「────────それは本当か、迅」
「残念ながらね。今すぐに、ってワケじゃないみたいだけど起きる事はほぼ確実と見て良いよ」
そうか、と鬼怒田は険しい顔で頷いた。
開発室で樹里の診察を終えた鬼怒田は、突然の迅の訪問を受けていた。
元より話を聞きに行こうとしていた為に手間が省けたとも思っていたが、その彼から齎された
それは、即ち。
「────────木岐坂に、近いうちに
「今夜の事が一つの切っ掛けなのは、まず間違いないけどね。実際に、あれが起こるまでは確定しなかった未来みたいだし」
────────近い将来に起きる、樹里の異変。
それが迅の予知によって確約されてしまった、という現状である。
元より、今夜の襲撃で樹里に何らかの悪影響を齎す可能性については迅によって予め示唆されていた。
だからこそ樹里は主戦場から遠く、更に何かが起きても本部基地に悪影響が及ばないような場所に配置されていたのだ。
迅の予知では樹里が本部基地に近い位置で戦闘を行った場合、最悪の未来へ繋がるケースすらあると断言された以上無視は出来ない。
だからこそ彼女を護衛役の香取と共に東側に配置し、何かあれば玉狛第二の面々が駆け付けられるようにしていたのだ。
ヒュースの投入が見逃されたのも、この迅の予知が原因だと言っても過言ではない。
ボーダー側としては樹里の
そういった迅からの事前通達があった為に、樹里のバイタルが急変した段階で鬼怒田はあらゆる事態を想定して準備を進めていたのだ。
もっとも元より何かあった場合の検査の準備はしていたので、報告を受けてから行った事は数える程度しかない。
検査の結果何もなかった事に一先ず安堵はしていたのだが、そこに来て迅のこの宣告だ。
表情が険しくなるのも、無理はないと言える。
「おれの
「ふん、おぬしの予知が万能でない事くらい承知しておるわい。そこで責任を感じる必要はないぞ。ククロセアトロとかいう連中の悪辣さは、
鬼怒田はそう言って、開発室の一角に設けられたスペースに眼を向けた。
そこには、風間隊が回収したガラスケースに収められた脳髄、即ち寄生型トリオン兵アラフニの「本体」とでも呼ぶべきものが様々な機器に繋がれて鎮座していた。
「あれがどういうものか、分かったんだね」
「…………ああ。胸糞悪い話になるが、聞くか?」
「勿論。敵を知らなければ対処のしようがないからね」
「いいだろう。後悔するなよ」
鬼怒田はそう言って、忌々し気にガラスケースの脳髄を見据えた。
その顔には、明らかな嫌悪と侮蔑の感情が載っているように見える。
それだけ、あの代物は忌避すべきものであるという事だ。
「あれはな、性質的にはトリオン兵というよりもむしろ人間のトリオン体に近い。というよりも、
「トリオン体に近い、つまり────────」
「────────あれはあの脳の持ち主のトリオン体をベースに生成された、特殊なトリオン兵じゃ。いや、
トリオン兵ではなく、人間のトリオン体が改造されたもの。
それがあの子蜘蛛を模したトリオン兵の正体だと、鬼怒田は言う。
その内容に、迅は眼を細めた。
トリオン体は本人のデータをベースに、新陳代謝までも再現されて生成される。
一般的に生身の身体から乖離すればする程不具合が起きる可能性が高まり、身長や性別の変更など以ての外だ。
だが、あのトリオン兵は本当に現実の蜘蛛程度のサイズしかなかった。
明らかに人型と乖離し、尚且つサイズも極小。
そんなトリオン体が実現出来るのか、という疑問が先にあった。
「そんな事が、可能なの?」
「残念ながら、出来ているから可能だ、と言うしかないの。もっとも、一切真似をする気は起きないがな。あんなもの、存在が許されて良い代物ではないわい」
心底侮蔑するように、鬼怒田はそう吐き捨てた。
無理もない。
彼もまた、近界という世界がどれだけこの世界にとって脅威である存在かは認識していた。
四年前の大規模侵攻の被害は忘れる筈もないし、直近ではアフトクラトルによる大規模侵攻も起きている。
故に近界というものについての警戒は最大限に行って来たが、流石にこれは突き抜け具合のベクトルが違い過ぎた。
人倫の一切を無視する、外道や畜生とか思えない所業。
その塊を前に、鬼怒田は義憤に駆られていたのだから。
「じゃあ、あの脳の持ち主はこの世界から攫われた人間なのかな」
「全員ではないがな。どうやら連中は、他の近界の国からも人間を攫っていたようだ。ふざけた事に、あのケースの下部に脳の所有者の出身世界が刻まれておる。あの表記を信じるならば、5つのうち3つは近界国家の人間の脳だ」
個人の名前まではなかったがな、と鬼怒田はため息を吐くように告げた。
脳を取り出し、それをトリオン兵に作り替えるという外道の所業を行い、その上で被害者の出身地を刻印する。
どう考えても悪意しか感じられない所業であり、真っ当な人間の思考ではないと鬼怒田は断じている。
まるで
この所業を行った人間は、まともな倫理観を持っていない。
人間をモノか何かのようにしか捉えておらず、その人権の一切を考慮していない。
彼等にとっては家畜も人間も、等しく消費出来る資源でしかないのだろう。
この有り様からは、そんなどうしようもない精神性が伝わって来た。
人情家である鬼怒田にとっては、到底看過出来る所業ではない。
こんな連中が
「想像以上の悪趣味なのは理解出来たよ。エネドラの話の信憑性も上がったね」
「良い事ではないがな。そんな連中が既に滅んでいるというのは、幸いと言うべきだが」
「いなくなった後も悪影響を残しまくるあたり、どうしようもなくタチが悪いと言えるけどね。流石に、こんな国を相手にした事はなかったな」
迅はそう言って、物憂げな表情を浮かべた。
旧ボーダー時代、様々な近界国家を渡り歩いた迅だが、流石に此処まで悪趣味で悪辣な国を相手にした事はなかった。
攫って来た者どころか自国の兵士ですら馬車馬のように酷使し、使い潰す国家はあった。
厳しい規律で抑制し、支配者の気分次第で民を処刑する国もあった。
しかしこれは、それらとは全く違うタイプの鬼畜と言える。
自国の利益の為に人員を使い潰すのではなく、支配者の独善によって生殺与奪を決めるのでもなく。
ただ、知識欲の充実の為にあらゆる人間を
その所業は、最早ヒトとは呼べない。
一切の情動を感じ得ない、虫のような生態だ。
近界の戦場で人倫に悖る光景など幾らでも見て来たが、それらと比較しても到底受け入れ難い連中である事に間違いは無いだろう。
「あ奴の身体はブラックボックスの塊じゃが、最早何が仕込まれていても驚きはせんわい。こんな真似をする連中が、真っ当な施術をするとは思えんからの」
「確かにね。あの「臨界」の引き金についても分からない事が多いし、こっちでも何とか情報は集めてみるよ。丁度良い
「…………例のガロプラの連中か。信用出来るのか?」
「取引には応じるみたいだ。どうやら、かなり誠実なリーダーみたいだね。こちらを罠に嵌めようとか、そういう意図は欠片もないみたいだ」
迅はそう言って、苦笑を浮かべた。
ガロプラの面々とは、後程内密に会う約束をしている。
最低限の情報交換は出来たとはいえ、向こうも向こうで今回の異変の絡繰りについて調査している事だろう。
向こうが最早敵対行動を取る気が無いのは視えているし、迅としてもこの取引は重要なものだと認識している。
それを聞いて鬼怒田はやれやれ、とかぶりを振った。
「それは良いが、本当に城戸司令には報告をしないつもりか?」
「報告をすると、どうしても
それに、と迅は続ける。
「此処で情報を止めておけば、いざ何か起こった時におれの独断専行って形で責任を集中させられる。報告を上げると、組織として動かないワケにはいかない。しかもそれで事態が悪化するとなれば、どうしようもなくなるからね。それよりは、今は黙っておいておれ一人の責任にしちゃっといた方が色々楽が出来る筈だよ」
「馬鹿者、その時はわしの名前を出せ。わしの判断で報告を止めた事にするわい」
「あ、いや、それは────────」
「────────責任を取るのは、大人の仕事じゃ。おぬしは黙って、やるべき事だけやっておけ。余計な気など回すな」
ふん、とそう言って鬼怒田は迅の反論を封じた。
流石に此処まで言われると、迅もこれ以上は野暮だと感じてしまう。
全ての責任を一人で被るつもりだったが、どうやらこの「大人」はそれをさせてはくれないらしい。
つくづく損な性分の人だな、と迅は心の中で一人ごちるのであった。
「そういう事なら、お言葉に甘えさせて貰おうかな。何かあった時は、おれと鬼怒田さんの連帯責任って事でよろしく」
「それでええんじゃ。子供に責任をおっ被せてのうのうとしている程、恥知らずではないつもりじゃわい」
それに、と鬼怒田は続ける。
「おぬしに頼り切りな事は、充分分かっとるつもりじゃ。そんな
「…………あはは、参ったな。そう言われると、何も言えないや」
やれやれ、と迅は鬼怒田の人情を感じて苦笑した。
迅は未来視という特別な力を持つが為に、一人で抱えきれない程の葛藤を抱いて来た。
それは最早どうしようもないもので、誰に理解されずとも良いとすら思っていた。
しかし鬼怒田はそんな迅の心境を慮り、不器用ながら労ってくれてもいる。
これで何も感じない程、迅は人非人ではないつもりだ。
「佐鳥には、どう告げるつもりだ?」
「折を見て、こちらから伝えるよ。内容は、その時の状況次第かな」
迅はそう言って、彼方を見据える。
「すぐに伝えても、あまり良い未来にはならなそうだからね。今は、休息の時間も重要だろうし」
「じゃあまたね、樹里」
「うん。また明日」
樹里はそう言って、自身のマンションの前で此処まで同道した香取達を見送った。
彼女の住むマンションは警戒区域の境界線上に位置する為、他の面々と比べるとボーダーの本部に最も近い場所にある。
ボーダーの基地は警戒区域の中央に鎮座している為、立地からしてそうなるのである。
あんな事があったばかりで樹里を一人で帰らせるつもりはなかった香取は、部隊総出で此処まで送って来たのだ。
一度街に出た後だと警戒区域に向かって引き返す事になる為、今回寄り道は一切せずに此処に直行した形だ。
「────────賢。待っててくれたんだ」
「まあ、色々心配だったのは確かだしね。迷惑だった?」
「ううん、嬉しい。早く中に行こ」
そして。
笑みを浮かべて、樹里はマンションの前で待っていた佐鳥に駆け寄った。
今回は待ち合わせをしていたワケではないが、自然と彼がいてくれるのではないかと期待していたのは確かだ。
てくてくと雛鳥のように佐鳥に近付いた樹里は、そのまま腕を組む。
ダイレクトに柔らかな感触を押し付けられてドキマギしている佐鳥を他所に、樹里はそのまま彼を引っ張ってマンションの階段を上がって行った。
「まず、ごめんね。駆け付けたのに、護り切れなくて」
「ううん、あれは流石に誰にも予想出来なかったと思う。賢は、きちんとわたしを護ってくれてたよ」
部屋に着くなり佐鳥は謝罪し、樹里はそれを笑って受け流した。
あの時、樹里が狙われた段になって居てもたってもいられなくなった佐鳥は、東に許可を貰って単身彼女の助けに向かったのだ。
元より佐鳥には、樹里に関連する事柄での独自裁量権が与えられている。
多少の無茶は、ある程度押し通す事が可能なのだ。
勿論ボーダー側の意向と真っ向から対立する場合はその限りではないものの、佐鳥の立場を認識していた東が許可を出さない筈もない。
狙撃手は充分な数が確保出来ていたし、佐鳥一人抜けても問題はなかった。
既に樹里と二宮という二大トリオン強者による弾幕による圧殺が開始されていたし、佐鳥は狙撃手である為いざとなれば遠くからでもイーグレットで援護が出来る。
そういった諸々の事情を考慮して佐鳥は送り出され、ツイン
問題はその後、敵の最後の足掻きとも言うべき代物が現れて、樹里を襲った事だ。
あの時は佐鳥はイーグレット二丁を撃った直後であり、
その数瞬の間に大切な少女が被害を受けた事を思うと居たたまれなくなっていた佐鳥であったが、樹里はそれを気にしないで、と言った。
流石にあの事態を予測する事はまず不可能に等しく、あんな隠し玉が出て来るなど誰も予想し得なかっただろう。
その責任を佐鳥に押し付けるのは酷であるし、そもそも樹里に彼を弾劾する気など欠片もない。
駆けつけてくれた、その一点だけでも充分に満足していたのだから。
「検査でも異常はないって言われたし、平気だよ。ただ、ね」
「え? 樹里ちゃん…………?」
ぽふん、と樹里は唐突に佐鳥に依りかかった。
突然少女の柔らかな身体に密着されてしどろもどろになる佐鳥だが、すぐに気付く。
樹里の身体が、震えていた事に。
腕の中にある小さな身体が、怯えるように震えている。
そんな少女を受け止めない選択肢などなく、佐鳥は黙って樹里を抱き留めた。
至近距離で感じる柔らかな感触や甘い匂いへの葛藤よりも、まずは彼女を安心させる事こそが大事だと。
佐鳥は、男を見せる事にしたのだ。
その抱擁に安心したのか、樹里はぎゅっと佐鳥の服を握り締めて、訥々と語り出した。
「…………あのね、あの「糸」を撃ち込まれた時、なんだかとっても気持ち悪かったんだ。何か、入っちゃいけないものがわたしの中に入って来たような、そんな感じ。わたしがわたしじゃなくなるようで、怖かった。なんでか分かんないけど、怖かったの」
「樹里ちゃん…………」
佐鳥は少女の慟哭に、思わずその身体を強く抱き締めた。
樹里はされるがままに、佐鳥の抱擁を受け入れる。
少年の温もりを感じて幾分か落ち着いたのか、樹里は安堵の息を漏らす。
それは極寒の吹雪の中、温もりを見付けた人間のそれに似ていた。
「…………ねぇ、賢。今日は、わたしが眠るまで傍にいてくれる?」
「えっと…………」
「泊まって、までは言わないから。本当はそっちの方がいいけど、我慢する。わたしが眠ったら、帰ってくれていいから。だから、お願い。賢」
「………………………………………………………………分かった」
突然の申し出に眼を白黒させる佐鳥だったが、樹里の声色が縋るようなものであった為、様々な葛藤の末それを受け入れる事に決めた。
その後、佐鳥は寝間着に着替えて寝室で横になる樹里の手を、彼女が眠るまで握る事となった。
樹里は佐鳥の手を握ったまま、穏やかな顔で眠りに就いた。
信頼する相手が傍にいると実感出来た事で、ようやく安心したのだろう。
佐鳥はその様子に安堵し、色々後ろ髪を引かれつつも帰る事に決めた。
────────なお、そんな樹里の様子を見届けて安心した佐鳥がいざ帰ろうとしたところ、少女を起こさないよう手を離す事に四苦八苦した事を此処に追記しておく。
危うくそのまま朝を迎えるところだったと、佐鳥は冷や汗をかくのであった。