「お疲れ様。検査はこれで終わりだよ」
「ん…………わかった」
綾辻の言葉を契機に樹里は寝台から起き上がり、んー、と背伸びをする。
簡素な手術衣一枚の彼女はふぅ、と息を吐いて部屋の一角にある覗き窓を凝視する。
「…………賢は?」
「向こうの部屋で待ってるよ。流石に、男の子をこの場に同席させるワケにもいかないからね」
「わたしはいいのに」
「一般常識的に色々あるのよ。こういうのは」
「ふぅん」
何処か興味なさそうに、或いは面倒臭そうに樹里はぼやく。
そんな彼女は、何故この場に佐鳥を同席させてはいけないかがいまいち分かっていない。
手術衣は検査の邪魔にならないようかなり薄手の生地で作られており、身体にフィットした形状でもないので隙間から彼女の白過ぎる素肌が垣間見えている。
そもそもこの検査室は更衣室も兼ねており、着替えの際に脱いだ彼女の衣類も下着に至るまで近くの籠に放り込まれている。
ハッキリ言って、男性である佐鳥が入れないのは当たり前なのである。
この部屋は女性である樹里の検査を男性中心の開発室だけで行うワケにはいかないと、わざわざ事情を知る一人である綾辻を引っ張って来て用意したものであり、使用中は基本的に男子禁制だ。
彼女の認識では佐鳥は親しい友人というよりは自分の一部のような存在であり、半裸を見られたところでさして気にしてはいない。
どころかそういう姿を見た時の佐鳥は色々と
なので当初は彼が傍にいられない事にごねたものの、代案としてすぐ隣の部屋で待機させるという条件で渋々納得したのだ。
彼女は基本的に、病院や病室といったものに忌避感がある。
一人ではまず行こうとはしないし、佐鳥のような信頼出来る人間がいなければそもそも近付こうとすらしない。
だからこそ、検査の際には佐鳥の同行が必須なのである。
彼女の
部屋の壁に取り付けてあるマジックミラーになっている覗き窓も、彼女がそこを通して佐鳥がいる事を確認する為のもの。
そこまでしなければ、彼女の医務室に関する忌避感は軽減出来ない。
鬼怒田や協力者である綾辻は彼女の事情を知るが故に、そこに注力する事については否はない。
二人は医療従事者ではないが、樹里相手に対しては医者と患者のような関係性に近い。
彼女の事を思えば、むしろこの程度の配慮は当然であると両名共に考えている。
広報部隊の一員である佐鳥を日常的に樹里に張り付かせる事に難色を示した根付を弁を尽くして説得したのも、その為なのだから。
「じゃあ、着替えたら鬼怒田さんの所に行ってね。今回の一件について、聞き取りがしたいみたいだから」
「分かった」
樹里はそう言って躊躇いなく手術衣を脱ぎ、手早く制服に着替えていく。
妖精のような裸身を目の前で晒された綾辻は何処か気恥ずかしそうにしながら、はぁ、とため息を吐いた。
(ホント、綺麗な子だよねぇ。こんな子に慕われて何もしないあたり、佐鳥くんも紳士だよねホント)
正直、自分が男だったら佐鳥程紳士に徹する事が出来るだろうか、と綾辻はなんとなしに思う。
白い手足は細くしなやかで、妖精じみた幻想的な美しさを醸し出している。
背は156㎝とそこまで高いワケではないが胸はちゃんと膨らんでおり、身体のラインの艶やかさは同性である綾辻でも思わず息を呑む程だ。
浮世離れした独特の空気も相俟って、彼女と一緒の空間にいるだけで現実感が希薄になる。
樹里の美貌は、そういうレベルに達していた。
そんな彼女にああもあからさまに慕われておきながら、佐鳥が樹里と何か進展があった等という話は未だに耳にしてはいない。
割と隠し事の巧い佐鳥はともかく樹里は何かあれば目に見えて分かるので、関係の進展はないだろうと断言出来る。
(佐鳥くん、口ではモテたいとか色々言ってたけど中身は硬派だもんね。わたしや木虎ちゃんもモーションかけられた事はないし、他の子に下心込みで接した事もないしね)
佐鳥は表面上はモテたい願望を口にしていたりと軽そうなイメージだが、その内面が硬派である事は同じ部隊の面々には既にバレている。
だからこそ木虎も口では刺々しい言葉で突き放しつつも嫌ってはいないのであり、色々と異性に面倒な好意を向けられがちな綾辻としても安心して付き合っていられる相手という事で好感度は結構高い。
広報部隊の華として男性人気がありそれに伴う面倒事に直面してきた綾辻や木虎からしてみれば、
その当人は樹里との関係は何処かおっかなびっくり距離感を探っている様子があり、事情を知る綾辻としても余計な手出しが却ってマズイ事になるだろう事は重々承知しているので余計な干渉は基本的にしないと決めている。
向こうから求められたのであればともかくとして、であるが。
(でも、一応説明は嵐山さんを通してやってあるし、鬼怒田さんは何を聞きたいんだろ? 確かに嵐山さん達とは別行動だったけど、何かに巻き込まれでもしたのかな…………?)
「検査で疲れたところ悪いな。すぐに済ませるから、楽にしておけ」
「わかった」
その後、別室で待っていた鬼怒田の元へ樹里は佐鳥を伴って姿を見せた。
いつもなら佐鳥相手に少し
結果として強引に佐鳥を付き合わせ、こうして面会に至った次第である。
「しかし、あまり佐鳥を連れ回すのは感心せんぞ。これでもそやつは広報部隊の一員なのだから、好き勝手やり過ぎると根付室長から文句を言われかねん」
「あー、でもですね鬼怒田さん」
「フン、事情は分かっているがだからといって注意を怠って良い理由にはならん。木岐坂側に改善が難しいのなら、配慮すべきは佐鳥の方だろう。そのあたりは、きちんと肝に銘じておく事だ」
「…………了解しました」
耳の痛い言葉を聞かされ、佐鳥は苦笑する。
普段から樹里に振り回されている佐鳥ではあるが、だからといって最低限の配慮を怠って良い理由にはならない。
それは全く以てその通りであり、納得するしかない佐鳥であった。
「さて、お前を呼んだのは他でもない。今回のイレギュラー
そう言って、鬼怒田は樹里の返答を待った。
その様子を見た佐鳥は成る程、と目を細める。
(これは…………例の件が疑われてる、ってワケでもなさそうだな。って事は、
状況から見て、件の
むしろこれは樹里の事情を知る鬼怒田が心配して尋ねに来た、というだけの話らしい。
報告は嵐山を通して挙げていたので何を聞かれるのか疑問に思っていただけに、それが氷解して内心安堵する佐鳥であった。
「特に何もないよ。なんで?」
「いや、何もないならいいんじゃ。すまんな、もう行って良いぞ」
「わかった」
樹里は鬼怒田の許可を得るとぺこり、とお辞儀をして退室する。
あまり他者に対して配慮が行き届いているとは言い難い樹里であるが、鬼怒田には色々とお世話になっている事もあり彼女にしては割と丁寧に応対している。
木虎と同じで恨みも恩も忘れない性格なので、誠意には誠意を以て返すという意識はあるのだ。
とは言っても他と比べればマシ、という程度でその他大勢に対する態度は淡泊というより酷薄と言った方が正しいくらいである。
いっその事佐鳥と一緒にいても言い訳が立つように広報部隊の補助に加えてはどうか、という根付の提案を断った理由もその他人への無関心さに起因する。
彼女を公衆の面前に立たせても、碌に愛想すら見せずに塩対応で荒れるのが目に見えている。
そもそも樹里を大勢の前に立たせるというシチュエーションからして問題外な為、鬼怒田の許可を得られなかった、という事情もあるのだが。
「ちょいと待て、佐鳥。少しでいいから話をしていけ」
「あ、はい、分かりました」
そんな事を考えながら樹里の後を追おうとしていた佐鳥を、鬼怒田が呼び止める。
佐鳥はなんとなく鬼怒田の意図を察し、特段拒否もなくその場に留まった。
「念の為聞いておくが、最近木岐坂に変わった様子はないだろうな? あ奴の事だから、痩せ我慢をしているという線は捨てきれん」
「特に変わりはないですよ。ちょっとした拍子で少し不安定になる事はありましたが、尾を引くような事はありませんでした」
ふむ、と鬼怒田は納得した様子で頷く。
彼の心境も察せるので、面倒だとは思わない。
自分の役割、責務からしても。
この程度の事は、やるべき仕事の範疇でしかないのだから。
「…………そうか。ならば良い。呼び止めてすまんかったな」
「いえ、それがおれの
何処かばつの悪そうな鬼怒田に笑いかけ、佐鳥は部屋を後にした。
その後姿を見据え、鬼怒田はため息を吐く。
「今の所は、問題はなさそうだの。佐鳥には面倒をかけるが、仕方あるまい。その分、何かあったらフォローしてやるかの」
「賢、遅い。何してたの?」
「ごめんごめん。ちょっと鬼怒田さんと事務的な話をね」
「そう」
遅れて樹里に追いついた佐鳥に対し、少女はジトリと湿度の高い視線を向ける。
実のところ色々と配慮がされているとはいえ医務室のような場所の近くに長居はしたくなかった彼女は用が終わるなり即座に出たのだが、追って来ると思っていた佐鳥が出て来るまでに時間がかかったので、少々お冠なのだ。
むー、とへそを曲げる樹里に対し、佐鳥はまあまあ、と宥めにかかった。
「とにかく、これで用事は終わったからさ。帰りに何か買ってく?」
「いいとこのどら焼き。あそこ、まだ空いてるかな?」
「あそこは19:00までだから、ちょいと怪しいな。急げば間に合うかもだけど、人気商品は残ってないんじゃない?」
「むぅ」
ナチュラルに好物の鹿のやで売っている「いいとこのどら焼き」を注文する樹里であるが、現在時刻は18:30を回っている。
鹿のやの営業時刻は10:00~19:00であり、閉店間近のこの時間帯に行っても欲しい商品が買えるかは甚だ怪しい。
あそこは太刀川や月見といった者達を筆頭にボーダーでも愛好家が多い店であり、たとえ平日だろうと学校帰りに寄って行く者は一定数いる。
今から行ってどら焼きを購入出来るかどうかは、割と賭けだろう。
「それより、鯛餡吉日行かない? あそこのたい焼きなら、多分今から行っても買えるよ」
「じゃあ、今日はそれでいいや。早く行こ」
「了解っと」
樹里の返答を受け、佐鳥は向かう先を決めた。
鯛餡吉日は蔵先町にあるたい焼き屋であり、こちらの営業時間は19:30までだ。
部活帰りの学生もターゲットにしているだけあって、割と遅い時間でも売り切れで買えないという事は早々ない。
ちなみに玉狛支部と近い事もあって、店に行くとレイジや陽太郎といった面々と鉢合わせる事もあったりする。
話によれば陽太郎がそこのたい焼きを気に入っており、度々買いに来ているのだそうだ。
支部長の身内だと聞いてはいるが、そういえば詳細な事は何も知らないな、と考えて。
あ、これ突っ込んだらいけないやつじゃね? と危機感知センサーが働きそれ以上の思考を止めた佐鳥であった。
「じゃ、行こっか。大丈夫だと思うけど、早く行くに越した事はないしね」
「ん…………? 佐鳥か。木岐坂も一緒かよ」
「…………漆間か」
たい焼きや、鯛餡吉日。
店へ到着した佐鳥達は、思わぬ先客に出会う事になった。
黒の長髪に、整った顔立ち。
眠たげな眼でこちらを見据える少年の名は、
B級9位漆間隊の唯一の戦闘員にして、隊長である。
「あ、こ、こんばんは」
「こんばんは、六田さん」
佐鳥は漆間に付き添っていたオペレーターの六田に、挨拶を返す。
彼女は漆間隊のオペレーターであり、漆間の実質的な相方だ。
おどおどした様子が目立つ彼女であるが、男女二人きりの部隊という事で漆間との関係が邪推されて噂になった事もある。
その時は漆間が無反応を貫いた為詳細は定かではないが、一緒にたい焼きを買いに来るあたりプライベートでの関係は良好なようだ。
漆間は金にがめつく無神経な言動が多い為他部隊の人間と揉める事が多いのだが、その他者への配慮のなさは何処か樹里と共通する所がある。
だからこそ、佐鳥は彼のその他大勢の見る眼と六田へ向ける視線の種類が異なっている事はすぐに分かった。
そこに秘めた感情の種類は判然としないが、追及するだけ野暮というものだろう。
「なんか不愉快な想像されてる気がするけど、アンタも人の事言えねーからな? 広報部隊が女連れで買い食いとか、問題あるんじゃねーの?」
「一応、何の考えもなしに来てるワケじゃないんで大丈夫だっての。心配すんなって」
「心配なんざしてねーっての。巻き込まれるのが面倒なだけだ」
「はいはいっと」
ジロリと睨みつける漆間に対し、佐鳥は苦笑いで応じる。
ちなみに、彼がこの場での事を広めるとは思っていない。
そんな事をすれば六田と一緒に来ていた自分にも飛び火する可能性があるし、何よりそんな一銭にもならない無駄な事はしないのが漆間と言う男だ。
金が絡めばがめついが、不要な労力の必要な事はしないのである。
「そーいや、今日ガッコの近くで
「いや、どーだろうな。おれも駆除には参加したけど、そこまでは聞いてねーや」
「チッ、役に立たねーな」
「ごめんごめん、気になるなら後で聞いてみれば? 暫くは忙しいだろうから少し時期を見た方が良いだろうけど」
しゃーねーな、とため息を吐く漆間を見て、いっそ清々しいなあと佐鳥は思う。
漆間はボーダーの仕事を金の為と完全に割り切っており、それを公言してすらいる。
そんな漆間を良く思わない者は多いが、佐鳥はある意味で誠実だと考えている。
何故なら。
戦う理由に、貴賤などはないからだ。
三輪のように復讐の為に入隊した者もいれば、太刀川のように戦いたいから、と剣を執った者もいる。
そのどちらもボーダーの戦力として貢献している事に変わりはなく、戦う理由がなんであろうと仕事をこなしているのであれば何の問題もない。
気持ちが強かろうと結果を出せなければ意味はないが、逆に言えば結果さえ出せばどんな理由で戦っていたとしても評価はされるのだから。
「付き合ってらんねーな。行こーぜ、六田先輩」
「あ、待ってよ漆間くん」
そうこうしている内に漆間は踵を返し、六田と共に立ち去った。
それを見送り、佐鳥はやれやれと肩を竦めて。
「────────賢」
「あ」
それまで放置されていた樹里が、ジト目で睨んでいる事に気が付き。
平謝りをして、彼女の要求を呑んで手痛い出費をする事となった佐鳥であった。