「すぅ…………」
「樹里ちゃん、もう放課後だから起きて。帰る時間だよ」
「ん…………」
樹里は佐鳥の呼びかけによって眠たげに目を擦り、顔を上げる。
夕日に照らされたその儚くも美しい横顔にドキリとしつつ、佐鳥は努めて平静に樹里を急かした。
「今日、書類の提出日でしょ? 一緒に行って欲しいって言ったの、樹里ちゃんですよ?」
「…………わかった。起きる」
よいしょ、っと呟きながら樹里は背伸びをしながら立ち上がり、その拍子にシャツの隙間からチラリと見えたお腹から佐鳥はさっと目を背ける。
透けるような白い肌が垣間見えた事で、どうしても以前目にした彼女のあられもない姿が想起されてしまう。
今のような不意打ちは初めてではないものの、樹里の容姿のレベルがとんでもない為いつまで経っても慣れるという事はない。
彼女がいるだけで、何の変哲もない教室が神秘的な空気に包まれた一室に見えて来るのだから相当だ。
教室には既に他の生徒は殆ど残っておらず、樹里や佐鳥を含めて数人しかいない事も彼女の透明な存在感が目立っている要因だった。
ちなみに、この高校にはそれなりの数のボーダー隊員が在籍しており、それはこのクラスも例外ではない。
このクラスに在籍しているボーダー隊員は、佐鳥を含めて5人。
太一は授業が終わると急いで鞄に物を詰めて筆箱を忘れたまま帰って行ったし、笹森も早々と帰宅している。
半崎は樹里と同じくうたた寝をしていた為か、たった今帰り支度を始めたようだ。
現在佐鳥達がいるのは、三門市立第一高等学校、1-Cの教室である。
樹里と佐鳥は見ての通り同じ高校のクラスメイトの間柄であり、実のところ香取も高校は一緒だ。
しかし彼女のクラスは1-Eと別であり、香取の中で自分を差し置いて同じクラスで過ごしている佐鳥に対するヘイトが上がっているのは言うまでもない。
尚、そんな環境なのでモタモタしていると場合によっては香取がクラスまで殴り込んで来かねないのも、佐鳥が樹里を急かしている理由の一つだ。
普段はそこまではしない香取だが、先日木虎にコテンパンにされたばかりというのもあって今の彼女の機嫌は相当悪い。
また、昨日香取隊室で受けた尋問の結果佐鳥が樹里のあられもない姿を見てしまっている事までバレているので、可能な限り香取とは顔を会わせたくないというのが佐鳥の本音であった。
「じゃ、行こ」
「了解っと」
佐鳥は樹里が帰り支度をするのを待ち、彼女と共に教室を出る。
「佐鳥」
「おん?」
そこに、教室に残っていた半崎が声をかける。
佐鳥は樹里に先に教室を出るよう促し、自分を呼んだ同僚の元へ近付いた。
「半崎、なんか用?」
「いや、用って程じゃねーけど、今日はお前訓練来んの?」
「あー、今日は樹里ちゃんの用事に付き合うから少し遅れるかな。なんで?」
佐鳥は何処か訝し気に、半崎を見据える。
半崎は「だるい」が口癖のダウナーな少年であり、佐鳥の狙撃手仲間の一人だ。
試合では功を急いて失敗する場面が見られるものの、その狙撃技術自体はかなりのものだ。
なので佐鳥も自身の得意技であるツイン
しかし、同じクラスな事もあってそれなりに話をする仲でもある。
だからこそ、普段あまり積極的に他人に関わらないようにする半崎がこうして声をかけて来た事が意外だったのだ。
半崎の会話は他者の呼びかけによって始まるのが大半であり、自分から話しかける事は滅多にないのだから猶更だ。
「いや、なんつーか。佐鳥がそこまで木岐坂の世話焼いてるのが違和感つーか、なんか理由でもあんの?」
「あ、いや、言っとくけど付き合ってるとかそういうのじゃないからね? ただ放っておくと色々危なっかしいから、ついつい世話を焼いちゃうだけであって」
「自分の予定や休日を犠牲にしてまでか? お前、そんなキャラだったっけ?」
「む…………」
半崎の問いかけに、佐鳥は押し黙る。
正直に言えば、下手な噂が広がるのを許容してまで樹里と関わるメリットは佐鳥にはない。
元々佐鳥はお調子者の仮面を被った常識人であり、厭世的な面もあった。
なのでその性格を良く知る半崎としては、ここ一年樹里に構いっぱなしの彼の行動がどうにも不可解に映ったらしい。
今日それを聞いて来たのは、恐らく先日の生駒との騒ぎで樹里の家お泊り疑惑の噂が流れかけたからだろう。
その事について下手な噂が広がらないよう裏で手を回した根付から注意喚起されており、佐鳥は彼に平謝りする羽目になった。
佐鳥は嵐山ほどの知名度はないが、広報部隊の一員として顔が売れている。
今回はボーダー内だけで噂が収束したから良かったものの、下手に民衆に広まれば格好のスキャンダルのネタになりかねない。
普通ならばそこまで問題にはならないが、ネックなのは樹里の容姿が
同じく美形ボーダー隊員として有名な那須ほどの知名度はないが、儚げで浮世離れした美少女という点では同じだ。
透明感のある樹里の美貌は街を歩けば相当に目立ち、そんな彼女と共にいるだけで邪推した者が悪質な噂を流しかねない。
そういったリスクを佐鳥が承知していないとも思えない為、半崎は当然の如く疑問に思ったワケである。
「…………ごめん。詳しくは言えないけど、色々事情があるんだ」
「ふぅん。ま、そう言うならこれ以上は聞かねーよ。けど、なんか助けになれる事があったら言えよ。友達が知らないうちに大変な事になってたとか、勘弁だからな」
「ああ、その時はちゃんと言うって。ありがとね」
友人の気遣いに感謝し、佐鳥は笑みを返す。
何の事はない。
ただ半崎は、佐鳥を心配していただけなのだ。
「ダルい」が口癖でいつもダウナーな半崎だが、その実友達想いの情の熱い奴なのである。
口下手なのも相俟って理解している者はそう多くはないが、佐鳥はそれを知っていた。
なので、事情を話せない事を申し訳なく思いつつも、今はただ礼を告げる他ないのである。
「佐鳥は良い友達に恵まれて、幸せ者ですよ」
「何気持ちワリー事言ってんだよ。ったく、またな」
「うん、またね」
そう言って、佐鳥は半崎に手を振り教室を後にした。
そんな佐鳥の後姿を見ながら、半崎ははぁ、とため息を吐く。
「…………ホントに大丈夫か? あいつが「助けて」って言うところ、なんか想像出来ねーんだけど」
「賢。わたし、迷惑?」
「え…………?」
教室から出た佐鳥を見るなり、樹里は何処か不安そうな顔でそう告げた。
戸惑う佐鳥だったが、どうやら今の半崎との会話を聞かれていたらしいと得心する。
明言はしていないが、半崎は「樹里の世話を焼いている事で佐鳥の負担になっているのではないか」と心配していた。
それを聞いてしまったから、樹里は不安になったのだろう。
自分の存在が、佐鳥に迷惑をかけているのではないかと。
彼に厭われて、見捨てられるのではないのかと。
そんな不安が、彼女の視線からは垣間見えた。
「いや、半崎の奴はそういうつもりで言ったんじゃないって。ただ、俺が不甲斐なく見えただけだと思うよ」
「でも…………」
「いいから、樹里ちゃんは気にしなくて大丈夫だよ。心配しなくても、樹里ちゃんを見捨てたりなんかしないからさ」
「…………うん」
樹里は佐鳥の言葉を聞いて何処か申し訳なさそうな、それでいて少し嬉しそうな顔をする。
薄々、気付いてはいるのだろう。
自分の存在が、どれだけ佐鳥の負担になっているかを。
しかし、だからといって彼女は佐鳥から離れる事は出来ない。
性格的にもそうだし、
様々な事情が絡み合い、今の佐鳥と樹里の関係性は成り立っている。
だから、佐鳥が彼女を見捨てる事は断じて有り得ない。
最初は義務感だったが、今は違う。
それが何故かは、佐鳥の中でも答えは出ていない。
「さ、行こっか。あんまし急ぐ必要はないけど、早く済ませるに越した事はないしね」
「わかった」
佐鳥に促され、樹里は共に学校を出る。
白い少女の横顔には、憂いと歓喜の入り交じった笑みを浮かんでいた。
「ぶすぅ」
「何してんだ
校門から出る二人の姿を、窓から睨みつける香取の姿があった。
実のところ樹里を追いかけるつもりでいた香取だが、途中で忘れ物をしていた事に気付き、急いで教室に戻ったところ帰って行く二人が視界に飛び込んで来たのである。
全力疾走すれば追いつけるかもしれないが、流石に制服のスカート姿でそれをする程香取は剛毅ではない。
有象無象に下着を見られるリスクなど、彼女のプライドからして冒す筈がないのだから。
そんな香取を偶然見咎めたのが、用事があって彼女を呼びに来た同じ部隊の若村である。
若村はこの学校の2-Eに在籍しており、隊長の香取とはハッキリ言って仲が悪い。
しかし同じ部隊に所属する以上コミュニケーションを取らないワケにはいかない為、今日も隊絡みの用事でこうしてやって来たのだ。
「お前、また佐鳥に絡むのは止めろよ。聞いた話じゃ、昨日も無理やり隊室に引っ張ってったらしいじゃねーか」
「それ、麓郎に関係ないでしょ。口出ししないで」
ジロリ、と怒気を込めた眼で睨まれ怯む若村だが、沸点が低く意地っ張りな性格が災いし引き下がる事は出来ない。
「お前が部隊に誘ってる木岐坂関連で絡んだってんだから、無関係じゃねーだろ。そもそも、お前が木岐坂にしつこく絡んでんのが原因じゃねーか」
「あ?」
むしろ、やり返そうとして盛大に地雷を踏み抜く始末。
佐鳥の事はともかく、幼馴染の樹里に話題が及んだ事で香取の堪忍袋の尾はブチリと音を立てて切れ落ちた。
「樹里の事でアンタにどうこう言われる筋合いはないわよっ! そもそも、アンタが不甲斐ないから中位落ちなんてする羽目になったんじゃないっ!」
「あぁっ!? いっつも勝手に独断専行してるだけの奴が何言ってやがるっ!? 大体お前がいっつもチームプレイをしようとしねーから…………!」
「それで勝てるならやってるわよっ! 無理にアンタ等に合わせるくらいなら、アタシが好きに動いた方が万倍マシだってのっ!」
「んだと…………っ!」
売り言葉に、買い言葉。
中位落ちした事もあって元々苛立っていた二人の口論はヒートアップし、次々と罵詈雑言が跳び出していく。
幸いな事に既に他の生徒は帰宅した後で彼等の醜聞を目にする者はいなかったが、だからこそ二人の喧嘩を止める者はいない。
普段であれば若村の因縁など適当に受け流す香取であったが、今回ばかりは状況が悪かった。
中位落ちに加え、今まで袖にされ続けた樹里が佐鳥と仲良く下校するところを目撃した直後である事。
それが香取の沸点を極限まで低下させ、若村の言葉を受け流せるだけの余裕を失わせていたのだ。
「ちょ、ちょっと二人とも落ち着いて…………!」
香取達の喧嘩は若村が戻るのが遅い事が気になってやって来た三浦が来るまで延々と続き、最終手段として彼が電話で華に仲裁を頼んだ事でようやく終結を見たのだった。
『そういうワケだから、多分また葉子が迷惑をかけると思うの。悪いけれど、ほとぼりが冷めるまで適当にいなしてくれると助かるわ』
「…………ん、わかった」
その日の夜。
用事を終えて家に戻った樹里に、華から電話がかかって来ていた。
華は今日の香取と若村の喧嘩騒動、及びそれによって更に下降した香取の機嫌によって起こると予想される弊害について伝えていた。
中位落ちしたばかりである事に加え、樹里に袖にされた挙句に色々と対抗心を燃やしていた木虎に惨敗。
更に若村が地雷を踏み抜いた事で既に彼女の機嫌の悪さはレッドゾーンに達しており、華といえど完全な制御は出来なくなっている。
だからこそ事前に迷惑をかけるであろう相手にこうして伺いを立て、注意喚起をしていたというワケだ。
尚、樹里の連絡先は香取も知ってはいるが、樹里の側から着拒しているので連絡は取れないようになっている。
電話でもしつこく勧誘したか、そうでないかの差であった。
「でも、出来ればそっちでなんとかして欲しい」
『流石にこればかりは無理よ。そもそも、樹里が葉子を袖にし続けているからこうなってるもの。あなたにも責任があるとまでは言わないけれど、一から十まで葉子が悪いってワケでもないから』
「…………うん。そだね」
そういえば、と樹里は思い出したように口を開く。
「葉子、なんで若村先輩とチーム組んでるの? 文句を言うだけで、勝つ為の努力何もしてないでしょ」
『葉子のお兄さんの友達なのよ、若村くんは。チームじゃなきゃランク戦には参加出来ないから、その繋がりでわたしの従兄妹の雄太と一緒に誘ったのよ。前にも話したと思うけど』
「忘れた。正直なところどうでもいいし。ただ、なんで葉子は合わない相手と無理に組んでるのかなって」
心底訝し気に、樹里は首を傾げた。
割と自分の感情に素直な彼女にとって、ああまでいがみ合っているのにまだチームメイトとして扱っている香取の思考が理解出来ないのだ。
口にはしないだけで香取の事を今でも大事に想っている樹里にとって特に代案があるワケでもないのに香取の
『それ、葉子に直接言っちゃ駄目だよ? 身内扱いしてるのは確かだから、多分樹里が相手でも怒ると思う』
「そう。わかった」
しかし、無暗に香取と諍いたくないという気持ちは樹里にもある。
華に窘められた事もあり、一先ず矛を収める事にした樹里であった。
『────────────────ねえ、樹里。なんで、葉子の誘いに乗ってくれないの? 別に、わたしたちの事が嫌いになったワケじゃないんでしょ』
だが、今度は華が樹里へと切り込んだ。
これまで、胸に秘めていた疑問。
今更、と思うかもしれないが。
それでも、華としても気になっていた事なのだ。
何故、樹里は香取の誘いを断り続けるのか。
それが知りたくない、と言えば嘘になるのだから。
「うん。二人は大事なともだちだから。嫌いになんて、なるワケない」
『じゃあ、なんで誘いを断り続けてるの? 何か、理由があるんでしょう?』
「…………ないよ。ただ、なんとなく組む気になれないだけだから」
『そう』
されど、樹里の反応からこれ以上問い詰めても答えは返って来ない事を察し、華は追及を止めた。
分かっていた筈だ。
樹里は、この問いかけに応える事はないと。
それでも口にしたのは、大事な幼馴染の真意がどうしても気になったから。
魔が差した、と言っても良い。
香取と異なり、表立って勧誘はしていない華ではあるが。
彼女と同じく、樹里と共にいたいという想いは。
負けないくらい、強かったのだから。
「じゃ、切るね。おやすみ」
『ええ、おやすみなさい』
挨拶を交わし、樹里は通話を切った。
そして携帯をベッドに投げ出し、自身もまた横になる。
「…………ごめんなさい。でも、やっぱりわたしは────────」
少女の呟きが、夜の
憂う少女はそのまま目を閉じ、睡魔に身を委ねるのだった。