「やあオッサム、奇遇だね」
「…………王子先輩」
にこりと笑いかける王子を見て、修は顔を引き攣らせた。
此処は、ボーダー本部の廊下。
修は用事を終え、帰宅の途に就くところであった。
そこで出くわしたのが、王子である。
今は休業中とはいえ師弟の関係である為、無碍にも出来ない。
しかし修にとっては折角の情報アドバンテージを漏らしてしまう危険性が頭に挙がっている為、なるべくなら今会いたくない相手でもあった。
「ふふ、あまり警戒し過ぎるのも良くないよ。目は口ほどに物を言うとは言うけれど、過剰に警戒して話そのものを切り上げようとするのは「何かある」という確信を相手に与えてしまいかねないからね。前にも、言わなかったかな?」
「…………!」
「やっぱり、こちらの分野はまだ粗削りみたいだね。交渉っていうのは、何も口で戦うだけじゃあない。時には内心を隠し切って自然体で相手をする事こそ重要、という場合もある。まだまだだね」
ふふ、と笑う王子はどうやら修に知られたくない情報がある事自体はもう見抜いているらしかった。
修は王子に交渉術も叩き込まれているが、あくまでもそれは付け焼刃の上それを教えた張本人である彼の方が一枚も二枚も上手だ。
基本的に修の交渉というものは入念な事前準備の上に情報格差で相手を丸め込む計画的犯行に等しいものであり、アドリブの話術はまだまだ粗削りの段階だ。
そういう面でも強い
王子は再びにこりと笑い、手を差し出した。
「そのあたりも含めて、久しぶりに講義してあげよう。時間、あるかな?」
「コーヒーで良かったかな?」
「あ、はい」
「隊室なら紅茶を淹れたのだけどね。此処で嗜むなら、コーヒーが最適だ。紅茶は下手に舌が肥えてしまうと、中々妥協が出来なくなるものでね」
王子はテーブルの向かいに座る修の前に紙コップに入ったコーヒーを置きながら、すっと着席する。
あくまでもその動作は自然体であり、緊張で固くなっている修とは正反対だ。
「そう固くならずとも良いよ。情報収集がしたいというのも嘘じゃあないけれど、久々の師弟としての語らいだ。少しくらい、リラックスしてくれてもいいんじゃないのかな?」
「…………親しい仲でも全てを明け透けにするべきではない、と教えて下さったのは王子先輩ですので」
「確かに言ったね。けど、相手に合わせて笑顔で取り繕う事も覚えるように、とも言ったよ。さっきも言ったけど、オッサムはそういう「武器としての笑顔」が足りていない。今回は、そのあたりについてもレクチャーしてあげよう」
王子はそう言うと、ふふ、と笑みを浮かべた。
その笑顔は何処までも親しみを感じるものであり、修の心が解されていくのが分かる。
それを見て、王子は微笑んだ。
「今見て分かる通り、笑顔には相手の萎縮を解いて自然体にする、というか落ち着かせる効果がある。相手に情報を渡したくない時は、なるべく常の笑顔を心掛けて、表情の微細な変化を悟られないようにする事が重要なんだ」
まず、と王子は続ける。
「無表情だと、ちょっとした表情の変化からも相手に真意が読み取られ易い。反面、笑顔を浮かべてさえいれば多少表情が変わったところで内心を読み取られる危険性は低くなる。そういう意味でも、笑顔は充分仮面としての価値があるんだ」
「仮面としての価値、ですか」
「心理学用語で、
外向けの顔、という言葉がある。
それは俗に猫を被っていると表現されがちだが、社会において取り繕う、というのは重要なファクターとなる。
たとえば仕事上の取引のある相手なら嫌いな人間相手でも笑顔で応対する必要があるし、お客として来た相手を仏頂面で迎えるのはよろしくない。
そういった表面上の建前というものは、社会で生きていく上で不可欠となるものだ。
修は自身の評価に無頓着な事もあってそういったものが足りておらず、お世辞にも人受けが良い人間ではない。
ただ、根が善性で誠実である為に致命的に嫌われる事がない、というだけだ。
このあたりは修の性格的に仕方のない所もあり、やむを得ない部分でもあった。
「基本的に、人間っていうのは無表情で相手をされるよりは笑顔で相手をされた方が好感を得易いものなんだ。外面、っていうのはそういう意味でも重要でね。時として腹の中がどれだけ煮えくり返っていようとも、笑顔での応対を求められるケースはある。これは、覚えておいて損はないよ」
「分かりました。ご教授、ありがとうございます」
「ふふ、これくらい師匠としては当然さ。今休業中ではあるけれど、君の師である事を捨てたつもりはないからね。先達として、導くくらいはするとも」
実直に感謝を述べる修に対し、王子はにこやかに笑う。
こういった素直さも王子が修を気に入った理由の一つであり、真っ直ぐに慕われるのは嫌いではないのだ。
蔵内や樫尾も修のこういった側面は知っている為、王子隊内での修の評価は良好の一言だ。
元々蔵内は面倒見が良く誠実な修の態度には好感を持っているし、樫尾は生真面目同士気が合う部分もあって終始好感触だった。
そんなこんなで修の面倒を見るのが王子達は嫌いではなく、むしろ久々に指導が出来た事で充足しているように見える。
少なくとも蔵内が一時は「もしかして隊に入れるつもりなのか」と思った程度には、王子は修に好感を抱いている。
結果としてそうはならなかったが、それくらい王子の修に対する態度は溺愛に近かったと言える。
「しかし、まさか本当にこの短期間で此処まで順位を上げるとはね。今となっては、ぼくの部隊よりも上だ。本当に、君の成長には驚かされるよ」
「空閑や千佳が頑張ってくれましたから。ぼくは、やれる事をやっただけです」
「謙遜はよくないな、オッサム。確かにクーガーやアマトリチャーナは強力な駒だけれど、ただ強い駒を擁しているだけで勝てる程ランク戦は甘い世界じゃあない。彼等を指揮し、順位を上げて来たのは間違いなく君の力だよ」
王子はそう言って、真摯に修を労った。
これはお世辞抜きの正直な感想であり、王子も修の躍進劇が此処まで劇的なものになるとは予想を超えていたのだ。
確かに遊真も千佳も、強力な駒ではある。
しかし隊内にポイントゲッターが一人しかいないという欠点を抱えているし、千佳には人を直接撃てないという縛りまであった。
故に今期は上位に食い込むが遠征行きの切符を手にする所まではいかないだろうと考えていたのだが、今の彼等は充分その目標が射程範囲に収まる所までやって来ている。
これを躍進と言わず、なんと言うのだろう。
弟子の想定以上の躍進劇に、王子は単純に感嘆し喜びを覚えていた。
今となっては順位の上では彼等の後塵を拝する事になったが、それはあくまでも自分達の力不足が原因だ。
そこで修を妬むような精神性は王子にはなく、むしろ弟子の活躍を喜んでさえいた。
このあたり、中々に弟子馬鹿ぶりが板について来たと言える。
「だけど、ぼくたちにもB級上位の部隊としての意地がある。そう簡単に、勝ちを譲るワケにはいかないよ」
「勿論です。全力で、挑ませて貰います」
「順位の上では、挑むのはぼく等の方と言えるけれどね。でも、その啖呵は良いね。師匠として、受けて立ってあげよう」
しかし、それはそれとして闘志が萎えたワケではない。
今期は中位落ちまで経験した王子だが、B級上位メンバーとして、そして何より師としての意地もある。
修が想定以上の結果を残しているのは確かだが、だからといって易々と勝ちを譲る気などない。
やるからには、全力で叩き潰す。
そういった気概を込めて、互いに啖呵を切ってみせた。
このあたり、勝負ごととなれば容赦のない部分は似た者同士と言えた。
王子はふふ、と笑って席を立ち、背を向けた。
「それじゃあ、当日は良い試合をしようじゃないか。勿論、勝つのはぼくたちだけどね」
「はい、よろしくお願いします」
「ああ、またね。楽しみにしているよ、オッサム」
「やあイズイズ、奇遇だね」
「王子先輩、何か御用ですか?」
「ふふ、オッサムもそうだけどそう警戒しないで貰いたいな。ただ、ちょっと話をしに来ただけじゃあないか」
その後、王子は廊下を歩いていた出水を捕まえてにこやかに話しかけていた。
王子の奇人ぶりと油断ならなさを知っている出水は全力で警戒しているが、とうの本人は何処吹く風だ。
このあたり、誰が相手でも尻込みしない所は師弟共通と言える。
「師匠として、弟子の成長ぶりが気になってね。君から見て、オッサムはどうだい?」
「次の対戦相手の王子先輩に詳細を教えるワケないでしょーが。師弟関係と言っても、今は解消されてんでしょう?」
「あくまでも休業中だよ、イズイズ。今期が終わったら、改めて師として復帰するつもりさ。オッサムは、とても面白いからね。繋がりを断つつもりは微塵もないさ」
そう告げる王子の言葉には、確かな熱量があった。
どうやらこれは本気で修を気に入っているようだと、出水は判断する。
「結構気にしてんですね、三雲くんの事。そんなに気に入りました?」
「勿論さ。自身は弱いながらも工夫で格上を食ってやろうっていう気概はぼく好みだし、何より悉くぼくの想像を超えてくれる立ち回りはとても魅力的だ。うちの隊も、ランク戦の為とはいえ彼が隊室に来なくなって寂しく思っている程さ。公平性の担保の為に今は師弟関係は休業しているけれど、だからといって彼の師である事を止めたつもりはないしね」
これもまた、王子の本心である。
彼は面白さを最重要視するという独特の感性があり、修はそんな彼にとってドンピシャの存在だったのだ。
ただの対戦相手としてではなく、一度は師弟関係を結んだ事でその執着は強まっているとも言える。
修は組織の規律よりも自己の目的を最優先する厄介な気質の持ち主であるし、トラブルに好かれる体質でもある。
しかしそれは、王子が関りを絶つ理由にはならない。
彼は好感を抱いた人物の為なら粉骨砕身するのに躊躇いはないし、何より人間として修を好いている以上何かあれば助力に手は抜かないつもりだった。
ランク戦では全力でぶつかるが、それはそれとして何か助けを求められれば迷いはしない。
そのくらい、彼の修に対する好感度は高かった。
尚、その上でランク戦で全力で叩き潰す事にも微塵も躊躇いは無い。
これは師弟共通の価値観であり、元々譲られた勝利で満足する弟子など願い下げである。
修はそうではない事くらい王子は承知しているし、修の側も師が相手だからとやり難さを感じる手合いではないだろう。
「────────ただ、分かった事もある。オッサムは何か、
「…………へぇ、そう思う根拠はなんすか?」
────────加えて、王子は情報の推察にも余念がなかった。
先程の修とのやり取りの間に、必要な情報は入手し終えていたのである。
「さっき、オッサムと会った時にあからさまに何か隠し事がある風だったからね。このタイミングでオッサムが隠したい事と言えば、次の試合に関する事以外にはない。ROUND5の日の夜にあった事だったら、ぼくがそれを探る素振りを見せなかった以上は違うだろうしね」
王子は修が何かを隠そうとしている事を推察し、その内容が次の試合に関わるものだと見当を付けていた。
ROUND5の日の夜の出来事、即ちガロプラ侵攻については王子は徹底して口には出さなかった為、その事ではないという見当はついている。
詳細を知らないが故に気にはなっている事柄ではあるが、今優先すべき事項ではないと追及を見送ったのだ。
その事で修の隠し事があの日の夜の事象関連ではないと推察し、消去法で次の試合に関する事だと当たりを付けたワケだ。
「それでいて、隠そうとしている事は何か。アマトリチャーナが人を直接撃てない疑惑については、バレている事は承知の上だろう。今更隠すとは思えない。だからきっとオッサムは、ぼくが想定すらしていない何らかの
「…………さーて、ね。おれから言える事は何もないっすね」
「充分だよ。
じゃあね、と言って王子は出水に背を向けて立ち去った。
その後姿を見ながら、出水はため息を吐く。
「やれやれ、油断ならないトコは師弟そっくりだな。どっちがどっちに似たってよりは、元から同じ気質なのかね」
身内相手でも容赦しない気質や、誰が相手でも有用な情報を集めようとする貪欲さ。
それに既視感を覚えた出水は、似た者同士の師弟の事を思い再度ため息を吐くのであった。