「…………樹里ちゃん、落ち着いた…………?」
「…………うん。多分…………」
樹里は弱弱しい声色で佐鳥の問いかけに応え、そのまま押し黙る。
滅多に動かない表情筋が崩れており、見るからに落ち込んでいるのが見て取れる。
彼女がこのような借りて来た猫のような状態になっているのは、先程の香取とのやり取りが原因だった。
(香取ちゃん、恨むよー? そっちにも思惑はあるんだろうけどさ、ただでさえ不安定な樹里ちゃんの精神をピンポイントで撃ち抜かなくても良いでしょーに)
はぁ、と佐鳥はため息を吐く。
香取の立場から考えれば、彼女の行動は分からなくもない。
樹里はこれまで、香取の隊への誘いを断り続けていた。
それも、碌な理由も説明せずに一方的に。
そんな経緯があったというのに真剣に頼みもせず消極的な状況説明だけで済まそうとしたのだから、香取が怒るのも無理は無いと言える。
理由については言い訳のように「隊に所属するのが面倒」と以前から口にしていたが、それを素直に信じる程香取は純朴でもないだろう。
そも、それが単なる建前なのは佐鳥から見ても明らかであったので猶更だ。
彼女が隊への参加を渋っていた理由は、記憶の欠損による自己証明の不安に依るものだ。
自分の記憶が信用出来ず、本当に自身がかつて香取達の幼馴染として存在していた人間なのか自信が持てない。
そんな不安から、樹里は香取に拒絶される事を何より恐れていた。
もし、自分を記憶にある幼少期の時のように受け入れてくれなかったら。
そう思い悩み、涙した夜は数知れない。
だからこそ、状況的に仕方ないとはいえ香取に拒絶された事が樹里にはショックだったのだ。
頭では、分かっているのだろう。
自分の態度が、悪かったという事は。
しかし、理屈はそうであっても感情というものはそれで納得出来る程器用なものではない。
香取から喧嘩を売られた直後に呆然とする彼女を見て「ヤバい」と感じた佐鳥が代わりに応対しなければ、樹里の最悪な精神状態を向こうに気付かれていただろう。
あの時は香取が冷静な状態ではなかったからこそ誤魔化せたが、そうでなければ樹里の異常を察知して話が余計にややこしくなっていた事は想像に難くない。
樹里の
だからこそ、あの場では了解の返答をして引き下がるしかなかったのである。
一刻も早く、樹里の精神ケアをする為に。
これは、必要な処置だったという事だ。
「大丈夫だって。香取ちゃんはただ、あの時のリベンジマッチをしたいだけだと思うし。あの子が負けず嫌いなのは、樹里ちゃんだって知ってるでしょ?」
「…………でも、それだけでもないと思う。葉子は勘も良いから、わたしの事情に何か気付いていてもおかしくないし…………」
そう言って、樹里はしゅんとなる。
確かに彼女の言う通り、香取は勘が鋭い。
頭の回転はかなり早い方であり、尚且つ要領が良い為普段の言動とは裏腹にその頭脳は侮れないものがある。
自分の思考を言語化するのが苦手な為そう思われる事は殆どないが、彼女は紛れもない天才の部類である事に間違いは無い。
完全な感覚派である為出水のように教師のような真似は出来ないが、少ない材料から答えを導き出す能力は相応に突出している。
それらを考慮すれば、何かしらの切っ掛けで樹里の事情の一部に気付いていてもなんらおかしくはない。
「だとしても、あくまでもなんとなくだと思うし樹里ちゃんを心から拒絶したワケでもないって。香取ちゃんの言い方がキツイのは元からだって、樹里ちゃんなら知ってるでしょ?」
「でも…………」
「香取ちゃんは、ただ樹里ちゃんから話を聞きたいだけなんだと思う。なんで、自分の誘いをこれまで断り続けたのか、って。今回の提案だって、多分その為だと思うし」
「え…………?」
佐鳥の言葉に、樹里はキョトン、と首を傾げる。
彼女からすれば、予想外にも程がある内容だったのだろう。
その様子に「気付いてなかったのか」と内心で苦笑しつつ、佐鳥は続けた。
「樹里ちゃん、なんで香取ちゃんの誘いを断り続けたのかっていう本当の理由を全然話してないでしょ? 香取ちゃんはそれに気付いてたから苛立ってたし、素直に受け入れてくれなかったんだと思うよ?」
「あ…………」
言われてみれば、といった感じで樹里はハッとなった。
佐鳥の言うように、彼女は香取に対して誘いを断り続けた本当の理由について一切説明していない事にようやく思い至ったのだろう。
矢張り、ショックのあまり視野狭窄に陥りその事をすっかり失念していたようだ。
(とはいえ、無理もない話かな。自分の事情を知られる事を、ずっと恐れてたんだし)
しかし、半ばしょうがないとも言える。
樹里は、自分の事情────────────────即ち、自身の記憶が欠落しており自分が木岐坂樹里である確信が持てないという事を、香取に知られる事を恐れていた。
正しくは、それを知られる事で香取から拒絶される可能性に恐怖していた。
だからこそ彼女は、これまで香取隊への誘いを固辞し続けて来た。
香取に近付いて、自分の内面が知られる事を。
それによって大切な幼馴染の少女から他人のような顔をされる事を、何より恐れていたのだから。
自分の記憶が信頼出来ない、というのはそれだけの恐怖を抱くに然るべき事柄なのだ。
「だから、リベンジマッチついでにその事を聞き出したいんだと思うよ。香取ちゃん的には嫌々入るんじゃなくて、しっかりとそこに向き合った上で迎え入れたいんだと思うしね」
「でも、もし────────」
知られて、拒絶されたら、と。
樹里は、言葉を詰まらせる。
それを口に出してしまうのが、怖いのだろう。
拒絶された、と感じてしまった直後である今は。
その不安が、どうしても拭えないのだと。
彼女は、その眼で切実に訴えていた。
「樹里ちゃんの知る香取ちゃんは、少し記憶がない程度で君を拒否するような子だった?」
「…………! ううん、そんな事ない。葉子は、そんな事しない」
けれど。
佐鳥は、此処で甘やかすべきではないと悟り、そんな彼の言葉に樹里はハッとなって首を振る。
気付いたのだ。
真実を知られたら拒絶されるかもしれないというのは、あくまでも樹里が思い悩んだ末に漏れ出た想像に過ぎない。
自身の記憶が信頼出来ないから、そんな自分が本当に彼女の傍にいて良いのか。
その確信が持てないからこそ、樹里は色々と理由を付けて香取を遠ざけようとしていた。
大切だからこそ、他人かもしれない自分の傍にはいて欲しくない。
そんな想いが、本当は嫌という程頷きたかった香取の誘いを断り続けた要因だった。
だけど。
樹里は、彼女の記憶は。
香取が、自分の記憶がない程度で拒絶するような人間ではない事を知っている。
他者とはズレた感性で周囲から浮きがちだった樹里を、香取はそんなの関係ないとばかりに構い倒してくれた。
華は、そんな香取と共に樹里の事を穏やかな顔で見守ってくれた。
そんな優しい幼馴染の少女達が、その程度の事で自分を区別するような事など。
決して有り得ない事は、他ならぬ樹里自身が知っている。
たとえ、自分の記憶に自信が持てずとも。
記憶の中の少女達は信頼に足る相手である事など、とっくの昔に知っているのだ。
「だったら、良い機会じゃないかな。戦えば何もかも分かるなんて言うつもりはないけど、そういう場でしか伝えられない事は確かにあるんだしね。向こうもそれを望んでるんだし、全力でぶつかるのが礼儀じゃないかな」
それに、と佐鳥は続ける。
「樹里ちゃん、負けるの嫌いでしょ? なら、挑戦は正面から叩き潰してやらなきゃ。向こうだって、手加減されて勝ちを譲られたくはないだろうし」
「そだね。うん、そんな事したら葉子は間違いなく怒ると思う。多分見た事ないくらいに、キレると思うよ」
「でしょ? だったら、やる事は決まってるじゃん」
「うん。そだね。その通りだよ、賢」
佐鳥の言葉に、樹里は薄笑いを浮かべる。
そこに、先程までの不安気な気配はない。
元々、好戦的な少女だ。
樹里は普段はダウナーだが、戦闘時ともなればまるで異なる雰囲気となり正確に敵を撃ち抜く怜悧な狙撃手へと変貌する。
そのスイッチの切り替えの巧みさは、佐鳥をしても舌を巻く程だ。
恐らく、先程までの樹里の頭には「わざと負ける」という選択肢が当然のようにあった。
香取が自分を本気で拒絶しているのなら、これ以上機嫌を損ねるような真似はしたくない。
そういった後ろ向きな考えで、彼女の闘志は消え失せていた。
しかし、佐鳥の言葉で自分を見詰め直した今の彼女に、そんな軟弱な思考は存在しない。
香取の怒りも、自分の非も受け入れる。
その上で、やるからには全力で叩き潰す。
結果として面倒な事になろうとも、勝負事である以上勝つつもりでやるのが当然。
それが、木岐坂樹里という少女としての意地であり。
自分と向き合ってくれた、幼馴染の香取葉子に対する誠意でもある。
やるからには、全力で。
それこそが、自分と香取に共通する確固たる在り方なのだから。
「そうと決まれば、作戦会議だね。言っておくけど、今回オレはただの狙撃手に徹するから。求められれば相談には乗るけど、太刀川さん達との時みたいな献策はしないからそのつもりでいてね」
「うん、充分。これは、わたしがやらないと意味ないから。作戦は、わたしが決める。手本は賢が見せてくれたし、やってみる」
「うんうん、その意気だよ。オレも駒として力を尽くすから、巧く使ってみせて」
「任せて。賢は、ちゃんと使うから」
ところで、と樹里は続ける。
「作戦会議するなら時間が要るよね? 賢、泊まってけば?」
「…………それは、謹んで遠慮させて貰います」
えー、とさり気なく重い要求を通そうとした樹里は全身で不満を露にしながら、上目遣いで佐鳥を見上げる。
その後あの手この手で佐鳥のお泊りを実現させようとする樹里からの攻勢を何とか躱した佐鳥は、疲れた様子で帰路に就くのであった。
「────────迅さん。今回の事、視てましたよね?」
『ああ、そうだね。こうなる未来は、視えていたよ』
佐鳥は自室に帰った後、狙い済ましたかのようなタイミングで掛かって来た迅からの電話を取り、予想通りの解答を聞いてため息を吐いた。
今回の件は、まるで流れに沿うようにスムーズに進んでいた。
樹里が作戦妨害のペナルティとして部隊への所属を求められ、その結果として香取がリベンジマッチを提案。
一度は沈んだ樹里を闘争心に火を点ける事で再起させ、幼馴染と向き合う土壌を作る。
有り体に言って、都合が良過ぎていた。
まるで最初から決まっていたかのように、樹里の部隊所属命令を契機に物事が進み過ぎていたのだ。
そこに何の作為も見出せない程、佐鳥は鈍感ではない。
背景に迅の暗躍がある事はどう考えても明らかであったが、此処で確定したワケだ。
「迅さんは最初から、こうなるのが狙いだったんですか?」
『いや、樹里ちゃんの作戦参加自体はおれとしても不本意な流れではあったよ。けど、ああいう形での参加が確定してしまった以上、状況を利用しない手はなかったってだけさ』
本当なら、こんな性急な手は打ちたくなかったけどね、と迅は何処か疲れたような笑みを零した。
『でも、このまま樹里ちゃんが香取隊に入らないままだとマズイ事になる未来が結構あってね。だから、その為の場を用意出来るように取り計らっただけさ。少々強引な手だったのは、否めないけどね』
「…………そうですか」
樹里が隊に所属しないと、悪い未来に繋がる。
そう言われてしまっては、佐鳥としては返す言葉が無い。
正しいのは、迅の方だ。
自分と彼とでは、文字通り視点が違う。
精々その場の流れや二手三手先を読むのが限界である自分と異なり、迅は文字通り神の如き視座で未来と言う流れを俯瞰している。
故に、自分が心の内に燻らせたもやもやなど、彼にとっては些細なものなのだろう。
大局を視ているのは、どう考えても彼の方なのだから。
『…………ごめんね。不快だったでしょ?』
「え…………? いや、そんな事は────────」
『誤魔化さなくて良いよ。おれのやり方が褒められたモンじゃない事くらい、とっくの昔に分かってるからさ』
「迅さん…………」
だから、迅からすぐに謝罪の言葉が出て来た事には驚いた。
正しいのは彼で、感情に左右されている自分の方が間違っているのだと考えていただけに。
その言葉は新鮮で、何処か後ろめたくもあった。
『でも、おれの優先順位を変えるワケにはいかないんだ。その結果として不快になる人や不幸になる人がいても、おれは最善を目指す事を止められない。それがこんな力を持って生まれてしまったおれの責務だし、こいつを行使する事に対する義務のようなものだからさ』
だから、と迅は続ける。
『君は、
「…………っ! そんな、事は…………っ!」
無い、と言おうとして、彼にかけるべき言葉が無い事に佐鳥は気付く。
自分と迅とでは、立場が違い過ぎる。
片や、ボーダーの表の看板とも言える広報部隊の一員。
片や、この世界そのものの未来を左右する能力の持ち主であり事実上のボーダーの重鎮。
抱えるものも、使える力も、何もかも違う。
そんな自分が何を言ったところで、彼の心に届く事はないのだと。
佐鳥は、自覚してしまった。
『君が考えるべきは、こんな人でなしの事じゃなくて、樹里ちゃんの事だよ。大丈夫、きっと巧くいく。おれのサイドエフェクトがそう言ってるからさ』
「…………分かり、ました。今は、それで納得しておきます」
ですが、と佐鳥は続ける。
「オレは、貴方を恨みません。貴方には貴方の立場があって、望んでそういう事をしてるんじゃないって事は、オレなりに分かっているつもりですから」
『…………そっか。ありがとう。そう言ってくれて、嬉しいよ』
迅は何処か悲しそうに、そう告げる。
嗚呼、自分の言葉は届いていないのだな、と佐鳥は悟る。
しかし、これ以上言うべき言葉は見つからない。
「やるべき事があれば、なんでも言って下さい。オレの出来る事なら、なんだってやってみせますから」
『────────ありがとう。君の協力を、嬉しく思うよ』
それ以上の言葉は、なかった。
お互い、これ以上踏み込む事は出来ないと悟ったのだろう。
そこからは事務的な会話に終始し、そして。
話を終えて電話を切った佐鳥は、連絡先から一つの番号を選ぶ。
「夜分遅くにすみません。実は、相談したい事がありまして────────」
夜更けに、声が響く。
力不足を自覚した少年は、せめて自分に出来る最善を掴み取る為に動き出した。