「……………………………こちらになります」
「これが…破壊された神の兵器ですか」
「なんと惨い…正直実物を見るまで半信半疑だったが、これほどとはな…」
以前の威厳すら感じさせる堂々たる風貌が、今では見るも無惨な黒いオブジェと化してしまっていた。
神々の至宝『バルカン』。先の戦いによって謎の亜人に砕かれた兵器を、元第3砦防衛部隊隊長であるパウエルは、胃腸が捻くり返る程の気まずさでもって、元の持ち主へと返還した。
人類の存続のためならばと、無理を言って極秘で貸し与えてもらった兵器を破壊され、程なくして砦も奪われてしまった。完全に戦犯ものの大失態である。今この場で殺されていないことが不思議なくらいだった。
目の前にいるスレイン法国の使者2名は、悲痛な面持ちで、バルカンの残骸を見つめている。
あまりの緊張によって、極限まで粘度の高まった唾液を、大きく喉を鳴らすことでなんとか飲み下した。
スレイン法国の六大神に対する信仰は絶対だ。その教えに基づく人類史上主義は、最早狂気の領域に至っているという噂だ。
人間であるパウエルにとって彼らの存在は心強い一面もあるが…それよりも敵対してしまうことの恐怖が勝つ。何故なら彼らの目的はあくまでも人類の存続であり、人類全員の救済ではないのだから。
今回の失態によって人類が苦境に立たされることになれば…それは間接的にだが、パウエルが人類の敵と見做される可能性も十分ありえるのだ。
泉のように湧き出た手汗を、シャツの裾に吸わせる作業に勤しんでいると、使者の1人から声がかかった。
「それで…この蛮行を犯した亜人ですが、砦襲撃の際は存在が確認できなかったと聞きました。本当ですか?」
「はっハイ!件の亜人は膝辺りまで伸びた黒い長髪に、ドラゴンを思わせるような翼と角が生えていたのですが、そのような者はあの戦では見当たりませんでした!!……早い段階で撤退戦となった為、後詰めの兵に紛れていた可能性もありますが…」
乾き切った声帯を肺からの空気で強引にこじ開けて、なんとか質問に答える。後半の方は報告したくない気持ちもあって尻すぼみも良いところだが。
「成程。翼…か。此度の戦いでは兵器のみ破壊して去ったと。では奴はもうあの砦にはいない可能性が高い、か」
「もう次の戦場に移動していると…?」
「ああ。そして我々がまた神々の兵器を繰り出すのを虎視眈々と狙っているのやもしれん」
「それは…穏やかではありませんね。此方がビーストマン相手にとれる手段が大きく制限されることになります」
「だが、逆を言えばある意味簡単に釣り出せる相手、とも言えるな」
「!兵器を餌に…ということですね」
「そうだ。今回は『バルカン』に頼り切った戦術だった為になすすべなくやられたが、奴の出現を予測して戦力を集中すれば或いは…」
パウエルは感嘆の気持ちで目の前の2人を見つめていた。既に気持ちが前に向かっている。
『バルカン』という強力な兵器を失っても、その喪失感に屈することなく、次の対策を考えている。
「あの、私の、我々の処分はいかように…」
「…神々の至宝を2つも損失したのは大きな痛手だが、その犠牲によって強大な敵の存在を認知することができたのだ。これに何も知らない状況で出現されてみろ、どんな結果が待っていたか想像するだけで怖気が走るだろう。敵が定まったなら対策を練らねばならん。小さな敗北にいちいち処分を下している余裕などないのだよ、我々にはな」
そういうとその使者はパウエルの両肩に手を置いて…
「これからも共に戦ってもらうぞ。我々が人類を守るのだ。パウエル君」
「ハッ!!!!このパルエル!!この命を懸けて!全身全霊をもって尽力させていただきます!!」
自然と声が出ていた。無理矢理こじ開けたのではない、心からの鬨の声が。
「その意気だ。あの砦を人類最後の敗北にするぞ」
そう言ってスルリとパウエルの横を通り過ぎて行く2人。
あれが、スレイン法国。あれが、人類の守り手か。あの黒い瞳に燃える炎には、強大な敵に立ち向かう鉄の心が宿っていた。
処分を恐れるばかりで、戦うことを諦めていた自分とは大違いだ。どれだけ小さい男なんだ、自分は。
パウエルは、己の折れかかった心を叱咤する。
戦うんだ。どれだけ強い相手だろうと。立ち向かうんだ。どれだけ絶望的な戦力差だろうと。家族の為、これからの未来を担う子供達の為、そして人類の存続を守るために。
「しかし…『バルカン』をあんな風に破壊するなんて、一体その亜人は何者なのでしょうか」
「今回回収したこの『
「なっ、!あの亜人がそれほどまでの存在だというのですか!?」
「時期は合う。その風貌も力も…竜王と呼ぶには十分だろう。何故ビーストマンに加担しているのかは謎だがな。いずれにせよ早急に報告に上がらねばならん。後手に回れば世界が滅びるやもしれんからな」
「わかりました。帰国次第すぐに議会招集の準備を致します」
「頼んだぞ。私も個人的に報告に向かう。
肩に残った温もりを抱きしめていたパウエルに、2人の物騒な会話が届くことはなかった。
カビ臭い牢獄の中で、イリスは友人に非常によく似た冒険者の言う通り、壁に向かって言い訳の言葉を繰り返していた。
「だっておかしぃじゃないですかぁー。似すぎにもほどがあるでしょーよぉぉ…。そりゃテンションも上がるってもんでしょぉぉーよぉぉ…。こんなのあんまりじゃぁないですかぁぁー…」
「うるっっせぇぞ!!新入り!!いい加減黙りやがれや!!」
「だってしょうがないじゃないですかぁぁー…」
「寝れねえんだよぉ!!頼むから静かにしてくれよぉ!……覚えてろよてめぇ!!」
顔も知らない隣の住人の、鉄格子が揺れるような怒鳴り声も、この荒みきった心には少しのさざなみすら立てることはなかった。
アースガルズを突き抜けるほどの高揚から、一気にヘルヘイムの地の底に沈み込んだ気分だ。もう暫くは這い上がれそうにない。
ただただ気のすむまま、何度目のループになるかわからない言い訳を、呪詛の様に吐き続けるのみである。
それほどまでに今回のダメージは大きかった。なんかもういろいろどうでも良くなる程に。ラガーマンに存在を否定されたような気持ちになった。悲しい。ただひたすらに悲しい。もし精神にhpバーがあったなら、クリティカルヒット判定で即死していたことだろう。
もうとっくに枯れたと思っていた涙が、再び視界をボヤけさせる。
錠を回す音がした。誰かが牢に入ってきたみたいだ。滲んだ視界の向こうに、小太りの男が立っていた。
「おお、これは凄い。こりゃ確かに過去一だなぁ。僕はついてるよ。凄くついてる」
「うおっとと…何?」
両肩を持たれてそのまま地面に押し倒された。両手を前で繋がれているので、受け身が取れずに背中を強かに打ち付けてしまう。
何のつもりだろうか。幾ら罪人だからといっても、やっていいことと悪いことがあるだろうに。
激浸りしていた感傷を邪魔され、イリスはムッとして男を睨みつけた。
「唆る!唆るよぉその顔!僕は一応今日の取り調べ担当なんだけどね。ああ、別に何も喋らなくていいよ。どうせ君死刑なんだし。君は黙って天井のシミの数でも数えているといい」
男はどっかで聞いたことのあるようなセリフを吐き、掛け布団の様にイリスに覆いかぶさると、鼻息を大きく鳴らしながら首筋に顔をうずめてきた。
「たまらないなぁ。これだからこの仕事はやめられないよ」
(あーそう言うことね。はぁ…金の次は体ですか)
荒い呼吸でチュニックの胸元の紐を解くのに苦心している男を、イリスは呆れた瞳で見つめる。
欲望に一直線の血走った顔。同じ欲望でもビーストマン達の方が余程イリスの好みに合っていた。
どうせこの男には己の欲望の為に命を懸ける覚悟などありはしない。牙を向けるのは抵抗してこない弱者だけだなのろう。
人間のことを好きになりたかったけど、こうも黒い部分ばかり見せつけられると、流石にちょっと嫌いになりそうだ。
不細工な子犬に
無理矢理どかしたら殺してしまうだろうか。普通の人間に対する力加減がさっぱり分からない。せめてガラウムくらいの耐久値があってくれれば多少強引に引き剥がせたのだが…
(デコピンくらいなら大丈夫かな)
紐を解くのを諦め、飽きもせずまたベロベロと顔を埋める作業に戻った男の広がった額に、イリスは手枷に繋がれたままの手を持ってくる。
親指に引っ掛けた中指が、ギリギリと力を溜め込んでいき、白くなった親指の摩擦が、限界値を越えようとして…
「≪
「は、はいっ!わかった、わかりました!!ううっ!」
男はピタッと動きを止め、ガチャガチャとズボンのベルトを締め直すと酷く慌てた様子で、駆け足で牢屋から出ていった。
男が出ていった牢屋の入り口には、昨晩イリスを逮捕した赤ローブの小さい仮面の人の姿があった。確か名前はイビルアイと言ったか。
あの時は観察する暇がなかったのでわからなかったが、ローブの下に見える華奢な体つきを見るに、この人はきっと女性なのだろう。
(成程ねー、その手があったか)
すっかり忘れていた精神系魔法の威力に感心しつつ、上体を起して乱れた服を伸ばしてから壁にもたれかかった。
「ありがとう」
「礼などいらん。本当に邪魔だっただけだからな。だが…」
そこまで言って口籠るイビルアイ。数秒の沈黙。そしてやっと言葉を繋げる。
「何故抵抗しなかった?お前ならばあの男を簡単に制圧できたはずだろう。ガガーランを押さえつけた時と同じようにな」
意外な質問に、イリスは少しだけ目を見開く。あの時はただ夢中で抱きついてしまっただけなのだが、彼女達には全く違う印象を与えていたようだ。
もうイリスの膂力はある程度ばれてしまっていると考えて間違いはないだろう。そうなると確かにさっき抵抗しなかったのはおかしな話になる。
単純に殺したくなかっただけなのだが…どうしてかと言われると説明するのが難しい。とはいえ変な捉え方をされて、あの男を受け入れたと思われるのは心外だ。
うーん…と顎に手を当て数秒考え、イリスは答えた。
「すごいお気に入りの真っ白い服にさ、血をいっぱい吸ってお腹パンッパンになった蚊が止まってるとするじゃん?」
君ならどうする?__そのよく分からない質問の意味を理解した瞬間、背筋に怖気が走り、イビルアイは目の前の少女に対する警戒レベルを数段階引き上げた。
つまり彼女はこう言っているのだ。人間など振り払っただけですり潰してしまうような、誤って殺したところで服の汚れに対する後悔しか浮かばない、そんな存在なのだと。
ゴクリと固唾を飲み下す。イビルアイは警戒していることを悟られないよう、努めて冷静を装って答えた。
「そんなに気に入っているのか?その服」
「え?まあ、そりゃ貰い物だしね。お気に入りだよ。…ごめんさっきの話やっぱり無しで。私例え話とか苦手なんだよねぇ。頭悪いからさ。こう言うの上手な人尊敬しちゃうよ」
「そうか?なかなか上手い例えだと思うぞ?人間の社会に紛れ込んだ
「んー?なんかよくわかんないけど褒めてくれてありがとー」
(魔神の部分には引っかからないのか?…もしかして違うというのか?
にこにこと笑い呑気に喜んでいるイリスを見て、張り詰めていた緊張の糸が少し緩む。
彼女のペースに呑まれるわけにはいかない。イビルアイは意を決して本題に入ることにした。
「天空城…と言っていたな。あと空飛ぶ街とも。そしてお前はそこから来た。と、そう言っていた。あれはどういう意味だ」
笑顔が消える。そして困ったような顔をしながら毛先をくるくると弄り始める。
「信じてもらえないと思うけど…ここからずーっっっと南に行ったところにね、でっかい街と綺麗なお城が浮かんでるんだよー。私はそのお城の中で目が覚めて、こっちにやってきたってわけ」
「お前が会いたがっていた人物も、そこにいたのか?…ほら、ガガーランに似ているとかいう」
「いたと…思う。前はみんなお城の中にいたはずなんだけどね。起きたら私1人になってたよ。どこ行っちゃったのかなー」
そう言って酷く悲しげな顔で天井を見上げるイリス。何か、何か重大な思い違いをしている気がする。だが、それはまだ朧げで答えは出てこない。
「みんな、か。何人かいたのか?仲間は」
イリスが此方を見る。そしてまた何かを考えるそぶりを見せ、鎖に繋がれた自分の手のひらに視線を落として口を開いた。白く細長い指を、一本一本折り畳みながら__
「えー…と、エルモアさんでしょ、ガルじぃとモリオと猫缶と…あっとTKでしょ?ユウジさんとドラモンさんとラガちん…全部で8人かな。誰か聞いたことない?ないよね、ハハ」
乾いた笑いが響く。
8人。一致する。一致してしまう。かつてこの世界を支配していた、神にも等しき力を持つ強欲な王の数と。
偶然なのか。いや、偶然で片付けられるわけがない。なぜなら天空城とは彼ら八欲王の根城だったのだから。だが…
(とてもじゃないがこいつが八欲王の仲間とは思えん。そんな力も魔力もオーラも感じない。それに八欲王がいたのは今から500年も昔の話だ。こいつは500年近く眠っていたというのか?それはもはや…封印じゃないか。封印されていたというのか?八欲王が封印せねばならない程の存在なのか…?このヘラヘラ笑ってる女が?いや、ありえん)
腕に抱いた本を持つ力が自然と強くなる。
心の中に浮かんでしまった小さな、だがとても恐ろしい疑念。そんな疑念を晴らすべくイビルアイは話の核心へ迫る。
「お前の仲間の事だが、知っているかもしれん」
「えっっ…!!ほ、本当に!?」
ガシャンと鎖を鳴らしながら牢屋の中腹まで体を引きずってくるイリス。
「あの浮遊都市の名は『エリュエンティウ』という。八欲王達が残した最後の都市だ」
「八欲王?8って…もしかして!!」
「ああ、お前の仲間の数と一致するな」
「ど、どこにいるか知ってる!?私どうしてもその人達に会いたいんだ!お願い!もう、もう…」
耐えられない。イリスは心の叫びを言葉にしようとして…違和感に気づく。何故、彼女が知っている。何故既に八欲王などというよく分からない名前で呼ばれている。
誤差があるのは理解できる。だとしても長くて1ヶ月そこらじゃないのか。そんな間に王様になったのか?いやそれよりも…
そんなイリスの疑問に答えるように、イビルアイは口を開いた。
「あの都市を八欲王が支配していたのはな…今から500年も昔の話だ」
「……は?」
「八欲王がどこにいるかと聞いたな?奴らはもう_」
「嘘だ!!!!」
叫んでいた。その先の言葉を聞いてしまったら、もう正気ではいられない気がしたから。そんな事実を受け入れてしまったら、心がもたない。
だがイリスの脳は、無駄に理解の良くなってしまったこの頭は、頼んでもいないのに手に入った情報を的確に処理して、置かれている状況との整合性を取っていく。それはまるで足りなかったパズルのピースが次々とはまっていくように。
500年。
ギルドホームがダンジョンになったのも、城の下に都市があったのも、城の外に出た時の謎の郷愁感も、アイテムボックスの食材が全て灰に変わってしまったのも、靄がかかったように曖昧なこの記憶も…500年眠りっぱなしなら全部説明がついてしまう。でもそんなものは…
「無理…無理無理無理無理…嘘だよ。絶対、嘘」
「嘘ではない。お前のために本を持ってきた。天空城と聞いたからもしやと思ってな。これには八欲王の神話が綴られている。奴らがこの世界を征服し、
ポンと格子の隙間から投げ入れられた本。震える手でパラパラとページを捲るが、字が読めないので分からない。
だが、この本があるという事実だけで、イリスの希望を叩き潰すには十分であった。
もはや神話になっていたのだ。日本昔話と一緒だ。
みんなは、むかーしむかしの語り口から始まる絵本の中の存在になってしまっていたのだ。それはつまりとっくの昔に…。
彼女があっさりと告げた、滅びと言う言葉。それが意味することは一つだけだ。
イリスだけが転移してきたのならまだ耐えられた。たとえ会えなかったとしても、何処かで繋がっていると思えるから。
でも、そうじゃない。もういない。この世界にも、あっちの世界にも。死んだ。みんな死んでしまったのだ。
みんなと一緒に転移してきたのに、1人だけ呑気に500年も眠っていた。みんなと同じ時間を歩むことなく、こんな時代に目を覚ましてしまった。
残ったのは人の命をなんとも思わない、力だけ有り余ったどうしようもないただの化け物。
無理だ。こんなのは…弱りきった月本茜の残滓だけでは、こんな現実と向き合うことなんてできない。
もう消えてしまいたい。誰もいないどこか遠くへ。
もう何も考えたくない。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
「うわあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
「うわっ!」
目の前の少女の上げた突然の咆哮によって、四方の壁に亀裂が走る。
「落ち着け!まだそれがお前の仲間と決まったわけでは…」
≪トランスソウル/
彼女の悲しみに呼応する様に、赤黒い髪が深海よりも深い黒に変貌する。
肌の色はより白くなり、その背後にはまるで竜の翼を思わせるような大きな漆黒の羽衣が、彼女に覆いかぶさるように顕現する。
イビルアイは束の間言葉を忘れた。それは、本来ならば異様なまでのその光景を、あまりにも美しいと感じてしまったから。彼女の儚げな、今にも散って無くなってしまいそうな表情に、まるで神話の一ページを垣間見たような、そんな気持ちを抱いてしまったから。
切り揃えられた長い黒髪を揺らし、イリスがゆらりと後ろを向く。カビの生えた灰色の壁の方を。
≪
「なん…だと?」
無慈悲な白い光を浴び、耐久値が0になった壁が粒子となって消滅する。消えた壁の向こうには、街灯に照らされた路地がずっと遠くまで続いていた。
白い煙と化した壁の残滓が、亡霊のように彼女の体を通り過ぎて…
「話してくれてありがとね。さようなら」
「お、おい!待てっ!!」
黒い羽衣が僅かにはためいた瞬間、彼女の姿はもうそこには無かった。
「クソっ!!」
慌てて鉄格子を開けて外に出る。空を見上げたが、そこあるのは、空気の読めない満天の星空だけであった。
振り向いて視線を落とす。まるで空間ごと削り取られた様に消え失せた牢獄の壁の跡に触れ、イビルアイは仮面の下の顔を大きく歪ませた。
今なら確信して言える。あれは八欲王に並ぶ存在であったと。実際に魔力やオーラを感じ取れたわけではない。だが、今しがた見せつけられた光景が、瞳に焼き付いた彼女の姿が、嫌というほどそう訴えてくるのだ。
自分はとんでもない大失態を犯してしまったのかもしれない。決して刺激してはならない存在に余計な情報を吹き込んで、そして解き放ってしまった。
あらゆる魔神を屠ってきた過去の経験から、仮に彼女が暴走しても対処できると高を括っていた。
浅はかだった。敵対的な存在には見えなかったが故に、組合長に事情を話して処刑を免除してもらい、友好関係を結べれば、天空城や魔神について有益な情報が得られると考えたのだが、まさかあれ程に動揺させてしまうとは思いもよらなかった。
もし、もしあれが本当に八欲王の生き残りだったのだとしたら…
頭の中に、物語の一節が反響する。
__王の力は神に等しく、強大でした。その力は天を裂き、大地を割り、あらゆる生命を根絶やしにしていったのです__
無惨に殺し尽くされた絵本の中の登場人物に、自分と、そして仲間達と、この世界に生きる人々の姿を重ねてしまい、イビルアイの全身に刺すような寒気が走った。
(怯えていると言うのか…?この私が?)
凡そ百年間感じたことのない恐怖心と焦燥感。無意識に胸元をギュッと握りしめていることに気づき、イビルアイは乱暴に手を離して頭を振るった。
(まだだ。まだそんなに遠くには行っていないはずだ!今ならまだ見つけられるはず!)
その後、イビルアイはあらゆる魔法を駆使してイリスを捜索したが…その微かな片鱗すら、見つけることはできなかった。
いつの間にか森の中に立っていた。独りになりたくて、何も考えたくなくて。
この森には見覚えがあった。樹齢1000年はかるく超えていそうな大樹がゴロゴロとひしめいている、人の介在を全く感じさせない天然の大要塞。
この森の麓には、今でも血に染まったシチューの残骸が、無惨に転がっているのだろうか。
夜の森に響く鈴虫のような鳴き声が、ぐちゃぐちゃになった頭の中を、心地よく通り過ぎていく。
足元に水滴が落ちる。幾つも、幾つも。そうか、泣いていたのか、自分は。泣く資格なんて無いというのに。
あの時もっと早く目覚めていれば、あの時トラップに引っかかっていなければ、あの時アイテムの鑑定なんかしていなければ、あの時ワールドアイテムで身を隠していなければ、あの時ラガーマン達について行っていれば…あの時…あの時…あの時…
「お願いします。神様、私をあの日に戻して下さい。お願いします。お願いします。みんなのところへ…私を…ううぅう…」
胸に抱き締めた指輪の光が弾けて…虚しく消える。あらゆる願いを叶えてくれる流れ星の力でも、不可逆の時間の流れを覆すことはできないのだ。
あの時、あの時、思い浮かぶのは後悔の言葉ばかりだ。こんなことなら何も知らずにあのまま眠っていたかった。スケリトルドラゴンのソウルを纏っていなければ、老衰で眠ったまま死ねていたのだろうか。
(ってこれも後悔じゃんね…)
これからどうしていけば良いのだろう。もう何の目的も無くなってしまった。生きる意味すらも、もうわからない。
「ゲッゲッゲッ、ニンゲンダ。ウマソウナニンゲンガイルゾ!!」
ひしゃげたラッパのような声と共に、茂みからガサガサと小さい猿のような生物が複数出現し、イリスを取り囲んだ。そのそれぞれが、剣や棍棒などの武器を所持している。
コイツらは見たことがある。確か…ゴブリンだったか。
(美味そうな
「ハヤクコロソウ。ハラワタサイテ、チヲノムノヨ!」
「オレダッオレガサキダッ」
もううんざりだ。こんな雑魚モンスターにすら感情があるというのか。
見るな、私を。お前達までそんな目をこっちに向けるな。
欲望に目を輝かせ、滴る涎を舐めずるゴブリン達を前に、無意識に心の隅っこに追いやっていた感情が、ジワジワと染み出してくる。
「オレガサキダッ!オレガハラヲクウ!」
「ジャマスルナッ!オレガハラダ!」
やめろ。喋るな。その欲を口にするな。もうそっとしておいてくれ。ああ、もう駄目。
コイツら全員…
殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せあらゆる知的生命の全てを、この世界を汚す存在全てを屠れ、嬲り、殲滅せよ、殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ
堰を切ったようにドス黒い感情が溢れ出した。この声は、あのドラゴンの屍達の声だ。否、これはもう声ではない。いつの間にかイリスの心奥深くまで浸透し、既に感情の、欲望の一部として、僅かに残った理性を喰らい尽くそうとしている。
(やばい…なにこれ…飲みこまれる!!駄目)
「うう…うううううう!!!!!」
カチ割れそうなほど痛む頭を抑えてうずくまる。流れ出る感情を抑えようとすればするほど痛みは強くなり、遂には全身に、内側から
ああ、この痛みはよく知っている。体を破壊して、命を蝕むこの痛みは。
「ああ…ううああああああああああ!!!!」
あまりの激痛に体を抱えてもがき苦しんでいると、視界の隅に、ゴブリンが棍棒を振り上げるのが見えた。
痛む体を抑えながら、片手で棍棒を受け止め、握り潰す。そのままゴブリンの首を掴み上げ、そっと突き飛ばした。
「グッゲゲゲェッ!オ、オマエラ!ヤッチマエ!!」
草むらにもんどり打って転がったゴブリンから怒号が飛ぶ。イリスは一番近くに来たゴブリンの棍棒を、その骨張った緑色の手の上から強引に握り込むと、降りかかる全ての斬撃を棍棒で受け切り、ゴブリンの体ごと振るって薙ぎ払った。
パキッとゴブリンの腕の骨が折れる音がしたが、この際気にしていられない。
痛みに呻くゴブリンを草むらに放り、竜眼のスキルを発動させる。イリスの片目が血のように赤く染まった。
≪破壊≫
起き上がったゴブリン達の武器が、一斉に砕け散る。己の武器の破片が体に刺さり、苦悶の声を上げるゴブリン。
イリスはそんなゴブリン達を見下ろし、息も絶え絶えの声でなんとか言葉を紡いだ。
「ほら、はやく行きな。私なんか食べても…美味しくないと思うから」
シッシと手を振ると、ゴブリン達は顔を見合わせ、そのまま逃げるようにして慌てて森の中へ消えていった。
「し、死ぬかと思ったぁ」
イリスは近くにあった木の影に座り込み、片手で今も尚痛む額を覆った。
(ヤバかった)
あのまま殺戮衝動に身を委ねてゴブリンを殺していたら…もう戻ってくることはできなかっただろう。
胸に手を置いて心の声に耳を澄ますと、脳裏を掻き毟る屍達の絶叫が鮮明に鳴り響く。
その声にうっとりと流されそうになって…イリスはゾッとして頭を振るった。
なんなんだこれは。
その気になれば世界を滅ぼせてしまえそうなほどの異常に強い力と、呪いのように湧き出る殺戮衝動。こんなの、この世界の敵になれと言われているようなものだ。
この世界はなぜこんなにも残酷な試練をイリスに課すのか。誰も殺したくなんかない。傷つく人を見るのは嫌だ。嫌だったはずだ。
ただでさえ、過酷な世界で生きてきたんだ。みんなが小さいアーコロジーによせ集まって、一日でも多く明日を迎えるために切磋琢磨していた世界で。
人を殺したくなるはずない。一人でも多くの人に、生きて欲しいと、一人でも多くの人と生きて行きたいと、あの地獄のような世界に少しでも一矢報いてやろうと…そう思っていたはずだ。
でも、本当は違うのか?この人間も亜人も、仲良くなったビーストマン達でさえ、全て殺し尽くしたいと思っている自分が本当の姿なのか?
違う。絶対に違う。でも、そうやって否定してくれる人はもう…いない。以前のイリスのことを知っている人はもういないのだ。
掻き毟る音がする。
「嫌だ…嫌だよ…怖いよ、助けてよ、誰か」
グゥ〜と腹が鳴った。呆れた。こんな状況でも腹が減るのか。思えば昨晩のキャンプから何も食べていない。
アイテムボックスを探るが、アムドールに貰った食糧は既に全部食べ尽くしてしまっていた。燃費が悪いのだ。この体は。
ゴブリン共には欲望を抑えろと思っておきながら、自分は腹が減って仕方がないとは、なんとも筋の通らない話である。
イリスはしょぼくれてお腹を摩る。
「お腹空いたな…お肉食べたい」
お腹が空くと心が弱る。心が弱るとその隙をついてあの感情が湧いてくる気がするのだ。
朦朧とする意識の中、食べ物を探そうと周囲に目を凝らすと、目の前の茂みがガサガサと大きく揺れた。続いて大きな絶叫が、イリスの鼓膜を激しく叩いた。
「た、助けて!!誰か!誰かいるんですか!?助けて下さい!!!!」
今度はなんだ。
鉛のように重い体を持ち上げ、声のする方へ体を引き摺っていく。
イリスの目線程にも伸びた雑草を掻き分けると、そこには2人の人間の男が縄で縛られて転がっていた。2人共年齢は30過ぎ程だろうか。働き盛りなのだろう。よく引き締まった肉体なのが、服の上からでもわかるようだった。
イリスの姿を見て、男達の表情が緩む。
(…生贄?これ食べて元気出せってこと?)
そこまで考えてイカンイカンと頭を振るい、湧き出た涎を飲み込んだ。人を食べるのはもうやめた筈だ。
きっとさっきのゴブリン達に連れてこられた、可哀想などこかの村人だろう。断じてイリス用のおやつなどではない。
しかし、今は緊急事態である。腹が減りすぎてなのか、殺意を無理矢理抑えつけた代償なのかわからないが、もう半分も目が見えていない。削るような身体の痛みはとっくの昔に限界値を突破して、最早四肢の感覚すら感じない程になっていた。
今この2人を食べなければ…多分死ぬ。死ぬのは嫌だ。死ぬのは怖い。死は、痛くて、暗くて、孤独で、寂しいから。こんなわけわからない世界でわけがわからないまま死ぬくらいなら…
イリスは男の前に膝をつく。赤黒い髪が、男の肩にかかった。一瞬、安堵した表情の男の顔が、みるみるうちに青ざめていくのがわかった。
こんな風に怯えるなんて、一体自分はどんな顔をしているのだろうか。想像するまでもない。きっと鬼の面も必要ないほどに、恐ろしく醜い顔をしているのだろう。
指が、腕が、口が、舌が、歯が、鼓動が、脳が、この肉体の五臓六腑の全てが、この男を
耐えられるものか。そうだ。耐える必要なんかない。遠慮もいらない。だってこの世界は雑魚ばっかりじゃないか。私は最強だ。誰も逆らえない。歯向かうやつはみんな殺して、みんな食べてしまえばいい。
めきめきと爪が伸びる。体を傾けて、グッと、男の横腹を握った。怯えた呼吸に合わせて、煩わしく動く肉体を握りしめてやる。男の歯の隙間から、呻き声が漏れ出た。
あとはこの柔らかな首を掻き切るだけだ。
噴き出た鮮血を頭の中いっぱいに想像して、イリスは決心する。
肌が透けて見えそうな程に、血の気のひいた男の首を__スルリと通り過ぎて、その手足を縛っていた縄を一思いに引き裂いた。縄を切った勢いのまま、イリスは男の横に倒れるようにして転がった。
真っ暗な天を仰ぎ見て__
「誰が殺してやるかよ。ばっっかやろおおーー!!!!」
つんざくような咆哮が、夜の森に響き渡った。
驚いた夜行生物達が、バサバサと飛び立って咆哮の木霊を掻き消していく。
私が噛み切りたいのは昔っから
「みんな…待ってて。私もすぐ…そっちに行くから…」
彼女は笑った。それはこの世界に来て1番と言って良いほどの、とびきり清々しい笑顔だった。
意識が、途絶えた。