「…………あれから三日、か」
樹里は一人、ボーダーの開発室に備え付けられた特別室のベッドで身体を起こしふと呟いた。
髪が揺れ、蛍光灯に反射した絹のような質感の白髪が儚く煌めく。
今日は、3月8日。
ランク戦最終戦の日の夜、彼女の暴走を切っ掛けとして起きた事件から既に三日が経過していた。
樹里達はククロセアトロから帰還した直後、
どうやら万が一防衛が失敗し敵が門の外に出て来た時に備えていたらしいのだが、結果的に迅速な隊員の収容に繋がったワケだ。
何せ、日を跨ぐ前から明け方の4時過ぎまでずっと極限状況下で戦い続けていたのである。
加えて戦場となったのは、未知の近界の惑星でしかも普通の環境とはかけ離れた場所。
念の為異常が無いか医務室に叩き込まれたのも、無理はないと言えるだろう。
特に、得体の知れない機械の内部に長時間拘束されていた樹里は問答無用で検査入院となった。
入院と言っても市政の病院に預けるワケにはいかないので、こうしてかつては彼女が暴走の危険があると判断された際に隔離する為に作成された特別室での療養となった。
樹里は与り知らぬ事ではあったが、彼女の身体はブラックボックスが多くいつ何時如何なる引き金によって爆発するか分からない危険物扱いも同然だった。
更に左目は近界製の義眼であり体内には過剰な薬物投与の痕跡も見られていたので、万が一にも一般の病院にかかるワケにはいかなかった。
なので佐鳥の協力の下、健康診断等の医者に頼らなければならない事項は全てボーダー内で済ませるよう手配されていた。
記憶を全て思い出した事でもう伝えても心配無いという事で、既に樹里はこの経緯を知っている。
最大の懸念点だった左目の義眼は完全に「機能停止」した為、もう暴走の心配は無いと判断された為だ。
そう、
現在、樹里の左目は眼球として機能していない。
これまで彼女の左の眼球だとされていたのは、ククロセアトロによって埋め込まれた義眼型のトリガーだったのだ。
今回の戦闘の中で香取によって抉り出されたのはトリオン体の左目であるが、この義眼はトリオンと物質の混成で構築されていた。
これまで彼女が仮想空間ではない現実空間でトリオン体へ変わる時は、この左目のみは
その為、トリオン体の左目が破壊されるという事は生身の義眼にもまた影響が波及する事と同義。
つまり異常強化された視力だけではなく、左目としての機能そのものが失われてしまったのだ。
「不便だけど、これで良かったんだよね…………」
樹里は一人、そうごちる。
彼女が持つとされた
正確には、副作用自体は存在した。
だがそれはあくまでも「ある程度遠くまで見えるようになる」といった程度で、裸眼のまま望遠鏡を覗いたかの如く遠方の景色を視認出来るようなレベルではなかったのだ。
その能力を義眼の
検査の結果トリオン体になればどういう理屈かある程度これまでの視力を再現出来るようだが、生身の身体ではその恩恵はほぼなくなったと言って良い。
要するに、生身のまま遠くを視認したり精細な動きを見極めたりといった芸当は出来なくなったという事だ。
この義眼のトリガーは彼女の身体を外部から操作する為の中継点となっていた為、もう樹里の身体が第三者に操られる心配はなくなった。
そういう意味では良かったのだが、矢張りこれまで当然のようにあったものが喪われた喪失感は如何ともし難かった。
「────────けど、前を向かないと。わたしを助けてくれた皆に、失礼だもの」
だが、それでも
或いはあの日尽きていたであろう自分の命運は、今も尚続いている。
それもこれも、幼馴染の少女や愛する少年を始めとした仲間達の奮闘のお陰だ。
命が助かっただけでも儲けものと、そう考えるべきだろう。
少なくとも樹里は、そう納得するつもりだった。
「樹里、元気してた?」
「お邪魔するわね。今日、退院でしょう?」
「葉子、華」
そんな折、香取と華が病室に訪れた。
二人はベッドに座る樹里を見て、苦笑いを浮かべる。
「…………やっぱり、視えなくなったのは不便なワケ?」
「そうだね。でも、慣れていかないと。結局のところ、
心配する香取に対し、樹里はそう言って笑みを浮かべる。
嘘、ではない。
但し、強がりが無いワケではない。
割り切ったつもりでいても、全てを受け入れるには時間がかかる。
これは、仕方のない事なのだから。
「そっか。アンタがそう言うなら、そういう事にしといてあげるわ。それで、話ってなに?」
「わたし達に話があるって事だったよね?」
「うん。二人に、聞いて欲しい事があるんだ」
それに、二人が此処に来たのは偶然ではない。
他でもない樹里が、来て欲しいと呼び出したのだ。
樹里は彼女らしくもなく咳払いをして、真っ直ぐ幼馴染二人に向き直った。
「────────あのね、葉子、華。わたし、遠征に参加したいんだ」
「…………心苦しいの。わし等の無力を、押し付ける形になってしもうた」
「それでも、選んだのは彼女だ。おれ達に出来るのは、それを後押しする事だけだよ」
開発室でため息を吐く鬼怒田を、迅はそう言って労った。
二人が話しているのは当然、樹里の事である。
「あやつの身体は、過剰な薬物投与と無理な異物の混入によって至る所が異常を来しておる。特に、女性機能────────正確に言えば、生殖機能が正常に働くか甚だ怪しい状態にある。どうやら連中、そこは意図的に抑制剤を使っていたようじゃからの」
3年もの間ククロセアトロで過酷な実験に晒された樹里の肉体は、当然ながら健常者とはとても言えなかった。
特に深刻だったのは、薬物の過剰投与に依る後遺症だ。
どうやらククロセアトロは戦闘試験の障害になるとして、女性機能を抑制する類の薬物を使用していたらしい。
その結果、樹里の生殖機能は正常に働く可能性がかなり低いと言わざるを得ない状態になっていた。
しかもこちらの世界には存在しない未知の薬物が使われていたらしく、その薬剤の効果が未だに残留し解毒出来ない状態にある。
なので後遺症というよりは単純な薬効に近いのだが、だからこそこちらの世界の技術ではどうする事も出来なかったのだ。
「こっちの世界の技術じゃ無理なら、
だからこそ、樹里は遠征への参加を求めたのだ。
自分の身体を治療出来る技術を、近界に探しに行く為に。
それが、彼女が香取達を呼んで遠征参加を願った真相である。
「それがどれだけ低い確率かは、分かっているじゃろう。元凶であるククロセアトロは、仕方が無いとはいえ既に消え去っておる。資料を探す暇も回収する時間もなかったからの。ヒュースの言がなければ、可能性の提示すら出来なかったのじゃぞ」
「アフトクラトルには、ロドクルーンで捕らえた研究者から押収したククロセアトロの資料がある、って言ってたからね。彼はエリートだったみたいだし、何より件のククロセアトロとアフトクラトルの戦争にも参加してた。希望を見るには、充分な情報だと思うよ」
加えて、ヒュースにそういった技術もしくはそれに繋がる情報が無いか尋ねたところ、アフトクラトルにはククロセアトロから徴収した資料があると発言したのだ。
自国の事は基本的に黙秘する彼であるが、このくらいは情報開示しても構わないと何かしらの心変わりがあったのかもしれない。
どちらにせよ、樹里の身体を治療するにはアフトクラトルへの遠征参加が一番の近道となる。
故に樹里は、遠征参加を願ったのだから。
「だからと言って、あ奴自身が遠征に行く必要はないじゃろう。技術だけでも持ち帰れば、こちらでも────────」
「────────再現出来ない可能性も、あるよね。だからこそ彼女は、その道を選んだんじゃないかな」
迅の返答に、鬼怒田は押し黙る。
確かに、近界の技術をこちらの世界で再現出来る確証などない。
或いは向こうの環境でなければ不可能な施術も、あるかもしれない。
そう言われれば、鬼怒田は反論の術を持てなかった。
「それに、遠征はいつも危険と隣り合わせだ。個人の目的を優先出来るとは限らない。要するに、自分の目的を果たしたいなら、実際に参加するのが一番の近道って事。だから遠征から弾かれた鳩原さんは密航までしたし、うちの子達は自分の力で遠征に行こうとしてる。こういうのは、理屈じゃないんだよ」
「…………ふん」
────────わたし、将来は好きな人の子供を産みたいの。だから、遠征に行きたいんです────────
鬼怒田の脳裏に、己の肉体の現実を告げた時の樹里の言葉が蘇る。
あの時の樹里は、頑として退かないという確固たる決意があった。
自分の恋を真っ当に成就させるのだと未来の展望を語った彼女を止められなかった時点で、鬼怒田の返答は決まったようなものだった。
「…………いつの時代も、女は強いな。わしも、家内に会いたくなってしもうたわい」
「今からでも呼べば来てくれるんじゃないですか? おれの視た未来だと────────」
「やめい。そんな気は無いと言うとるじゃろうが」
迅の余計なお節介に対し鬼怒田は手を横に振り、ふん、と鼻息荒く答えた。
「わし個人の幸福を願うのは、わしの仕事を全部やり切った後じゃ。少なくとも、お主に頼り切りな現状を変えるまでそんな気は毛頭ないからの。子供ばかりに働かせていては、美味い飯が食えるワケもないんじゃからな」
「驚いたね。いきなり遠征に行きたい、なんて」
「「将来の為」って言ってたけど、どうせ佐鳥絡みでしょ。やっぱアイツ、一回シメといた方が良いわよね」
「その時は呼んで。詰め方は分かってるから」
香取隊、隊室。
そこでは樹里の「願い」を聞いた少女二人が、その事について思案していた。
先程、樹里は「遠征部隊に参加したい」と口にした。
今回はB級中位以上は全員が遠征試験の対象となる為、それに合格すれば不可能ではない。
加えて、今の香取隊はB級一位。
選ばれる可能性は、相応以上に存在する。
問題は、何故遠征に行きたいと言い出したのか、だ。
近界は、樹里にとって悪夢の象徴のようなものだ。
両親は
記憶処理が解除された今となっては、樹里が近界に対しポジティブな想いを抱く事は無いだろうという事くらいは分かる。
だというのに、樹里は遠征を希望した。
そこには何か譲れない理由がある筈だと、それはきっと佐鳥が絡む事だろうと。
少なくとも香取は、そう確信していた。
「けどま、あの子がやりたいってんならやるだけよ。そーいう事だから、アンタ等も頑張んなさいよね。麓郎、雄太」
「────────どこまでやれるか分かんねぇけど、やるだけやってみるよ。自分の分は、散々弁えた後だからな」
「何にせよ、葉子ちゃん達がやりたいって言うなら協力するよ。オレ達も、香取隊の一員だからね」
「ふん、少しくらい足引っ張っても良いから全力でやりなさいよ。途中で投げ出すのだけはナシだからね」
部屋の入り口で入るかどうか躊躇していた男子二人を招き入れ、香取はそう啖呵を切った。
理由はどうあれ、幼馴染が自分達を頼って来たのだ。
ならば、それに応えないという選択肢は有り得ない。
自分達に出来る事ならば、全霊を以て当たる所存だ。
「────────あの子は、
「…………帰って、来れたんだね」
「うん。こうして歩いてると、思い出すね。一年前のコト」
警戒区域、その一角。
そこで、樹里と佐鳥は隣り合い歩を進めていた。
退院したばかりの樹里は佐鳥から一緒に帰ろうと誘われ、一も二もなく頷いて同道した。
香取や華も今回ばかりは仕方ないと、二人きりにしてくれた。
佐鳥には後で地獄の詰問が待っているだろうが、それくらいは享受して貰おう。
幼馴染二人を差し置いて二人きりになりたいと願ったのは、佐鳥の方なのだから。
「ここ、覚えてる?」
「勿論。わたし達が最初に会った所、だよね」
そう言って、クルリと樹里が佐鳥の方を振り向いた。
浮かべた微笑は浮世離れしており、彼女の非現実的な美しさが滲み出ている。
だけど何処かその美は、昔と比べて地に足が着いているような気がした。
確かにこの場所は、一年前に樹里が
記憶処理が解除された今、樹里はその全てを思い出している。
その彼女がこの場の記憶に言及する意味は、当然重かった。
「あの時は、驚いたよ。空から女の子が、なんて今時どこの天空の城だっての」
「ふふ、ヒロイン扱いは嫌いじゃないよ。主人公は当然、賢なんだよね」
「…………まあ、他の人に樹里ちゃんの
何処か照れ臭そうに、佐鳥はそう呟いた。
それを聞いて樹里は喜色を浮かべ、にこりと笑う。
「それ、
「あ、いや、待って。ちゃんと言葉にさせて下さいお願いします」
「ん、いいよ。多分、用事ってそれの事だよね? 早く、言って欲しいな」
樹里はそう言って、佐鳥の正面に立って少年からの言葉を待った。
今更、何を問うているかという疑問は必要無い。
少年も、少女も。
覚悟を決めて、此処に来たのだから。
すぅ、と佐鳥は息を吸う。
数瞬迷い、そして。
「────────好きですっ! オレと、付き合って下さいっ!」
「勿論、喜んで。ずっと、待ってたよ。賢」
────────樹里は佐鳥の告白を受け入れ、その返答として唇を重ねた。
歪みを抱えた二人の少年少女の関係は、今この時を以てようやく前に進む事になった。
白のヴェールに包まれていた少女の霧は晴れ、未来への道筋は険しくともちゃんと続いている。
これからも、少女は進み続けるだろう。
愛する、少年と共に。
香取隊の、狙撃手として。