「…………まさか、こうなるとは。読み逃がしたな」
迅は一人、警戒区域の中から一つのアパートを見上げ、呟いた。
その眼には後悔と、諦観が滲んでいた。
(あの子が
はぁ、と迅はため息を吐く。
彼自身、色々と苦慮をしながら動いていたのだ。
それが台無しにされたとなれば、溜め息くらい出てもおかしくはないだろう。
(香取ちゃんに樹里ちゃんの生存が知られると、あらゆる手段を使って彼女の下に辿り着く。それが例の事態の引き金になるのが、最も避けなければならないパターンだった。だから佐鳥には、香取ちゃん
迅の未来視では、佐鳥が香取に樹里生存を伝えた結果、どうなるかが文字通り眼に視えていた。
だからこそわざわざ佐鳥の前に姿を現し、それだけはしないよう忠告した。
少なくとも迅の未来視では、そうする事で喫緊のリスクは回避出来る筈だったのだ。
(でも、佐鳥が何も出来ずに燻るままだと忠告を無視して香取ちゃんに再度接触を図る恐れがあった。だから、情報を伝えても問題ない人間────────染井さんへの接触は、黙認した)
しかし、あのままではいずれ佐鳥が自棄になって香取との再接触を図る可能性があった。
期限も分からず、少女の願いを無視し続ける事を彼は耐えられない。
そういった善性の塊のような人間にとって、「何も成果を挙げられずに座して時を過ごす」というのは想像以上の苦痛を伴う。
だからこそ、情報を与えても問題ない人間である華との接触は看過したのだ。
(けれど、まさかその光景をあの子本人が見る事になっちゃうなんて。流石に、これは予想外だったよ)
されど、それが裏目に出た。
迅すらも予期していなかった、樹里の行動。
即ち、
樹里がベランダから本部の屋上に眼を向けたのは、全くの偶然だ。
思いつきによる行動、と言っても良い。
だが、それ故に迅の未来視では予知出来なかった。
突発的な、思いつきによる行動。
それは、未来視を扱う上で無視出来ない乱数と成り得る。
何せ、その行動を取ると決めたのが直前なのだ。
その時点で未来視の映像が視えたとしても、最早どうしようもない。
言うなれば、遠く離れた場所にいる人間が偶然顔を上げた際に流れ星を眼にする映像をその直前に見せられるようなものだ。
たとえ携帯等の連絡手段があっても通信が届く頃にはもう顔を上げた後であろうし、起こった行動を取り消す事は出来ない。
今回の失敗は、そういった偶発的因子に依るものと言っても過言ではなかった。
(あの子が
深く溜め息を吐きつつ、迅は歩を進める。
佐鳥を、責める事は出来ない。
彼は彼なりに最善を尽くした結果なのだろうし、そもそも佐鳥に対して樹里に関する情報を制限したのはこちらの都合だ。
最初から樹里の持つ危険性を伝えるという選択肢もあったが、それをやると今まで以上に彼女に付きっきりになったり過度に庇護的になったりして、その結果彼の生死に直結する問題となってしまう
それを避ける為に敢えて樹里の持つ悪い未来の情報については伝えていなかったのだが、今回はそれが裏目に出た形となる。
佐鳥が抱いた善意は正当なものであり、それを咎めるのは間違っている。
本当に彼の行動を止めたいのであれば、リスクを考慮してでも最初から全てを伝えるべきだったのだ。
(でも、後悔に意味はない。これからどうするかに、重点を置かなくちゃいけない)
しかし、選択の時は過ぎ去った。
ならば、今出来る次善をこそ重要視するべきだろう。
感傷に浸る事は、今更許されないのだから。
(君や彼女には、辛い結果を突き付ける事になるだろう。恨んでくれて構わない。これは、おれの失敗が引き起こした
────────わたしが目醒めて最初に見たのは、こちらを伺う男の子の姿だった。
その男の子は棺から起き上がったわたしを見ておずおずと声をかけて来て、どうやらこちらを案じているらしい事が見て取れた。
最中わたしの胸から慌てて眼を逸らしたり、何処に視線を向けて良いか分からず右往左往している様子は正直可愛い、と思った。
わたしには、記憶がなかった。
たった今起き上がるまで一体何処で何をしていて、自分が誰なのかすら認識出来ていなかった。
今思えば会話の方法すら忘れかけていた程で、思いついた言葉をそのまま口にして何とかそれらしい体裁を整えていた程だ。
…………彼が口にした「ネイバー」という言葉を聞いて、嫌な感覚を思い出した時はそれどころではなかったが。
わたしの様子がおかしい事に気付いた少年、佐鳥賢と名乗る彼が慌てて気を逸らしてくれなければ、どうなっていたか分からない。
気分が悪くなったわたしを案じてくれる彼の声が、彼の手が、温かかった事を覚えている。
俯くわたしを見て思わずといった感じで差し伸べられた彼の手は、とても温かかった。
覚えていないが、自分は今まで冷たいところにいたのだろう。
彼に連れられて行った先、ボーダー本部という建物の中で医務室という白い部屋に入った際に昔の何かが脳裏に蘇りそうになって、わたしはパニックに陥った程だったのだから。
でも、そんなわたしの手を彼が握ってくれたから、何とか落ち着く事が出来た。
ここは、冷たくない。
温かい手が、此処にあるんだって。
それを、実感出来たから。
そして、わたしは自分の名前を知る事が出来た。
木岐坂樹里。
どうやらそれがわたしの名前で、しっくり来るから多分本当なのだろう。
それから、わたしが住んでいたって建物にもやって来た。
埃が積もったその部屋を見て少し悲しくなったけれど、それでも懐かしさの方が強かった。
なんだか寂しくもなったけれど、彼が、賢が一緒にいてくれたから落ち込む事はなかった。
まだ、何も思い出せないけれど。
賢が一緒なら、きっとどうにかなる。
そう、思えた。
それから、暫くの間賢が同じ部屋で暮らしてくれる事になったのは、嬉しかった。
女の子であるわたしと同じ部屋で寝泊まりするのは抵抗があったようだけれど、必要な事だからと何とか納得してくれたらしい。
それをするように命じたっていう鬼怒田っていうおじさんには、感謝した方が良いかもしれない。
基本的に賢以外の事なんてどうでもいいけれど、それくらいはしてもバチは当たらないと思うから。
それからの毎日は、素敵だった。
賢は仕事があるらしくてずっと一緒にはいられないけれど、なるべくわたしと一緒にいようとしてくれるし、色々世話も焼いてくれる。
だから、わたしは今の生活に満足していた。
自由に外出出来ないのは少し不便だけれど、賢がいてくれるなら大丈夫。
そう思って、色々我慢する事にした。
でも、そうやって暮らしていく内に過去の記憶らしき情景が頭の中に蘇る事が何度かあった。
その中で出て来た、二人の女の子。
二人の少女を見てわたしは、どうしても彼女達に会いたい、と思うようになった。
だから、わたしは賢に甘える事にした。
勿論、お願いしたからといってすぐにどうにかなる事ではないのは分かっている。
でも、わたしの名前だって割とすぐに分かったのだ。
今は朧げな記憶の中にしか出て来ない彼女達を探す事も、きっと不可能ではないだろう。
賢にお願いしたら、二つ返事で引き受けてくれた。
少し難しいかもしれないけど、必ず探し出すと、誓ってくれた。
わたしは、それを信じて待つ事にした。
賢との生活にも満足しているけれど、あの二人の女の子に会いたいという気持ちもそれに負けないくらい強かった。
きっと、賢ならちゃんと見付けてくれる。
そう信じて、わたしは待っていた。
わたしのお願いを聞いてくれているからなのか、次の日から賢の帰りが遅くなる事が増えた。
寂しいけれど、仕方のない事だと思ってわたしは我慢した。
きっと、賢ならわたしの願いを叶えてくれる。
わたしの信頼に、応えてくれる。
そう信じていたから、苦では無かった。
…………でも、見てしまった。
帰りが遅い賢の姿を探して、わたしはその日ベランダからボーダー本部の方を眺めていた。
賢はその日にもよるけれどわたしのマンションには警戒区域という場所を通って来る事が多く、こうして見ているとその姿を見付ける事が出来る場合があった。
勿論毎回ではないけれど、手持無沙汰になって寂しくなった時なんかはこうして賢の姿を探すのが日課になっていた。
その過程で何気なしに、わたしはボーダー本部の屋上を見た。
────────そこには、賢と一緒にいる女の子の姿があった。
その子を見た時、強烈な既視感を感じた。
だって、その子は。
わたしの
記憶の姿より成長していたけれど、間違いない。
あの子は、わたしが会いたかった子だ。
賢に、探すように頼んだ子だ。
でも、おかしい。
賢は、見付けたら教えてくれると言ってくれた。
けれど、今尚わたしには何の連絡もない。
それどころか、人目から隠れるようにあんな場所で会話をしている。
わたしにはそれが、どうにも気に喰わなかった。
会いたかった子が見つかったのは、嬉しい筈だ。
だけど、何故だろう。
わたしは、素直に喜ぶ事が出来なかった。
きっと、それは。
わたしのお願いを聞いてくれていた賢が、あの子を見付けた事を黙っていたからなんだと思う。
でも、おかしい。
わたしは、あの子に向けて嫌な気持ちを覚えている。
あんなに会いたかった筈なのに、今はあの子の事を何処か厭わしく感じている。
分からない。
分からない。分からない。分からない。
なんだろう。
この感情は、なんなんだろう。
こんなの、感じた事ない。
■■といる時も、■といる時もこんな気持ちになった事はなかった。
知らない。
こんな
苦しい。
わたしの記憶に、該当するものはなかった。
分からない。
知らない。
苦しい。
あらゆる感情がひっきりなしに頭の中を荒れ狂い、おかしくなりそうだった。
記憶の中のあの子が見つかって、嬉しい筈なのに。
わたしの
ボーダーの中で、わたしの前で綾辻っていう女の人と賢が話した時も多少嫌な感じはあった。
でも綾辻っていう人の眼を見て、わたしとは賢に対して向ける感情の種類が違うと分かって、密かに安堵したものだ。
それでも他の人と賢が仲良くしているのは癪だったので、賢の腕を取って胸に抱えたりした。
賢が面白いように赤くなってくれて、満足したのを覚えている。
でも、今回のは違う。
賢は、わたしがお願いしたのにあの子を見付けた事を教えてくれなかった。
きっとそれが気に喰わないんだ、と思おうとして気付いた。
多分、それだけじゃないんだろうって。
だって今の気持ちは、賢と綾辻って人が話してた時に抱いたものと良く似てる。
それなら、あの時と何か共通点がある筈なんだ。
でも、それはなんだろうと考えて、思い至った。
────────賢が、わたし以外の女の子と話している。
きっと、それが嫌なんだろうって、わたしは思った。
でも、何が嫌なんだろう。
そう考えた時に、思った。
わたしは、賢がわたし以外の女の子と仲良くするのが嫌なんだ。
実は、不安があった。
あの子達と再会したとして、果たして彼女達は昔と同じように接してくれるのだろうかと。
そうであって欲しいと思うと同時に、もし拒絶されたら、なんて懸念が浮かんでしまう。
大丈夫だとは思うけれど、その確証を抱く事が出来ない。
わたしはあの子達の名前すら忘れている状態で、どんな出来事があったかすら思い出せない。
果たしてこんな状態で、■■や■はわたしの事を認めてくれるのだろうか。
そんな不安があったから、あの子達の事を信じ切る事が出来なかった。
でも、それでもわたしが立っていられる理由があった。
勿論、賢の存在だ。
賢は、何があってもわたしの味方でいてくれる。
彼だけは、賢と過ごした時間だけは、今の記憶のないわたしにとって確かな
記憶のない真っ白な私を、そのまま受け入れてくれた男の子。
だからこそ信じられるし、だからこそずっと一緒にいたいと思う。
その想いは何より強くて、わたしの心を塗り潰していた。
賢には、わたしだけを見ていて欲しい。
今まで自覚していなかった欲望が、明確に言葉になる。
わたしは、賢を独占したい。
賢には、わたし以外の人を見ないで欲しい。
わたしだけに、構っていて欲しい。
だから、わたしは────────。