「少し、歩こっか」
「ん」
佐鳥は樹里の短い肯定の返事を確認すると、歩を進める。
今、彼等がいるのは警戒区域。
一般人では立ち入る事の出来ない危険区域だが、ボーダー隊員にとっては慣れ親しんだ仕事場でもある。
現在誘導装置により、三門市に開かれる
つまりこの場所は「いつ近界民が現れてもおかしくない場所」であり、ボーダー本部はその場所のど真ん中に建っている。
よって本部基地は危険区域の中央に位置していると言えるが、本部内には大量の正隊員に加え、忍田等特級の戦力が詰めている。
加えて危険な兆候があれば迅の未来視によって察知し、通達される為危険区域の中といえど本部内であれば安全と言い切っても構わない体制を作り上げていた。
しかしそれはあくまでも本部基地内の話であり、警戒区域の中というものは突然近界民に襲われる可能性はゼロではない。
とはいえ大抵のトリオン兵相手であれば正隊員なら後れを取る事はまず有り得ないので、そういう意味では左程危険は無いとも言える。
ボーダー隊員は常にトリガーを携帯している場合が多いので、警戒区域内であろうとトリガーを所持していれば立ち入り自体は可能だ。
とはいえ、用もないのに警戒区域に立ち入るのはあまり推奨される行為でないのは確かだ。
制限がないのも単に迅の予知によって近界民の襲来に備えるケースもあったり、その迅当人が予知をする為に警戒区域をブラついたりする為だ。
まあ、腕に覚えのある古参の者達等は平然と立ち入って個人的なお喋りをしたりしているので、最早公然の秘密となってはいる。
しかし、広報部隊の一員でありTPOを弁えている佐鳥が敢えて任務外で警戒区域に立ち入るのは珍しいと言えば珍しい。
皆無ではないのだが、そうする時は何かしら理由があるケースが多い。
実の所、今回も理由なき立ち入りではない。
勿論、それを樹里に教える事はしない。
出来ない、その理由がある。
ちなみに樹里は元々警戒区域の境界線上のマンションを住まいとするだけあって、警戒区域への立ち入りに関しては無頓着だ。
襲われても撃退すれば良いという意識が強く、少し歩きたい時等はふらりと警戒区域を練り歩く事もある。
一人で街へ行くとその特徴的で儚げな美貌から声をかけて来る者が後を絶たないので、そういった心配のない警戒区域を散歩の場として選ぶ事が多いのだ。
とはいえ、ボーダーから帰る時等は基本的に佐鳥や香取が随伴している場合が多く、警戒区域に来る事は滅多にない。
佐鳥と一緒にいればそういった雑音は聴こえて来なくなるし、香取の場合はかけて来る声自体は倍増するが彼女はそういった連中に対する対処は慣れているので、左程苦労はしない。
虫避けとして若村や三浦を連れて来る場合もあるので、香取隊の面々と出かける時は女目当ての軽薄な声に悩まされる事はないのだ。
樹里が香取隊に入隊する以前は香取との接触そのものを避けていたので、多忙な佐鳥の都合がつかない時等は一人で歩く事も時折あった。
そういう意味で、樹里は突然佐鳥に警戒区域へ連れ出された事に対する疑問はない。
ただ彼の言葉に従い、その隣を歩いている。
「えっと、最終ラウンド見てたよ。B級一位、おめでとう」
「ん、ありがと。見ててくれたんだ」
「まあね。何とか時間が作れたから」
そっか、と樹里は何処か嬉しそうに眼を細めた。
彼が多忙である事は、知っている。
広報部隊の一員である佐鳥は嵐山程目立ってはいないものの、通常のボーダー隊員と比べれば三門市民への知名度は大きい。
佐鳥自身もバラエティ番組やラジオに出演する事はあるし、裏方の仕事も多い。
それを文句ひとつ言わずにこなし、更には樹里の為にわざわざ時間を作ってくれてまでいるのだから感謝しない筈もない。
「ごめんね。大変だったでしょ?」
「大丈夫。皆が頑張ってくれてある程度喫緊の仕事は片付いたし、余裕はあるよ。なんなら、ここ数日は空けてあるから一緒に帰れるよ」
「ホント? 嬉しい」
にこり、と笑って樹里は佐鳥の腕に抱き着いた。
彼の「大丈夫」が本当かどうかは分からないが、佐鳥は意味の無い嘘はつかない。
つまり佐鳥が「一緒に帰れる」と言う事は、今日から数日の間は問題なく彼と一緒に帰路に就く事が出来る、という事だ。
それが嬉しくて、つい樹里は思い切り甘えてしまう。
ぎゅうぅ、と自分の右腕を樹里に抱えられ、柔らかな感触が全力で押し付けられて佐鳥は赤面する。
突発的なボディタッチは良くある事だが、それでも慣れる事はない。
可愛いな、という思考を繰り返してしまう程度には、佐鳥の心は樹里に焼かれていた。
「あ、でも葉子がうるさそう。大丈夫かな?」
「大丈夫。少なくともここ数日は、
「そっか。賢がそう言うなら、そうなんだね」
妙に「一緒に」という言葉を強調する佐鳥だが、樹里がそれを疑問に思う事はない。
彼女にとって佐鳥が是とすれば、たとえそれが黒だろうと白に替わる。
樹里の盲信ぶりはそれ程に激しく、香取との関係を正常化させた今となってもその片鱗が残っている。
大切な者の立ち位置を自分よりも上位に置くのは樹里の癖であるが、その最上位に香取や華と並んで佐鳥の名が連なっているのは言うまでもない。
この三人がいなければ生きていけない、と樹里は本気で思っている。
特に香取や華のように「幼馴染」という関係の担保がなく異性である佐鳥相手には、度を超えた執着心を見せる事もある。
こうして臆面の無いボディタッチを繰り返すのも、偏に佐鳥を自分の傍に置いておきたいという想いが来るマーキングのようなものだ。
悪い言い方をすれば何を捧げても大切な男を繋ぎ留めたいという女性心理の発露だが、佐鳥が樹里のこういった行動をあまり快く思っていない事も知っている。
生理現象として反応したり照れたりはするが、それはそれとして不健全な関係性だと分かっているからだ。
それを理解しているからこそ、樹里は強引に既成事実を作ろうとはしていない。
加えて、ここ最近では最初は躓いていた香取との関係性も元に戻り、日々の生活に充実を覚えている。
ランク戦で香取達と共に戦い、B級の頂点に立ったという経験も彼女の自己肯定感を高めている一因である。
以前は記憶が不確かな自分を信頼出来ず、
根本は変わっていないが、成長はしている。
それは、樹里自身も自覚するところだった。
「ねぇ、賢。わたし、色んな事を経験したよ。葉子と一緒に戦って、チーム戦を頑張って、B級一位になれちゃった」
「うん」
「それでね、やっぱりわたしの記憶は事実なんだって、偽物じゃないんだって思えるようになったの。葉子と一緒に戦うのが、一緒にいるのが、凄く自然だ、って思えたから」
「うん」
街灯はなく、月明かりの照らされる警戒区域の中を歩きながら樹里は話し続ける。
佐鳥はそんな彼女の話を、頷きながら聞いていた。
「だからね、えっと、わたしが葉子と仲直り出来るようにしてくれて、ありがとう。まだその事、ちゃんとお礼言えてなかったと思うから」
「いや、オレは大した事はしてないよ。あくまでも、動いたのは樹里ちゃんだ。だから、お礼を言われる程の事じゃあないよ」
「それでも、いいの。賢が、わたしの為に動いてくれてた事は、知ってるから。今も、昔も、ずっと」
そう言って、樹里は佐鳥の腕をぎゅっ、と握り締める。
そして正面に回り、真っ直ぐに視線を合わせて来る。
「賢が最近、わたしの為に何かを隠して、悩んでたのは分かってる。それがなんなのかは分からないけど、賢が何かを秘密にする時は、きっとわたしの為なんだろうな、ってのは分かってるから」
「樹里ちゃん…………」
「答えて、とは言わないよ。でも、わたしはそれを理解してるから。だから、変な罪悪感なんて持つ必要無いよ。賢は、賢の思う通りにしてくれればそれでいい。わたしは、それで満足だから」
樹里は真摯な眼で佐鳥を見詰め、そう言い切った。
その言葉に、佐鳥の瞳が揺れる。
隠していた事を暴かれた、だからではない。
それを知って尚、自分に全幅の信頼を向けて来る樹里が眩しくて、どうしようもなく愛おしかったからだ。
心臓が、高鳴る。
月明りの中、暗い路地に立つ彼女の姿はいつもより儚げで、美しく見える。
「樹里、ちゃん」
魔が、差した。
本来、此処で言うべき事ではない。
けれど、衝動を抑えられなかった。
今が大事な時であるのは、理解している。
だけど、今声に出さなければと、半ば強迫観念のように自らの想いが溢れ出て。
「オレは────────」
────────
「あ、ぐぅ…………っ!?」
「樹里ちゃん…………っ!?」
────────樹里の頭の中に響いた無機質な音声と共に、
途端、樹里は頭を押さえて蹲り、苦し気な声をあげている。
頭部を押さえるその手は容赦のない力で自らの頭皮に爪を立て、血が滲んでいる。
その姿を見た佐鳥は、
────────逃げて、樹里! あなただけでも…………っ!────────
────────危ない、樹里っ!────────
────────お父さん、お母さん…………っ!!?? いやあぁぁぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁ…………っ!!────────
浸食は、止められない。
樹里の脳裏に、かつての記憶が蘇る。
それは、ボーダーの記憶処理によって封じられたものの一部。
その忌まわしい記憶が、無慈悲な機構により順次想起されていく。
────────ここ、どこ…………っ!? かえして、わたしを、おうちにかえしてよぉ…………っ!────────
────────いたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ…………っ!────────
────────やだ、もういたいのやだ…………っ! とまって、わたしのからだ、とまって、なんで、なんで勝手に動くの、なんでぇ…………っ!?────────
────────やめ、て────────
「あ、あ、あぁ、あ、あぁぁぁぁぁぁ亜アァァァァァァァァァァァァァァァァァ亜アァァァァァァァアァァァァァァァぁぁああぁアァァァァァァァぁあああぁぁぁぁぁぁあっぁぁぁぁぁぁぁあぁぁああああぁあぁあああアァァァァァァァァァァァァァァァァァ亜…………っ!!」
「樹里、ちゃん…………っ!!!」
悲鳴をあげ、樹里はのたうち回る。
自らの身体を搔き毟り、服の上から爪を突き立てる。
滲んだ血が衣服を赤く染めていき、しかし尚も彼女の力が緩む気配はない。
まるで、自分の身体の中から何かを引きずり出そうとするかのような、そんな狂気さえ感じられた。
────────記憶処理の解除が完了しました。続いて、
「ガ、アァ…………ッ!!」
────────そして、変貌が始まった。
樹里の身体が、本人の意識に依らずトリオン体へ変わる。
しかしそれは、いつもの隊服ではない。
白い。
ただ、ひたすらに白いボディースーツ。
そうとしか言いようのない、見た目だけであれば身体のラインがくっきりと浮かび上がった煽情的とも呼べる姿。
知らない、否。
遂に、始まってしまった。
それを、否応なく理解させられたのだから。
『アゥア、イィ、アァアアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ…………ッ!!』
最早ヒトの言葉すらも亡失したかのような
周囲の家屋に突き立ったその糸は驚異的な力で壁を、床を屋根を引き剝がし、少女の下に引き寄せていく。
その光景は、あの夜の焼き直しだ。
周囲の瓦礫を収束させ、姿を変えたロドクルーンのトリオン兵。
それと同じように、瓦礫を集めた樹里の姿が徐々に異形に変わっていく。
(分かっていた事だ、こうなるのは…………っ! その為に準備をした。その為に協力を願った…………っ! だけど、出来る事ならこんな樹里ちゃんはもう二度と目にしたくはなかった…………っ!)
佐鳥の脳裏に、かつての記憶が蘇る。
其れは、目の前の少女と初めて出会った時の記憶。
甘く苦い、自らの
(だから、絶対に助ける…………っ! 今度こそ、必ず…………っ! 君を、救ってみせる…………っ!)
少年の記憶が、決意と共に脳裏を駆け巡る。
あれは、一年前。
佐鳥が少女と出会った、その日まで遡る。
────────To Be Continued…………
告知。
次話より『第零章~白の記憶/Memory of Boy Meets White Girl』が開始され、その後『最終章~ニューワールドオーダー/Dawn of the White Girl』へと続きます。
本作、「香取隊の狙撃手」もクライマックス。どうぞお楽しみに。