(…………まさか、こんな事になるなんてなぁ)
佐鳥は一人、天井を見ながらため息を吐いた。
此処は昼間に訪れた、樹里のマンション。
彼はその一室、内装からして恐らくは父親の寝室であったであろう場所で寛いでいた。
昼間の内に掃除はしたがカビっぽさは中々消えるものではなく、ツンとした匂いが残留しているのが鼻につく。
リビングや樹里の寝室は念入りに掃除したのだが。使うとは思っていなかったこの部屋は適当に埃を取るだけで終えてしまっていたのも原因だ。
だが、無理もないだろう。
あの時点ではまだ、この部屋を使う事になるとは思いもしなかったのだから。
(いやまあ、
思い返す。
あれは色々とあった樹里の検査が、終わった直後の話であった。
「え? 暫く樹里ちゃんと一緒に暮らせって、マジですか?」
「本当ならこんな提案はしたくはないんじゃがの。彼女の状況を鑑みて止む無く、といったところじゃ」
鬼怒田は大きなため息と共に、そう言って佐鳥の疑念を肯定した。
彼が言った、一見非常識な指示。
それは、「暫くの間樹里と一緒の部屋で過ごせ」というものだった。
「い、いやいや、流石に年頃の男女が同じトコで暮らせは色々問題ありますってっ!」
「それは儂も分かっとる。じゃが、今後何の拍子で木岐坂の記憶が刺激されるか不明なのじゃ。最悪、自傷行為に走る恐れがある。それを止める意味でも、監視は必要じゃ」
「なら、本部内で預かれば良い話じゃないですか? 家に帰さないってのはアレですけど、緊急避難的な意味で────────」
「…………それが出来んから言っとるのじゃ」
え、と疑問符を浮かべる佐鳥に対し、鬼怒田は大きなため息と共に離し始めた。
「本来であれば色々不安要素のある木岐坂をかつての自宅とはいえ外に放り出す事など、論外じゃ。まだ経過観察中という事もあるし、何かあった時の対処が遅れかねん」
じゃが、と鬼怒田は続ける。
「────────迅がな、木岐坂を本部に住まわせる事だけはしてはいかんと断言したのじゃ。流石に、あ奴の言葉は無視出来ん」
「迅さんですか…………」
思いも寄らぬ人物の名が挙がった事で、佐鳥は複雑な表情をした。
迅悠一。
ボーダーの正隊員で、彼の名を知らぬ者はいないだろう。
現在二名しかいないS級隊員の一人であり、黒トリガーの使い手。
そして。
彼は文字通り、未来が視える。
インチキでも何でもない、ガチの予知能力の保持者なのだ。
初めて聞いた時は半信半疑であったが、彼の未来視の力は本物だ。
今のボーダーの防衛体制が迅の予知能力のお陰で維持出来ているという話もあり、この組織にとって誰であろうと無視出来ない立場の人間である。
佐鳥個人とは嵐山を通じた接点があるくらいで親しいとは言えないが、それでも彼の名が出て来た以上無視するというワケにはいかなかった。
個人的には飄々とした軽薄な態度からあまり好印象を抱ける相手ではないのだが、その言葉の重みくらいは理解しているつもりだった。
「一体、樹里ちゃんを此処に置き続けると何が起きるって言うんです?」
「それは分からん。あ奴も全てを把握しておるワケではないようじゃったからの。じゃが、迅の奴があそこまで強く言うのは初めての事じゃ。流石に無下にするワケにはいかんからの。城戸司令も、迅の意見を尊重してこの決定を下しておる」
むぅ、と佐鳥は言葉を詰まらせる。
迅の事をイマイチ信用出来ない理由の一つが、これだ。
極度の秘密主義。
未来がどうこうという話は良く分からないが、彼は必要最低限の情報しか共有しようとしない。
本当に未来が分かっているのであれば何が起きるのかまで詳細に説明すればいいのに、こちらにどうこうしろ、という指示だけで碌に説明をしない事が殆どだ。
佐鳥にはそれがどうにも不義理な態度に思えて、イマイチ好感を抱けない理由の一つとなっていた。
「…………とにかく、それが必要って事は理解しました。一から十まで納得は、出来ないですけど」
「すまんが、今回に限って言えばお主に頼み込むしかないのが現状じゃ。全てを納得するのは無理じゃろうが、どうか引き受けてくれんじゃろうか?」
鬼怒田はそう言って、佐鳥に対して頭を下げた。
今回の件は城戸司令も承認しての命令でもある為、その背景を考えれば佐鳥に断る選択肢などそもそも用意されていない。
しかしあくまでも鬼怒田は筋を通す事が肝要であるとし、こうして目下の佐鳥に頭まで下げている。
流石に、これを無下にしては組織の一員として、何より人間として立つ瀬がないだろう。
「そうまで言われちゃ、仕方ないですね。分かりました。自分で良ければ、引き受けます」
「感謝する。根付室長には、既に話を通してある。暫くの間、お主に関しては広報部隊の仕事はメディアに直接出るものは除外される事になっておる。期間は未定じゃが、何とか木岐坂をお主に頼らずとも保護出来る環境を作ろうと思っておるからの。それまでの間、よろしく頼むぞ」
「了解しました」
佐鳥の返事を聞き、鬼怒田はうむ、と頷いた。
「お主の家族には長期任務であると伝えておく。では、頼んだぞ」
(って、引き受けたは良いけど冷静になってみると凄い状況だよなぁこれ。あんな可愛い女の子と一つ屋根の下にいるとか、漫画やラノベみたいな展開になるなんて)
佐鳥は寝室で一人、今に至るまでの経緯を思い出してため息を吐いていた。
鬼怒田の面子を立てる為、そして佐鳥自身樹里を放り出す選択肢などなかった為に引き受けたが、いざこうして共にマンションに宿泊する段になると色々と思考が巡ってしまい落ち着かない。
まず、年頃の女の子と一つ屋根の下で過ごす、というだけでも世の男が羨むようなフィクションじみた展開なのだ。
しかもその相手が一目惚れすら生温いレベルで見惚れてしまった埒外の美少女となれば、流石に佐鳥も冷静ではいられない。
何とか寝る場所はかつて彼女の父親が使っていたであろう寝室とする事で同衾は阻止出来たが、家族でもない美少女と一つ屋根の下である事実に変わりはない。
勿論無体を働くつもりはないが、色々と想像が捗ってしまう事は仕方のない事と言えた。
「賢」
「え? 樹里ちゃん…………?」
そんな折。
不意に扉が開き、そこから遠慮がちに樹里が顔を覗かせた。
既に夜は遅い。
もう寝るだけといった状態であり、当然お互い寝間着姿だ。
樹里はワンピースタイプのパジャマを着用しており、冬用のものなのである程度厚みはあるがそれでも洋服と違って身体のラインがモロに出てしまっている。
流石に出会った時のボディスーツ程ではないものの、入浴後な為かしっとりと濡れた長髪やチラリと見えるうなじが艶めかしい。
これもまたオペレーターから古着を頂いたものなのだが、樹里の容姿が良過ぎる為に何を着ても魅力を引き立たせてしまい思わず見惚れる結果となっている。
美少女、という属性はある種の暴力である、という一つの例と言えよう。
「なんか、眠れないの。もう少し、一緒にいていい?」
「あ、うん。わ、わかった」
いつの間にか樹里の姿を凝視してしまっている事に気付いた佐鳥は、慌てて是の返答をしてしまう。
何を受け入れてしまったのか一瞬後に自覚した時には、既に樹里は部屋の中に入り佐鳥の隣に腰かけていた。
ぽすん、という音と共に樹里はベッドに腰かけ、そのまま身を寄せて来る。
何の躊躇いもなく、樹里は佐鳥と密着するような体勢となった。
ふわりと、少女の甘い体臭がダイレクトに佐鳥の嗅覚を刺激する。
(うわ、何これすご…………っ!? え、女の子ってこんな良い匂いするの…………っ!?)
普段嗅いだ事のない独特の匂いに、佐鳥の思考が混乱する。
三枚目キャラで通している佐鳥は、女子と触れ合う機会はそう多くはない。
メディア露出もしているので容姿端麗な者等見慣れてはいるが、それでも浮世離れした樹里の美貌と儚げな空気は他にはない魅力として映っていた。
加えて言えば、容姿性格共に彼の好みど真ん中であるという事情もある。
そんな佐鳥の性癖にダイレクトで訴えかけて来る少女が何の躊躇いもなくこうして寄り添って来ている事実に、頭がクラクラしそうになる。
あわわ、と普段であれば何かしらの返答を返しているところを何も出来ずに慌てているあたり、その動揺はかなりのものと言えるだろう。
「…………あの、ね」
「う、うん」
「まだ、記憶は戻ってないんだけど……………………えっと、その、この家はなんだか、落ち着くの。わたしの家なんだって自覚はまだ出来てないかもしれないけれど、それでも此処が帰るべき場所だったんだな、ってのはなんとなく分かるの」
樹里はそう言って、佐鳥に寄りかかって来た。
少女の柔らかな身体を受け止めた佐鳥は、しかし内心の動揺を抑え込んで樹里の言葉に耳を傾ける。
彼女は、何かを打ち明けようとしている。
或いは、相談を持ち掛けて来ている。
ならば、自分の内情などどうでも良い。
樹里の悩みに対し真摯に応対する事が今の自分の責務であると、佐鳥は頭を切り替えた。
「…………でも、ね。まだ、何か足りない気がするの。行きたい、ううん……………………
「樹里ちゃん、記憶が…………?」
佐鳥の問いに、樹里はふるふると首を振った。
そして、言葉を選ぶように続ける。
「まだ、何かを思い出したワケじゃないんだ。でも、分かるんだ。わたしには、大切な子が二人いたって……………………頭の中で、響いたんだ。その二人の、声が…………だから、その…………」
「…………分かった。じゃあ、鬼怒田さんにも相談してその子達を探してみよう。今日はもう遅いから明日からになるけど、いいかな?」
「…………! うんっ! ありがとう、賢っ!」
「わわっ!?」
感極まったのか、樹里はひし、といきなり佐鳥を抱き締めた。
堪らないのは、佐鳥である。
正面から樹里の柔らかな膨らみを押し付けられて、取り繕っていた外面は粉々に粉砕されてしまう。
むにゅむにゅと柔らかい感触が自身の胸板に薄いパジャマ越しに襲い掛かり、その多幸感に頭がどうにかなってしまいそうになる。
絶対に無体は働かない、という強い鋼の意思がなければ、我慢する事など出来なかったであろう。
それだけ、樹里の無自覚のアプローチは破壊的だった。
「じゅ、樹里ちゃん、その、もうちょっと離れ────────」
「賢…………?」
「…………そのままで結構です。はい」
何とか少女と引き離そうとした佐鳥だが、樹里から上目遣いで何かを懇願するような視線を向けられ、あえなくノックダウンとなる。
元々樹里に対してゲロ甘な対応をし続けて来た佐鳥に、今更少女を突き放す事など出来る筈もないのだった。
(しかし、仲の良かった子に会いたい、か。家族がもういないって言うから知り合いもいないのかと思ったけど、そういう子達がいたんならまだ希望がある。何が何でも見付けて、会わせてあげないと)
だがその上で、佐鳥は樹里から聞かされた内容を吟味する。
樹里の話を要約すると、「昔仲の良かった女の子が二人いる筈だからその子達に会いたい」という事だ。
彼女が想起した記憶が正しいという前提の上であるならば、それは家族以外に相当に親しい友人がいた、という事になる。
言い方のニュアンスからして、幼馴染の類だろう。
樹里の幻聴や白昼夢の類であるという可能性はないでもないが、佐鳥はどうにもそれがただの勘違いではなく事実に基づいた推論であるように思えた。
(そもそも、天涯孤独っていうんなら
何故ならば、両親を失い天涯孤独の身である筈の彼女のDNA情報がボーダーに提供されているからだ。
ボーダーにDNA情報を渡すという事は、即ちその相手を探して欲しい、という意思表示でもある。
基本的にボーダーに市民に対する強制力等はなく、政府機関でもないのでそういった個人情報の取り扱いは相手の同意がなければならない。
つまりボーダーにDNA情報が提出されている時点で、「樹里を探し出して欲しい」と願った人間がいる筈なのだ。
そして樹里が天涯孤独の身の上となっている以上、その相手は相当に親しかった間柄である可能性が非常に高い。
そうでなければDNA情報の提出、即ち本人の体毛や体液等の付着した物品の用意など出来る筈もないからだ。
だから樹里の話す「会いたい二人」というのは、幼馴染かそれに類する相手であると推測出来る。
昔仲の良かった、捜索願を出すレベルの相手であれば、きっと樹里も会いたいと願っているし向こうもそれは同じだろう。
既に大規模侵攻から三年が経過しているので死んだものと思われているかもしれないが、それでも何もしないという選択肢は有り得ない。
佐鳥は明日にでも鬼怒田に頼んで、そのあたりの情報集めを行うつもりだ。
ただ漫然と時を過ごすよりも、余程有意義な時間の使い方と言えるだろう。
(…………取り敢えず、何とか寝るまでにはお引き取り願わないとね。オレ、自分の理性に自信を持てませんから)
なので今一番の問題は、もう此処で寝るつもりじゃないのかという疑念さえ出て来た樹里をどう自分の寝室に帰すかであった。
結構無理難題な気がするが、このまま一緒の部屋で寝るのだけは不味いと感じているので微力を尽くすつもりだ。
流石に樹里程の美少女と同衾して理性が保つと断言出来る程、佐鳥は自分の事を高く見積もってはいない。
なお、結局樹里は眠るまでその場を離れず、止む無く佐鳥はリビングに向かいソファーで眠る羽目になったのだった。