定される。
一発で戦況を変貌させるような手段を持ち得ない以上、機を逃がせば主導権を取り戻す事が非常に難しいのだ。
だからこそ怖いチーム、とも言える。
B級上位のチームにはその殆どに一発で戦況を一変させ得るエースが存在している中、王子隊は純粋な戦術のみでそれに食らいついているのだから。
「今回の試合、王子隊は可能な限り若村を点にしたい筈だ。二宮隊の犬飼や辻は、そう簡単に取れる駒じゃない。様々な面で狙いどころである若村は、逃がしたくはない筈だ」
「そうね。この試合じゃ、若村くんが一番狙い易い駒だもの。練度が甘くて、機転も利く方じゃないし。他のチームにとっては、ご馳走のようなものでしょうね」
故に、此処で若村を逃がす手は無い。
若村はこの試合の中では、最も落とし易い駒と言える。
本人の練度の低さも然る事ながら、機転が利き難いという致命的な弱点がある。
若村は視野が狭く、目の前の状況の対処で一杯一杯になる傾向が見受けられる。
その為、危地からの脱出能力についてはあまり高いとは言えないのだ。
勿論これまでに成長はしているのだが、積み重ねた負債はなくなっていない。
正直に言って、B級上位でやっていくには少々力不足な感が否めないのだ。
故に、王子隊としては此処で何としても若村を点にしたい筈なのだ。
他が狙い難い駒だらけな試合である以上、彼は最も落とし易い相手なのだから。
「それを自覚出来ているか否か、それをどう利用するか。それが、若村にとっては重要になるだろう。この状況からどう仕事をするかは、そこに懸かっている筈だ」
(多分、どっちもオレを落としたくてたまらない筈だよな。この試合じゃ、オレが一番弱いんだから)
若村は必死に銃撃を続けながら、何とか思考を回していた。
犬飼は勿論、樫尾も狙いは自分を落とす事の筈だ。
何せ、この試合の参加者の中では自分が最も弱い。
香取や二宮のような絶対的な強さは持ち合わせていないし、三浦や辻のように機転も利かない。
自信の低さから来る自虐も勿論あるが、この試合の中で最も点にし易い駒は誰か、と問われれば自分である事は間違いないだろう。
一番狙い易く落とし易い駒なのだから、狙わない手は無いのだ。
だからこそ、樫尾は犬飼がいて近くに二宮も潜んでいるこの危険地帯に自らやって来たのだ。
普通、犬飼が傍に控えている二宮というランク戦では最も当たりたくない組み合わせに自ら近付くのは自殺行為と変わりない。
ただでさえ手が付けられない暴威を誇る二宮が、犬飼という最優のバランサーの存在によって僅かな隙さえ無くなるのだ。
ハッキリ言って、遭遇即敗退になる相手と言っても過言ではない。
仮に若村の目の前に現れたのが犬飼ではなく二宮の方であれば、今頃自分はとうに吹き飛ばされていたに違いない。
万が一を考えて射手である二宮ではなく自分と同じ銃手である犬飼が出張って来たのかもしれないが、そこだけは幸運だったと言って良い。
そして、自分でさえ気付いている事に王子隊が気付いていない筈がない。
恐らく、樫尾は自分の生存は度外視している。
たとえ若村を落とせたとしても、その後生き残れるとは考えていないだろう。
犬飼と二宮のコンビと単独で相対するという事は、そういう事だ。
今の樫尾は、いわば死兵。
役割を果たした後に落とされる事まで考慮された、鉄砲玉である。
それだけ、王子隊に取って自分は魅力的な
(考えろ、考えるんだ。とにかく、もうオレが生存する目はもう無いと見て良い。こんな状況で生き残るなんて、葉子ならともかくオレには無理だ)
そして、若村は最早自分が助かる可能性は無い事も自覚していた。
樫尾と遭遇して交戦してしまった時点で、逃げ切る事は不可能となっていた。
犬飼へまともに応戦しなかったのは、そうすれば今のように追いつかれ、脱出不能の膠着状態に陥る事が眼に見えていたからだ。
樫尾の奇襲によって抗戦を余儀なくされ、犬飼に追いつかれた段階で若村の命数は尽きていたと言って良い。
この場にいる彼等だけではなく、近くには二宮までいるのだ。
仮にこの場を脱出出来たとしても、二宮の射撃から逃れられるとは思えない。
B級一位部隊の看板は、伊達でも何でもないのだから。
(だから、何とかしてそれを利用して仕事をしないと。そうだ、どうせ落ちるしかないんだったら…………っ!)
考える時間など、殆ど無い。
こうして膠着状態を続けているだけでも、殆ど奇跡に近いのだ。
この場で練度が最も低い自分は、この場で最もボロが出易い。
故に、時間は自分の敵になる。
何が何でも即座に行動に移せなければ、自分などすぐにやられてしまうに決まっている。
ならば、取れる手があるなら手段など選んではいられない。
最早、自分の生存の芽は存在しない。
(なら、これしかない…………っ!)
故に、若村は決断した。
彼は銃撃を停止し、地面を蹴る。
そして、一息に犬飼に向かって疾駆した。
「…………!」
突然の若村の行動に、犬飼は一歩反応が遅れた。
彼としても、若村がこうまで早く思い切り良く行動するのは予想外だったのだろう。
咄嗟に弾種をアステロイドに切り替えて銃撃するが、その突進を止めるには若村との距離は近過ぎた。
結果、犬飼は若村のタックルを直に受ける事になった。
銃手である犬飼は、相手と密着している状態では
銃身が長い事もあって、そもそもアサルトライフル自体が敵と密着状態で撃つ事など想定されていないのだ。
だからこそ若村は犬飼を奇襲の相手として選んだし、その選択は間違ってはいない。
(後は、ここで木岐坂が撃てば…………っ!)
無論、攻撃出来ないのは若村も同じだ。
だが、問題は無い。
あとは、樹里が
どうせ落とされるしかないのなら、捨て駒になってでも犬飼を落とす。
自分という弱い駒と引き換えにあの犬飼を倒せるのなら、それで充分の筈だ。
漆間の時とは、違う。
力不足でただ倒されるのではなく、犬飼を倒す一助となれるのなら。
たとえ落とされるとしても、本望である。
(…………! なんで、来ない…………っ!?)
だが。
若村は、失念していた。
今回の彼の行動は、若村にしては機転が利いた行動と言える。
この場に於いては、最適解であったと言っても良い。
だが、それは。
「────────残念だけど、樹里ちゃんは君と即興で連携を取れはしないよ。そこだけは、失策だったね」
「…………!」
────────────────樹里がそんな若村の意を咄嗟に汲めていれば、の話である。
樹里は、若村にこのような機転が利いた行動が取れるとは考えていなかった。
故に、若村の咄嗟の判断に合わせた連携を取る事が出来なかったのである。
樹里は気心の知れた相手となら即興でも連携は取れるが、そうではない────────────────即ち、仲間となって日の浅い若村に対しては、その確執もあって意思疎通が巧くはいかなかったのだ。
これが香取相手であれば、その意を汲んで即座に動く事も出来ただろう。
しかし樹里の若村に対する私情を含めた評価の低さが、その連携を実現させる障害となった。
これが、樹里の致命的な弱点。
チームメイト
それはチームランク戦の、即ち
樹里はソロ隊員だったので1対多の経験は豊富であるし、大規模侵攻で多対1の連携も行った。
黒トリガー争奪戦は経験しているが、あれは佐鳥の指示に従った行動しか取っておらず、咄嗟の連携などはしていない。
彼女は香取隊に入隊してからこれまで、
故に、チームメイトとの
チームランク戦でこの点は、致命的な陥穽と成り得る。
それが分かっていたからこそ、二宮は今の樹里を脅威では無いと断じたのだ。
仲間と即席の連携を取れない者がいるチームが、B級上位でそのまま通用する筈が無いのだから。
犬飼の何処か哀れみの混じった声と共に、若村の右手首が持っていたアサルトライフルごと斬り落とされる。
気付けば、犬飼の左手から吸血鬼の爪を思わせる刃が伸びていた。
スコーピオン。
犬飼がセットはしているが滅多に使う事は無いブレードトリガーが、若村の抵抗手段を奪っていた。
「ぐ…………っ!」
同時に、背中から無数の弾丸が若村を直撃する。
樫尾のハウンドが、若村に致命打を与えた瞬間であった。
『戦闘体活動限界。
機械音声が、若村の敗北を告げる。
若村は呆然とした表情のままトリオン体を崩壊させ、戦場から消え失せた。