『葉子。樫尾くんが追われてるけど、犬飼先輩はあまり本気じゃなさそう。多分これは』
「釣り餌か。面倒な真似してくれるじゃないの」
香取は樹里からの報告を聞き、舌打ちする。
二宮隊の狙いは、明らかだ。
樫尾という餌を囮に、
来るなら来いと言わんばかりの、見え透いた挑発だった。
腹立たしいのは、これに乗る以外に道は無いという事。
今現在位置が判明している敵の中で、一番狙い易いのは樫尾である。
彼は優秀な攻撃手ではあるが、その脅威度は犬飼や二宮と比べれば明確に劣る。
少なくとも、犬飼や二宮といった面々を狙うよりは遥かに落とし易いのは事実だろう。
一点でもポイントが欲しい香取隊からしてみれば、喉から手が出る程欲しい獲物である事に違いは無い。
相手はそれを分かった上でこのような手を使って来るのだから、腹立たしいにも程があった。
『十中八九罠だよね。でも』
「ええ、点が欲しいなら仕掛けるしかないわ。問題は、
香取はふぅ、とため息を吐く。
そして、一呼吸置いて話し始めた。
「馬鹿正直に樫尾を狙ったところで、横から二宮隊に殴られて終わりよ。かといって犬飼先輩は相当警戒してるだろうし、二宮さんも同様。普通に考えれば、八方塞がりね」
だから、と香取は続ける。
「
(中々来ないね。人数が減って、慎重になっちゃったのかな)
犬飼は樫尾を追いながら、思案する。
この追走劇は香取隊を引きずり出す為の茶番であるが、思惑と異なり中々彼女達は現れない。
思惑通りであればすぐにでも仕掛けて来る筈だったのだが、少々当てが外れた感は否めなかった。
(罠だと気付いていても、仕掛けて来る以外に選択肢は無い筈だよね。彼女達からしてみれば、貴重なポイントなんだから)
これが香取隊を誘い出す為の罠である事は、誰の眼から見ても明らかだろう。
だがこれは同時に、手を伸ばさなければ何も得られないで終わる類の盛り皿だ。
少しでも点が欲しい香取隊にとっては、たとえ罠だと分かっていても踏み込まなければならない獲物の筈なのだ。
場合によっては再びの中位落ちが有り得る現状、彼女達が手を拱く理由は無い。
遅かれ早かれ、動くのは必須条件なのだ。
(もしかして予想以上にろっくんの件の精神的なダメージが大きくて、樹里ちゃんが使い物にならない状態になってる? そういえば、その可能性もあったんだっけ)
にも関わらず動かないというのは、それが出来ない状態に陥っているケースが考えられる。
先程の若村の失敗は、同時に樹里の失点でもある。
その事が尾を引いて樹里が使い物にならない状態になっているのだとすれば、この場で動かないのも理解は出来る。
罠に踏み込む以上、樹里の突破力は必要不可欠であるからだ。
あからさまに罠を張っているという場に向かう為には、相応の準備が必要だ。
幾ら香取の
自分達は、二宮隊は。
その程度でどうにかなる程、甘くは無いのだから。
(となると、このまま徒に時間を消費するのも悪手かな。最初と同じ、炙り出しに切り替えた方が得策かも)
犬飼はその可能性に思い至り、作戦の変更を検討する。
此処で樫尾を追っていても香取隊が現れないのであれば、ただ徒に時間を消費するだけだ。
ならば樫尾はさっさと片付けて、試合当初と同じ力づくでの炙り出しに切り替えた方が建設的かもしれない。
(もう少し王子隊との茶番をやっていたかったけど、こうなると中断以外に無いよね。向こうも乗り気だったみたいだから付き合ってるけど、これ以上は不毛かな)
この追走劇は、ある意味で王子隊との共同作戦である。
恐らく王子は、最初からこちらの意図に気付いていた。
犬飼が若村を追い始めたのを見計らう形で、その進路上に樫尾を配置していたのだからそうとしか考えようがない。
あの采配は明らかに、
それはつまり王子隊はこちらの作戦に積極的に乗る方針を示したという事であり、その可能性自体は最初から二宮に提示されていた為犬飼にとって否やは無かった。
しかしこうなると、その暗黙の協定の破棄は止むを得ない。
完全に共闘路線になっている王子隊には悪いが、敵同士の協定など破られる為にあるものだ。
今回はそれが、予定よりも早くなっただけの話。
犬飼は自らの考えを二宮に上申すべく、通信を開こうとした。
「…………!」
だが、その時。
不意に、視界の端で影が躍った。
すぐさま視線をそちらへ向けると、壁を蹴って跳躍する影────────────────香取の姿を視認した。
その標的は樫尾────────────────ではない。
明らかに彼女は、犬飼をこそ狙って動いていた。
(舐められたものだね)
釣り餌として用いていた樫尾ではなく、狩る側である犬飼を狙う。
成る程、最初から罠であると分かっているのならそれを仕掛ける方こそを狙う。
その考え自体は、理解出来る。
だが、それは狩人の実力が並程度でなければ成立し得ない前提だ。
故にこれは、犬飼であれば打倒出来ると考えている証左に他ならない。
確かに、犬飼は二宮と比べれば与しやすい相手ではあるだろう。
しかしそれは、あくまで二宮という絶対的強者と比較すればの話である。
犬飼は、単なる二宮の護衛ではない。
必要とあれば部隊の主力となり、盤面をコントロールするだけの能力を持つ最優のバランサーである。
自身が無敵であると驕る事はないが、少なくとも大抵の相手はいなす事が出来るだけの能力はあると自負している。
その自分を狙って来るという事は、犬飼を狙えばどうにかなると思っているという事に他ならない。
勝つ為ならプライドなど犬にでも食わせてしまえと思っている犬飼であるが、流石にこれは看過出来ない。
「させないよ」
犬飼は即座に香取を標的に、銃撃を実行。
彼女の移動方向を予測した上で、左右に銃を動かしながらハウンドを放つ。
銃手トリガーのハウンドは、予め決めておいた誘導設定に応じた弾道を描いて撃ち出される。
射手トリガーのそれと比べて咄嗟の応用が利き難いし、当然ながらあちら程細かい調整は出来ない。
速射性という武器と手に入れた代わりに応用性を犠牲にしたのが、銃手トリガーの特徴であるからだ。
銃手トリガーは射手トリガーと異なり、引き金を引くだけで弾を撃ち出せる。
故に、このように敵に接近されてからでも即座に反撃が可能なのが最大の利点となる。
射手トリガーではトリオンキューブを展開し、分割、射出するという工程を挟む為、こうはいかない。
即応性という武器は、こうした咄嗟の迎撃でこそ活きるのだ。
だからこそ犬飼は銃手というポジションを選んだのであるし、自分の役割を全うするにはこれしかないと思っている。
チームのバランスを考えれば、射手は二宮一人で事足りる。
彼の護衛且つ盤面の調整役である自分は、即応性を武器とする銃手が最も適している。
臨機応変に状況に対応するには、攻撃手である辻の手の届かない部分をカバー出来る銃手こそが最適解であるからだ。
故に、加減はしない。
香取の爆発力は脅威だが、それでも対処出来ないワケではない。
油断すればやられかねないのは確かであるが、犬飼に限ってそれは有り得ない。
獅子博兎。
どんな相手でも加減せず踏み潰す二宮隊の矜持は、犬飼もまた遵守している。
舐められたのは少々腹に据えかねてはいるが、そこはそれ。
感情を戦いに持ち込むのは愚の骨頂であるし、それで戦闘が雑になるようでは話にならない。
腹は立つが、それは方針を変更する理由にはならない。
感情と理屈を完全に分けて考える程度、造作もない事だ。
故に、犬飼は冷静に対処した。
香取がグラスホッパーを踏み込む瞬間にその軌道に重なる形で、弾道を調整したのだ。
向こうからすれば、こちらの弾種がアステロイドなのかハウンドなのかは分からない。
この距離であればアステロイドの可能性が濃厚だと考えるかもしれないが、至近と言える距離でもない為ハウンドの可能性も捨てきれない。
放たれるまでどの弾種が判別が付けられないのが射手トリガーと銃手トリガーの同一の長所であり、即座に弾丸を放てる銃手トリガーではよりその特性が活きる。
香取の爆発力は、グラスホッパーによる三次元機動に由来する所が大きい。
この狭い路地では壁を伝った機動も考えられるが、壁を利用するという事は路地の中央付近にいる犬飼から自ら離れる事を意味している。
それならそれで弾丸の軌道を組み直して撃ち直す隙が出来るという事になる為、問題は無い。
香取は大抵の状況を突破し得るだけの機動力を持っているが、その動きの練度は未だ発展途上である。
障害物やグラスホッパーを利用した三次元機動に翻弄されるだけの相手なら、彼女に容易く落とされていただろう。
しかしかつてA級で緑川等の三次元機動を得意とする者ともやり合った経験のある犬飼からしてみれば、香取の機動力は脅威だが決して対応出来ない程ではない。
急激な成長性を誇る
だからこそ犬飼は、この方法で対処出来ると考えた。
「…………っ!?」
だが。
その予測は、次の瞬間裏切られる事になる。
香取がグラスホッパーを踏み込まず、
驚き眼を見開く犬飼だが、即座にその動きの理由を看破した。
眼を凝らして、そして理解する。
敵には見え難く、味方にだけ見え易い。
そういった特性を持つワイヤーが、この路地には張り巡らされていたのだ。
(香取隊は、手を拱いていたんじゃない。スパイダーを仕掛けてあるこの場所に、俺達が来るのを待っていたのか…………っ!)
犬飼は思わず、内心で舌打ちする。
スパイダー。
このトリガーは以前に樹里との戦いに備えて香取隊を教導した折、自分が若村に教えたものだ。
設置場所から考えて、恐らくこれを仕込んだのは若村だろう。
思っていたよりも早く彼を発見出来たとは考えていたが、こんな細工をしていたが為に自分達から離れる時間が足りなかったのだと考えれば説明がつく。
二宮が爆撃を始めるまでには犬飼と合流する為のタイムラグがあった為、恐らくその間に仕掛けたものなのだろう。
合流までは双方共にバッグワームを纏っていた為、犬飼は自分達が近くにいる事を爆撃が始まるまで察知出来ていなかったのだ。
故にこそ、このスパイダーを仕掛ける時間が出来たと考えれば皮肉ではあるが。
このトリガーの最大の特製、それは。
(設置さえしてしまえば、
内心で弟子を称賛しつつ、犬飼は勿論迎撃を止める事は無い。
そもそも、思考と行動を切り分けて実行する程度造作もない。
こうしている間にも犬飼はリアルタイムで移動しながら銃撃を敢行し、ワイヤーによる三次元機動を行う香取を牽制していた。
並の相手であればワイヤー機動という予想外の手札を切られた時点で陥落していたかもしれないが、犬飼は多少のイレギュラーが起こった程度で落とされる程甘い駒ではない。
加えて、自分の予想を香取が超えて来る事もまた、想定の一つ自体にはあったのだ。
「…………!」
瞬間、壁が爆発によって吹き飛ばされる。
そこから悠々と現れるのは、メテオラという手札でその破壊を成した二宮である。
ワイヤーが張られているのならば、それを壁ごと吹き飛ばしてしまえば良い。
何かあった時の為に近くに潜んでいた二宮という手札を、此処で切ったワケである。
確かにスパイダーは仕込む事さえ出来れば優位に戦闘を進める事が出来るが、その強度は大したことはなく銃撃でも斬撃でも容易に破壊出来る。
無論メテオラに巻き込まれればひとたまりもなく、設置場所である壁を失った事でワイヤーは軒並み破断された。
足場となる壁もワイヤーも消え去った今、香取に残された手札はグラスホッパー1枚のみ。
それだけで逃げ切れる程、
香取が脅威となるのは三次元機動な閉所での戦闘であって、開けた場所での戦いであればどうとでもなる。
こちらには、圧倒的な射程範囲と火力を持つ二宮がいるのだ。
犬飼が護衛に就けば
開けた場所での戦いであれば、
単純な力押しが通用する盤面でこそ、二宮の火力は活きる。
そう考えて、此処で二宮という
「え…………?」
だが。
それもまた、覆される。
香取が出て来て以降警戒しながら様子を伺っていた樫尾の頭部が、一発の弾丸で吹き飛ばされた事によって。
何が起きたのか、即座に理解する。
────────狙撃だ。
樹里が、樫尾を狙い撃った。
言葉にしてみればそれだけだが、違う。
これは、二宮の介入を前提とした作戦だったのだ。
香取隊の真の狙いは、ワイヤーに依る三次元機動という脅威を見せつける事で二宮の介入を誘発する事。
彼に壁を吹き飛ばさせる事によって、樹里の
それでも犬飼や二宮本人を狙っていれば、対処は出来ただろう。
最初に犬飼を狙った事で、敵の狙いが自分達であると理解していたからだ。
しかし樫尾は香取が犬飼を狙った事で、自分は標的から外れたと錯覚してしまった。
むしろそんな香取を背後から狙おうと、隙を伺ってもいたのだ。
だが、香取隊の狙いは初めから樫尾の方だったのである。
犬飼を狙ったように見せかけて二宮の介入を誘い、それを引き金に樹里の狙撃で樫尾を仕留める。
これが、香取隊の作戦だったのだ。
『戦闘体活動限界。
機械音声が、樫尾の脱落を告げる。
彼のトリオン体が崩壊し、香取隊の戦果を証明する光の柱となって消え去った。