「…………ふぅ」
迅はボーダーの廊下を歩きながら、大きく息を吐いた。
先程、上層部への報告の場では巧く立ち回れたと思う。
どういう展開になろうが遊真が「友好的な近界民」である証拠を軸に強引にでも切り抜けるつもりだったが、何の因果か彼の出自が思わぬ所で助けになった。
空閑有吾。
ボーダーの古株である迅ですら殆ど知らないその人物が、どうやら遊真の父親であるらしい。
彼の名を聞いた瞬間の林藤、城戸、忍田の三人の驚愕の表情は忘れ難い。
あの様子からして、彼等にとって余程重要な────────────────否。
大切な、仲間だったに違いない。
そんな人物が既に亡くなっていたと聞いて、心穏やかではいられなかった筈だ。
迅の立場に置き換えれば、自分の知らない所で最上が亡くなっていた、ようなものだろうか。
(そっちの方がまだ、いや────────────────どっちにしろ、悲しい事に変わりはないか)
はは、と何処か乾いた笑みを迅は漏らす。
喪失には貴賤も、多寡もない。
それはある日突然訪れるものであり、本質的には埋める手段など何もないものだ。
チラリと、腰の風刃に目を向ける。
これは、自身の喪失の象徴だ。
師であり父親のように慕っていた存在の、本当の意味での忘れ形見。
彼の分身にして、棺そのもの。
その所有権を巡る闘争では、躍起になって競争相手を打ち倒した事を覚えている。
これを、他の者に渡してなるものか。
そんな想いを、当時の自分は抱いて鬼気迫る勢いで剣を振るった。
今では年月が経ち気持ちは落ち着いたものの、あの日の戦いに後悔はない。
幾度繰り返そうとあの時は風刃を手放す事など考えられなかったし、贔屓目抜きで自分が持つのが最善だったとも考えている。
風刃は確かに強力な黒トリガーだが、性能が攻撃特化でピーキーに過ぎる。
しかし、迅であればその欠点を
まさに迅の為に誂えたかのような性能のトリガーであり、真実そうなのだろう。
これは、最上が迅に使わせる為に創造した黒トリガーなのだから。
(その割には使える適合者が多いあたり、最上さんらしいよなぁ。まあ、でなきゃこんな計画を今回立てられる筈もなかったんだし、純粋に感謝かな)
迅は内心で苦笑しつつ、何気なく天井を見上げる。
師の事を思い出していたからか、その顔は何処か穏やかだ。
先程の忍田達の話に、当てられたのかもしれない。
何気なく、そんな事を考えていると。
「此処にいたか、迅」
「鬼怒田さんか」
不意に、背後から声をかけられた。
振り向けば、そこにいたのは恰幅の良い中年男性。
鬼怒田本吉。
ボーダー技術開発部の長であり、先程の会議にも出席していた組織の重鎮の一人である。
思えばさっきの会議の場では、妙に発言が少なかった。
未来視でこの場で呼び止められる事は識っていたが、会話の内容までは視れていない。
迅は居住まいを正し、鬼怒田の言葉を待った。
そんな彼に対し鬼怒田はコホン、と咳ばらいをしてから話を切り出した。
「さっきの会議の場では聞けんかったが、一応聞いておこうと思ってな────────────────話に出た空閑という奴は、
「…………! それはまだ聞いていないけど、十中八九関係が無いと思うよ。少なくとも彼の故郷は、件の国のような技術は持っていなかったみたいだし」
「そうか」
何処か安心したような、それでいて気落ちしたような複雑な様子の鬼怒田に迅は彼の意図を察して押し黙る。
少なくとも、事情を知らない修の同席する場で迂闊に話して良いものではない。
迅は修から伝え聞いた遊真の話からほぼ間違いなく彼のいた国は例の国とは違うだろうと考えているが、そういった情報の無い鬼怒田としては聞かずにはいられなかっただろう。
「迅、すまんが」
「ああ、可能なら例の国について何か知らないか遊真に聞いておくよ。彼は、最近までの生の近界を知る生き証人だからね。噂程度でも、何か知っている可能性はあるからね」
「頼んだぞ。場合によっては今後、お前の味方をしてやっても構わん。近界民を受け入れるなど忸怩たる想いだが、そうも言っていられんからな」
味方をする。
その鬼怒田の発言の意図は、明らかだ。
今日の会議の場では一先ず遊真の立場は保留に近い形となったが、黒トリガーという巨大戦力を玉狛支部に預けたままというワケにはいかないだろうというのは迅から見ても明らかだ。
ただでさえ、玉狛には迅の風刃があるのだ。
二つも黒トリガーが一つの支部に集中しては、ボーダーの派閥のパワーバランスが崩れる。
少なくとも対外的にそう見えてしまう以上、城戸は行動せざるを得ない。
それに、何処かで城戸派と玉狛の代理戦争を行わなければならないのは前から分かっていた。
今後、遊真のような存在が現れた時に落としどころを作り易くする為にも、一度派閥同士でぶつかり合う必要があった。
今回の一件は、その絶好の機会でもある。
故に、城戸が止まる筈がないだろうという事も理解していた。
だからこそ、敢えて反感を買うような演出であの場を切り抜けたのだ。
城戸に、開戦の口実を与える為に。
いわばこれは、城戸と迅の間で暗黙の内に交わされた取引のようなものだ。
お互いがお互いの意図を把握しているからこそ、あの茶番劇じみた演出に意味が出て来るのだ。
しかし、鬼怒田はそれを知らない。
彼と迅では得ている情報が違い過ぎるが故に無理はないが、だからこそ彼の発言の持つ意味は重いのだ。
遊真の黒トリガーを奪う事は、組織の長である城戸の意思だ。
鬼怒田は、迅の姿勢次第ではそんな城戸の意図に逆らう事を辞さないと言っている。
組織の幹部が長に逆らう事の意味を理解出来ない程、迅は愚かではない。
明確な役職こそ貰っていないとはいえ、彼もまた組織の重鎮のようなものなのだから。
そのあたりの機微は、痛い程分かっているつもりだ。
「大丈夫、こっちで色々考えてるからさ。鬼怒田さんには後始末の時に、最終的な同意さえしてくれればそれで良いよ」
「そうか、要らん世話だったか。ふん、柄にもない事をするものではないわい」
「それでこそ鬼怒田さん、って気はするけどね。あまり気に病み過ぎても仕方ないし、少しは肩の力を抜いたらどう?」
「それは、お主にこそ言わなければならん台詞だろうが。阿呆」
何処か呆れた様子の鬼怒田に、迅は苦笑を漏らす。
どっちも、どっち。
奇しくもこの時の二人の心境は、一致していたのだった。
『というワケで、あの時は樹里ちゃんを抑えてくれて助かったよ。彼女が乱入する
「やっぱそうだったんすね。はぁ、止めといて良かった」
迅の電話を受け、佐鳥は思わずため息を吐く。
彼が今いるのは、三門市内の繁華街の裏路地である。
樹里のおねだりで鹿のやでどら焼きを買った佐鳥は、まだ彼を解放するつもりのない彼女によってこのままマンションへ連行される事が確定していた。
だからこそ、迅はこのタイミングで電話をかけて来たのだろう。
丁度、佐鳥がトイレだと言って彼女から離れたこの場所で。
あまりにも良いタイミングであったが故に、佐鳥はそう邪推していた。
『彼女があそこに介入しちゃうと、どうしても議題がそっちに向いちゃうからね。知っての通り樹里ちゃんの立場は微妙なものだし、何の保険もない状態で今回の一件に関わっちゃうと色々面倒な事になる恐れがあった。だから、止めてくれたのは本当に助かったよ』
「いえ、それはおれとしても不本意な展開なんで、そういう事ならお礼は要らないですよ。こっちの事情で止めたようなもんですし」
佐鳥はそう告げながら、内心で「セーフ!」と叫びながら安堵していた。
矢張り、あのまま樹里を放置するのはまずかったらしい。
迅がこう言うのだから、佐鳥が追いかけなければ確実に彼女は三輪隊との戦闘に介入し、ややこしい立場に置かれていた事だろう。
佐鳥はこの時ばかりは、あの時彼女を追いかける判断をした自分を褒めてやりたい気分だった。
嫌な予感がフルスロットルでしたので反射的に追いかけたが、間違ってはいなかったらしい。
どうやら樹里の蚊帳の外に置かれる危機感というものを、甘く見積もっていたようだ。
まさかそんな無茶をしてまで後戻りを利かなくさせようとするなど、あの時までは思いもしなかったからだ。
(仲間外れ、っていうのに結構敏感に反応するからね樹里ちゃん。そこらへん、気にしておくべきだったか)
四年間の記憶の空白のある樹里は、蚊帳の外に置かれる事を酷く厭う傾向がある。
自分だけが、部外者のように扱われる。
それを感じる状況をなるべく避けようとするし、それは親しい人間相手ではより顕著だ。
というよりも、彼女は親しい相手以外に殆ど興味を抱かないので、そういった情動は身内判定した人間以外には発生しないのだろう。
しかしその分親しい相手への想いは深く、重い。
たとえ、無茶な手段を取っても自分を仲間外れにさせないよう、突っ走る程度には。
樹里の感情は、潜在的な恐怖というものは。
それだけ、重いのだ。
それを理解していなかった事に、佐鳥は恥じ入る。
自分は。
自分だけは、何があろうと樹里の味方でいると。
あの時、そう決めたというのに。
その彼女の事を、まだ分かっていなかった。
それが、佐鳥の心を責め立てていた。
樹里が好物を買って貰うという形で今回の補填を要求して来た時、佐鳥は助かった、とさえ思った。
こうして明確な形で埋め合わせが出来る状況を提案してくれた彼女に、内心感謝さえしたのだ。
そうでなければ、佐鳥は思考の袋小路から出る事は出来なかっただろうから。
ある意味で佐鳥を気遣った形になった樹里の欲望に、奇しくも助けられた形となる。
この時ばかりは、樹里の性格が良い方向に働いたと言えるだろう。
「それで、これからはどうなるんです?」
『城戸さん達が動くのは、太刀川さん達が遠征から帰って来てからだね。多分、トップチームの帰還後すぐに彼等を動員して来るだろうから、その時までには根回しを済ませて時が来たら呼ばせて貰うよ』
それから、と迅は続ける。
『一応言っておくけれど、今後強引に樹里ちゃんを今回の件から遠ざけようとすると却って逆効果になるみたいだ。だから、申し訳ないけれどそれは控えて貰えるかな?』
「…………仕方ないですね。迅さんが言うなら、間違いないでしょうし」
『ごめんね。おれも出来る事なら関わらせたくはなかったんだけど、一度関わっちゃった時点でどう足掻いても無理みたいでね。本当に、申し訳ない』
「いやいや、事情を考えれば仕方ないですって。樹里ちゃんに視られるのは、事故みたいなもんですし」
重ねて謝る迅に、佐鳥はそう言ってフォローする。
樹里が今回の件に関わった発端は、彼女がその
副作用によって強化された樹里の視界の広さは途轍もないもので、意図を持って情報収集に徹した彼女の眼から逃れるのは容易な事ではない。
一度遊真の存在を知られ、佐鳥と迅の関わりが発生した段階で。
彼女の干渉は、避け得なかったものだと言える。
佐鳥としても複雑な心境ではあるが、こればかりは迅を責めても仕方がない。
間が悪かったと、諦めて対応するしかないのだから。
『すまないね。それじゃあ、何かあればまた連絡するよ』
「了解です。それでは、また」
佐鳥は迅の何処か申し訳なさそうな声を聞きながら、笑顔で通話を切った。
自分がああ言ったとしても、迅は内心では責任を感じている筈だ。
何もかも背負い込み、一人で抱え込もうとする。
それが迅の性質なのだと、自分はあの時知ったのだから。
彼は、そういう人間なのだと。
自分は、あの時見抜けなかった。
だからこそ、あんな事になったのだから。
過去の出来事とそれに関わる悔恨に、佐鳥の顔に陰がかかる。
「賢」
「わ、樹里ちゃん」
「遅い。待ちくたびれた」
そんな時、不意に背後から樹里に声をかけられ慌てて振り返る。
そこには、むすぅ、と頬を膨らませた樹里がこちらを睨みつけていた。
どうやら、早く佐鳥と帰路に就きたい樹里は我慢しきれずに佐鳥を呼び戻しに来たらしい。
正確な場所は教えていなかった筈だが、持ち前の観察眼と直感で此処に辿り着いたのだろう。
樹里は、妙に勘が鋭いところがある。
それは副作用の影響故なのか彼女生来のものかは分からないが、勘の鋭さで彼女に勝てる者は早々いない。
今回のように隠れていた自分が勘頼りに彼女に見付けられた事も、一度や二度ではないのだから。
「早く行こう。あんまり遅いと、泊まらせるよ? わたしはそれでも良いけど」
「佐鳥が良くないからそれは却下です」
「じゃあ、早く。どら焼きは帰ってから食べろって言ったの、賢だよ」
「はいはい、っと。じゃ、行きますかね」
「うん」
佐鳥はがし、っと自分の手を掴んで引っ張る樹里に身を任せ、帰路に就く。
早く早くと急かす彼女に歩を合わせながら、佐鳥は樹里に言われるがままに彼女のマンションへ向かって歩き出した。