(参ったな。迅さんが見つからないや)
佐鳥はボーダーの廊下で、一人ため息を吐いていた。
その眼には多少隈の痕があり、寝不足気味なのが分かる。
とはいえ、佐鳥も広報部隊の一人。
頻繁にテレビに顔を出す関係上、如何にもな不健康な姿をそのままに出来る筈もない。
隈をカモフラージュする為に色々と努力した形跡が垣間見えるし、いざとなればメディアの前にはトリオン体で出るつもりだ。
トリオン体は生身の身体をベースに生成されるとはいえ、隈が出来ている等の細かい変化までは参照されない。
故に体調が悪かろうがトリオン体になれば力技で誤魔化す事が出来てしまい、佐鳥もたまにやっている。
なお、それで無理をし続けてバレると鬼怒田からお小言を貰う事になる為、多用はしていない。
鬼怒田も広報部隊という佐鳥の事情を分かっている為うるさくは言わないが、それでも良識ある大人として忠告はして来るのだ。
今回は隈といってもそこまで目立つものではなく、直近でメディア露出の仕事もなかった事から強引に誤魔化す事はしていないだけだ。
佐鳥も流石に鬼怒田が善意で忠告して来るのを無下にするつもりはなく、無茶を過ぎるのは控えている。
もっとも、今回は「樹里が眠るまで傍にいて、いざ帰ろうとしたら中々手を解けなくて帰宅が遅れて睡眠時間が確保出来なかった」という理由なので、色んな意味で大っぴらにする事は出来ない。
いっそそのままあの部屋で寝てしまえば楽だったのだろうが、流石にそれは佐鳥としても許容し難かった。
無防備に眠る樹里のいる部屋に一晩中いて何もしないと思う程、佐鳥は自分の理性を信頼してはいない。
樹里の側が何の呵責もなくボディタッチを繰り返したり際どい姿を見せつけて来る事もあって、常日頃から佐鳥の理性はガリガリ削れている。
無体な事はしないと断言はしたいのだが、それをするには樹里の異性としての魅力が凶悪に過ぎた。
時折密着して来る為乳房は表現し難い程柔らかい事を知っているし、垣間見える肌が透き通る程白い事も、その肌が触れれば病みつきになる程の弾力を返して来る事も不可抗力で理解している。
年頃の少女特有の甘い匂いも近くにいれば否応なく吸い込む事になるし、それがマンションの一室のような彼女の生活臭が漂う場所であれば猶更だ。
おまけに容姿も浮世離れした美少女と言って過言ですらないものであり、そんな相手が日頃から無防備な姿を見せつけて来て何も感じない程佐鳥は男を捨てていない。
あのまま妥協して部屋に居続ければ、何処で魔が差すか分かったものではないのである。
そういった事情もあり、佐鳥は樹里を起こさないよう細心の注意を払いながら部屋を離れざるを得なかった。
マンションを辞した時には午前二時を回っており、その間様々な誘惑に晒された事は言うまでも無いだろう。
泊まってないからセーフ、と誰に告げるでもなく自らに言い聞かせる佐鳥であった。
(電話をしても出ない、のはいつもの事だとして、こうまで会えないって事は
そんな佐鳥が迅を探しているのは、当然ながら樹里の
あの異形のトリオン兵に何かを撃ち込まれたのはスコープ越しに目撃していたし、香取がそんな樹里を連れて開発室に駆け込んだのも知っている。
何も連絡がない以上は検査で何か異常が見つかったという話ではないだろうとは思うのだが、それにしては昨夜の樹里の怯え方は普通ではなかった。
樹里は、感受性の高い少女だ。
自分の状態を理解していなくとも、本能的に何かを察していても不思議ではない。
そんな少女があそこまでの怯えを見せるという事は、必ず何かがある筈なのだ。
その
迅の未来視であれば、昨夜の出来事でこの先何が起きるかをある程度見通す事が出来ているだろう。
だからこそ真っ先に、迅を探して話を聞くことを優先していたのだ。
しかし、その迅とは会えず連絡も取れない。
事此処に至り、佐鳥は迅が「今は自分と会うつもりがない」事を察せざるを得なかった。
迅は未来視を駆使する事で、その気になれば特定人物との邂逅を意図的に避ける事が出来る。
無論口で言う程簡単な事ではないが、未来視を利用した立ち回りに慣れ切っている迅にとっては造作もない事だ。
佐鳥が此処まで探し回って会えないという事は、迅の側に会う意図がない事くらいは理解出来る。
迅は必要な時であれば呼ばれずとも現れるし、電話もワンコールで応答する。
しかし向こうに会う意思がない、正確には「今会うべきではない」と判断した時には、どうしたって遭遇出来ないのだ。
つまり今の迅には、「今佐鳥に会うべきではない」と考える事情がある、という事だ。
(やっぱり、樹里ちゃん関連で何かが視えたのは確定って思って良いよね。けど、それをおれに伝えないって事は────────────────今おれがそれを知れば、或いは迅さんと会えば不都合な未来が起こる、って事か)
佐鳥も、迅がただの意地悪でこんな真似をしていないだろう事は嫌でも分かる。
分かってしまうが故に、不安の種は増大していた。
迅は表向きの飄々とした態度とは裏腹に、あらゆる事柄に誠実で責任感の強い性格をしている。
それは彼が未来視という
迅は引き起こされる理不尽や不幸を防げなかった事を全て自分の所為であると思い込んでしまう傾向にあり、それは未来視という人の身に過ぎた力を持たされたが故のものだ。
下手に未来が視えてしまう分、起こる悲劇や事故を知っていながら阻止出来なかった事に対し、過大に過ぎる罪悪感を抱えてしまうのである。
自分は未来を視えているのに何も出来なかった、見捨ててしまった、という罪悪感を迅は常に抱いている。
客観的に見れば全くそんな事はないのだが、未来視という神の視点を持つが為に迅はそう考える事が出来ないのだろう。
そんな迅が今佐鳥に会おうとしないという事は、それは善意もしくはこちらに対する配慮であろう事が伺える。
そして、そういう時迅が何を
(多分、
────────伝えても今現在明確な対処が出来ない、どうしようもない悪い
それが視えてしまったのだと、佐鳥は察していた。
恐らく、その未来を佐鳥に伝えてもこちらの精神に負担になるだけで益はない、と判断したのだろう。
そういう対処をするという事は、今その内容を知っても佐鳥には有効な対処が出来ない可能性が非常に高い。
こちらが何かしらの対応が必要な事柄であれば、迅ならば事前に伝えて来るであろうからだ。
それがないという事は、今彼に視えている未来に対して今現在自分が出来る事は何も無いのだろう。
ただ識るだけで負担になる類の内容である事も、想像はつく。
(────────けど、それでもおれは知らなくちゃいけないんだ。迅さんにだけ重荷を背負わせてのうのうとしていられる程、腐っちゃいないつもりなんでね)
だがそれは、ハッキリ言ってしまえば余計なお世話というものだ。
樹里が普通ではない事情を背負っている事は身を以て理解しているし、ボーダーの中でも数少ない彼女の事情の殆ど知る人間としての責任感もある。
何より、大切な少女の一大事を何も知らなかった、で済ませる程佐鳥の男としての矜持は低くない。
たとえ今出来る事がないとしても、真実を知り心構えをする権利くらいはある筈だ。
(どうせあの人は、「全部自分の所為だった」で済ませようとしてるだろうけど、それで済ませて知らんぷりが出来る程おれは器用じゃないもんでしてね。貴方から聞かせて貰えないなら、他から聞き出すだけですよっと)
「────────成る程、それでわしの所に来たワケか」
「ええ、流石に迅さんも鬼怒田さんには何かを伝えてると思いまして。あちらに会う気が無い以上、他に聞ける心当たりはこちらしか思い至らなかったんです」
ふむ、と鬼怒田は突然の来訪者である佐鳥を見て目を細めた。
たった今、佐鳥からは迅とどうやっても会えず、向こうに会う気がないのであろうと考えた事を伝えている。
勿論、それが樹里に関連した事だろうというのも通達済みだ。
鬼怒田は強面で口も悪いが、その本質が人の良い人情家である事は佐鳥も知っている。
加えて、上層部の中でも特に樹里に対して親身になっている人物でもある。
樹里に関する事情をほぼ全て知っている数少ない相手でもあり、彼女への診察を開発室で受け持っている事もあって何かあった時真っ先に頼りに出来る所でもあるのだ。
その鬼怒田相手に迅が事情を話していないとは思えず、こうして開発室を訪れたワケだ。
元々樹里の診断結果を聞く為に来るつもりではあった場所であるし、丁度良いと思った事もある。
樹里から「異常はなかった」と聞かされてはいたが、それはあくまで事情の全てを知らない香取越しに通達された情報であろう事は推察出来た。
そもそも樹里本人に彼女の事情の全てを伝えるのは禁忌中の禁忌であり、たとえ何か異常があったとしてもそれを本人に伝えるのは絶対に避けなければならない事象だ。
真実を知る、という行動自体が樹里にとっては
故に仮に診察で異常が出ていたとしても、それを正直に伝えなかった可能性は容易に想像出来る。
香取は良くも悪くも情に厚く、直情的な性格をしている。
その彼女に事実をありのまま伝えれば、その態度から樹里にそれが伝わってしまうであろう事は容易に想像出来た。
幾ら精神性が成長したとはいえ、根っこの性格が変わるワケではない。
香取は隠し事には徹底的に向かない性格であり、それを考慮した上で伝える情報を吟味した可能性は高いだろう。
そう考えて、佐鳥は開発室にやって来たワケだ。
仕事柄隠し事にも長けていて口の堅さも信用されている自分であれば、ある程度は明かしてくれるだろうと考えて。
「ふん、迅の奴め。
「まったくですね。その厚意は理解しますが、こっちだって樹里ちゃんの一大事に何も知らなかった、で済ませる程男を捨ててはいないつもりなんで」
「そうじゃな。あ奴は気を回し過ぎて、肝心な事を分かっておらん。自罰的な性格も、此処まで来ると呆れてしまうわい」
やれやれ、と鬼怒田はかぶりを振った。
彼からしてみれば迅の性格からこうなるであろう事はある程度予想はしていたし、佐鳥の心境も理解出来る。
仮に昨夜迅が訪れていなければ、強引にでも捕まえて話を聞き出しに行っていただろうくらいには、彼もまた樹里を気にかけているのだ。
同じく迅に何度も振り回された経験のある鬼怒田にとっては佐鳥の件は他人事ではなく、その心情も容易く理解出来る。
「良かろう。わしが聞いた話くらいは、聞かせてやる」
「一応聞くけど、いいんですか?」
「構わん。迅とは昨夜会ったばかりだ。あ奴がこの場を妨害しないという事は、お主がこの情報を知っても悪い未来には繋がらない、という証左だろう。この時点で、単にお主を気遣って話さなかっただけ、というのは推察出来るわい」
ふん、と鼻を鳴らす鬼怒田の言葉に成る程、と佐鳥は頷く。
迅は直接会った人間の近い未来を視る事が出来、それは直近で会った人間のものであればかなり正確に見通す事が出来る。
鬼怒田が昨夜迅に会ったばかりというのであれば、その彼が佐鳥に情報を伝える未来も当然視ている筈だ。
その上で邪魔をしに来ないというだけでも、此処で佐鳥が事情を知る事で即座に悪影響があるというワケではないのは理解出来る。
要するにこの場に迅が妨害を仕掛けて来ない時点で、彼が佐鳥に情報を伝えないのはただの心理的な配慮、言い換えればお節介の類であると推察出来る。
そういう事ならば、遠慮するものは何も無い。
聞くべき事を聞くだけだと、佐鳥は鼻白んだ。
「迅が言うには、昨夜のあの出来事で近い未来、木岐坂に
「…………成る程、予想はしていましたが、やっぱりですか」
佐鳥は予想していた通りの内容に、息を呑んだ。
覚悟していたとはいえ、こうして明言されると矢張り心に来るものがある。
迅がそう断言した以上、その未来は避けようのないものだろう。
自分に伝えなかった事から、今明確な対処方がない事も理解出来る。
決意を固めていなければ、もう少し動揺を表に出していたかもしれない。
そう考えると迅が自分で会わずに鬼怒田に聞きに行くよう誘導してワンクッション置いた事は正解とも言えるのが、何とも言えない所でもあった。
「ああ、とは言っても今の所検査でも何も異常は見つかっておらん。これは本当の事じゃ」
「え、ホントですか?」
「嘘は言っておらん。なんじゃ、信じておらんのか?」
「あ、いえ、そういうワケじゃなくて、てっきり樹里ちゃん達には本当の事を伝えられないからそう言っただけだと思ってました」
但し、これは流石に予想外だった。
真実を伝える事が起爆トリガーになる樹里や隠し事に向かない香取相手に本当の事を伝えていないだけかと考えていたのだが、検査で何も見つからなかった事が事実というのは想定していなかった。
てっきり情報を隠蔽していたと思っていただけに、その動揺は大きかった。
「異常が出ていれば、すぐにでも対処をしておるわい。だからこそ、迅の予知があっても何も出来んのだ。あ奴にも、「余計な干渉は却って事態の悪化を招く」とも言われておるしな」
「…………成る程。表面上は異常がなくて、その上で迅さんの予知で悪い未来が起こる事が確定していると。確かにそれは、現状出来る事が何も無いですね」
しかし事情を知り、納得する。
確かに眼に見える異常があれば、鬼怒田はとっくに動いている筈だ。
にも関わらずそれをしないのは、表面上異常が見つからず、更に迅から余計な手出しをしないよう含まれていたからだ。
迅が「余計な手出しは厳禁」と言う以上、それはただの脅しではない。
現実にそれをすれば事態が悪化する事が確定している、託宣のようなものだ。
その宣告を受けている以上鬼怒田は動きようがなく、専門知識など何もない佐鳥に至っても同様だ。
確かにこれは、知っても心労を抱えるだけでどうしようもない情報ではある。
「けど、知れて良かったです。何も知らないままだと、いざという時の心構えも出来なかったですしね」
「そうじゃな。異変が起こる事が確定しているならば、その上で動くだけじゃ。迅は「悪い未来が起こる」とは言ったが、「解決出来ない」とは言っておらん。という事は、今は何も出来ずともやり様はある、という事じゃからな」
鬼怒田の言う通り、迅は「悪い未来が起こる」事は断言しつつも、それを「解決出来ない」とは言わなかった。
恐らく、その未来が起こる事は確定していても、その結果どうなるかまでは不透明なのだろう。
確定していない未来に関しては、迅は言及を避ける傾向にある。
それを思えば、起こる事自体は決まっていても、結果がどうなるかは決まっていないと推察出来る。
そこはまだ、迅からしても見通せない部分なのだろう。
大規模侵攻の時と同じく、無数に分岐する
樹里の抱える事情は、それだけ大きく難しいものなのだから。
「なら、おれのやる事は変わりませんね。いざという時に備えて、その時その場で出来る事をやっていく。今までと、何も変わりありません」
「そうじゃな。必要と思えばいつでも頼れ。場合によっては。迅でも誰でも引っ張って来てやる。子供だけに全てを任せる程、恥を捨ててはいないつもりじゃからの」
「その時はお願いします。樹里ちゃんの為にも、全力で頑張るつもりですから」
佐鳥はそう言って、硬く鬼怒田と握手を交わした。
悪い未来が起こる事は、理解出来た。
だが、指を咥えて見ているつもりなど欠片もない。
好いた少女の一大事というならば、猶更だ。
佐鳥は鬼怒田と共に垣間見えた凶兆を前に、改めて覚悟を固めるのであった。