八欲王の生き残り   作:たろたぁろ

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作者の都合で11話からストーリーガラッと変わっているので、今まで読んでいただいてた方はそちらから読んでいただけると助かります。お手数おかけして申し訳ありません。


温もり

 

 

 

 声がする。誰かが何か話している。大きな声で。

 その声はとても乱暴なことを言っているけれど、刺々しい物言いとは裏腹に、私の心を温かいもので満たしてくれた。

 突っ伏していたテーブルから顔を上げると、そこにはお馴染みの面々が、罵詈雑言を投げつけ合いながら、何かの方針を決めている最中だった。

 ホワイトボードに書き殴られた役割分担表。ああ、そうか、今日はダンジョン攻略の日だっけ。そりゃあ荒れるわけだ。

 そうだったそうだった。このギルドは攻略当日が1番揉めるのだ。だって前日には既に煮詰まってるはずの議論を、決まって当日にひっくり返す奴がいるんだから。

 

「やっぱ自信ねーってラガちん。無理!絶対ミスるよ俺」

「TぃーKぇぇぇ!だからなーんでそれを今日言うんだよ!もうこの分担で組んでんだよ!今さら変更なんかできねーんだよ馬鹿タレ」

「無理無理無理。つかあそこのパリィだけなら猫缶でもいーじゃん。マジックキャスターなら誰でもokなんでしょ?」

「だからその後の追撃どうすんのって話だろーが。ちゃんと話聴いてたかおめー。猫缶抜いたら火力が足んねぇの!ここでスタンとれなきゃ終わりなんだっつーの」

「でもそれ俺がしくじっても一緒じゃん。終わりじゃん」

「そうだけど?ミスったら殺す」

「無理無理無理無理無理!!」

「うう…け、喧嘩はよくないですよぉ…」

 

 堂々巡りだ。まあこれはTKが悪い。というか大概の場合TKが悪い。この男はいつも本番ギリギリでしか本音を言わないのだ。再三の確認をした後でこれなのだから、もう救いようがない。

 このままだと埒が明かないので、エルモアさんあたりに収拾をつけてもらいたいが、彼は天井を向いたまま動かない。完全に我関せず状態だ。向かいのモリオも興味なさそーに端末(コンソール)を弄っている。猫缶は揉めている2人をオロオロと見つめており、ユウジさんに至ってはこんな時間なのにログインすらしていない。

 なんと纏まりのないギルドだろうか。普段なら私もイライラしてTKのケツを蹴り上げて、怒鳴りつけて、地面にめり込ませているところだ。

 だけどなんでかな。なんでこんなどうしようもない光景を、腹が立って仕方がないこの日常の一幕を、ずっと見ていたいと思ってしまうんだろう。思わず泣いてしまいそうなほど、愛しく感じてしまうのだろう。どうして私の心はこんなにも温かいのだろう。

 よくわかんないけど今日はすごく気分が良いから、TKに助け舟を出してやることにした。

 

「もぉーしょーがないなー。Tぃー。私が代わってあげるよ」

「イ、イリス様ぁ!!」

「はぁ!?おまっ…どういう風の吹き回しだよ!?ここは一緒にこの馬鹿ど突く流れだろうがよ!?それにお前が抜けてもダウン取れねぇんだけど!?」

「大丈夫だよ。パリィして即効復帰すればいいんだよね?任して任して。裏技あるからさーあ、なんとかなると思う」

「あぁ…流石うちの特攻隊長様…。サンキュー!!」

 

 神への祈りのポーズから、すかさず両手のサムズアップへと切り替わるTKの横で、ラガちんががっくりと呆れたように肩を落とした。

 

「思うってなぁ…。まあ、お前が大丈夫っていうんなら大丈夫なんだろうけどよ。あんま甘やかすなよなー。コイツは一回甘やかすと無限に調子乗るタイプだぞ」

「それは知ってる。だからもうこれキリ!次はないからねTぃー。わかった?」

「あ、はい。わかりました。もうこれで()()にします!」

「よろしい。エルモアさんも…それでいいよね?」

「ん、ああ、いいよ。いいとも!それで行こう!」

「適当だなあ…」

 

 エルモアさんの生返事に、冷ややかなため息で返していると、ピロン♪と子気味の良い電子音が鳴る。フレンドの誰かがログインしたみたいだ。まあ、その誰かなんて1人しかいないけど。

 

「ういーっす。おお!もうみんな揃ってんじゃん!悪い!遅れたわ!」

 

 突然転移してきた赤鎧の男…ユウジさんをみんながジトりと睨み、全員で大きなため息をつく。

 

「遅すぎだろ…。それで?今日は何して遅れたんだ?」

「そりゃぁあれだよあれ…あれよ、家に帰る途中で捻挫したおばあちゃんがいてさ、足が痛くて動けねぇって言うから病院まで連れてってたんだよ。流石にこれはしょうがないべ」

 

 …絶対嘘だ。この人は毎回こうなんだ。メンバー同士が喧嘩していたりトラブっている時は絶対に現れず、いつも物事が片付いてからひょっこりと現れるのだ。それはもうどこかで見ていたのかと疑いたくなるくらい完璧なタイミングで。

 はぁ…それならそれで嘘の設定くらいもう少し考えてほしいもんだ。この間は家のトイレが逆流して家中う○こ塗れになったから〜とか言ってたな。もし本当なら流石にゲームやってる場合じゃねーだろと、みんなで無理矢理ログアウトさせたっけ。

 

「ほう…それでそれで?どこの病院行ったんだ?」

「え?病院って…ほら、あそこだよラガちん。pipiの前の…あっただろ?一階にあるやつ。マジめちゃくちゃ混んでてよ。ばーちゃん診察券ないって言うしさあ」

「pipiの一階ねぇ。あー!あのエレベーターの横のとこか!へぇーあそこそんな混んでんのか。でも偉いじゃん。なかなかできることじゃねーよ」

「そうそこそこ!やーばかったね。今回はマジで間に合ねぇかと思ったわ。まあ困った人はほっとけないし?良いことするってやっぱ気持ちいーわ」

 

 ラガちんに褒められて鼻高々と胸を張るユウジさん。バレっバレの嘘をここまで自信満々に語れるのはある意味尊敬する。いや、まさか本当なのか?でなければこの冷め切った空気を平然と受け流すことなど、とてもできないと思うけれど…。

 

「なあユウジさんよ、あそこの病院なあ…」

「ん?」

「泌尿器科なんだわ」

「…」

「最近は捻挫したら小便診てもらうのか?斬新だなあ」

「……」

「みんなに、ごめんなさいしような?」

「…………………はい」

 

 やっぱり嘘だった。一瞬信じかけてしまった自分が情けない。そういえば知り合った当初は、彼のしょうもない嘘によく振り回されたもんだ。あなたのせいで軽めの人間不信になったことは、一生忘れてやらないからな…ユウジさん。

 

「さて、とユウジくんの謝罪もすんだことだし、そろそろ出発しようか。今日はこのギルドの記念すべき1日となるだろう。みんな、気張っていくぞ」

「「「おう!」」」

「……おう」

 

 エルモアさんの言葉でみんなに気合が入った。絶賛テンションだだ下がり中の誰かさんを除いて。

 喧嘩も揉め事もトラブルもしょっちゅうなチームだけど、最後の最後はなんだかんだで纏まって、なんだかんだで上手くいくのだ。今回もきっとそうなるはずだ。

 

「んじゃさっさと出発しよーぜー!モタモタしてると他のギルドに先こされちまうぞみんな!」

「お前が言うかよ…」

「ホラ、ゆーじさんもいじけてないで入った入った!」

 

 TKは慣れた手つきで≪転移門(ゲート)≫を開き、ぐずるユウジさんの背中をぐいぐいと押しながら門の向こうへ姿を消していく。

 

「毎度のことだけどもうちょっとスマートにできないかな?流石に段取り悪すぎでしょ」

 

 続いて転移門を潜ると思ったモリオが、振り返ってボヤいた。アバターの表情は相変わらずの薄ら笑いだが、声色からしてそこそこご立腹のようだ。

 

「ハイハーイ。今日もう文句は受けつけませーん。明日にして下さいねーモリオさーん」

「ちょっラガちっうわっ!!」

 

 鬼コーチに抱き上げられ、プールへ強制ダイブさせられる哀れなカナヅチの少年のように、モリオが転移門の渦の中に飲まれていった。

 ラガちんはパンパンと手を払う仕草をすると、此方を振り返る。

 

「ったく時間ねーってのに。ほらイリス、ウチらも早く行こーぜ!」

「うん」

 

 返事をして立ちあがろうとしたところで、強烈な既視感に襲われた。なんだろう。これと同じような台詞をどこかで…

 ばくっと心臓が跳ねる。じっとりとした緊張が全身に駆け巡った。

 駄目だ。あの門を潜っちゃ駄目だ。潜らせちゃ駄目だ。何故だかわからないけど頭の中ではっきりと警告音が鳴り響いていた。

 転移門(ゲート)が唸る。まるで目の前の獲物が罠に掛からないことに焦れたように。

 

「ラガちん待って!何かおかしいよ!」

「ん?何が?やべー早く行かねえとマジで間に合わねえ」

「待ってってば!!行ったらダメ!!」

 

 転移門を潜ろうとするラガちんに駆け寄ろうとした瞬間、目の前にぬるりと小さな老人が現れ、皺くちゃな手で私の行く手を阻む。

 どうして…

 

「イリス君はちょっと待ってくれないか」

 

 ああ…そうか。私はもう。

 

 ラガーマンが転移門に引きずり込まれる。ガルバリンを突き飛ばし、駆け出そうとするが、体が全然前に進まない。何かが体に巻きついて、私を後ろに引っ張っている。

 何だ。邪魔するな。行かなきゃいけないんだ。私は、私は、ラガちんを、みんなを__

 ふと自分の体を見ると、巨大な手がガッチリと腹部に絡みついていた。ツンと鼻を突く()えた臭い。

 その手は腐っていた。所々血が滲み、噴き出した膿が顔にかかる。

 

「ひっっ!!」

 

 あまりの光景に顔を逸らすと、誰かに頭を鷲掴みにされ、思い切り髪を引っ張られた。

 引っ張られるままに顔が上を向く。真っ白なはずの天井からドス黒い液体が滲み出し、ボタボタと滴り落ちてきた。

 それはスライムのように動き出し、私の身体を這い回ったかと思うと、宿主を見つけた寄生虫の如く、身体の中に入り込んできた。

 悍ましい感触に発狂しそうになる。どれだけ必死に叫んでも誰にも届かない。

 

「なあイリス」

 

 声がした。聞いたことのない声だった。

 

「お前は」

 

 

 

 私の物だ。

 

 

 

 

 

 

 

「わああああああああああああああああああああ!!!!!!」

「「「「うぎゃああああああああああああ!!」」」」

 

 飛び起きたと同時に、数人の小さな人間達がバタバタと慌てふためきながら一目散に逃げていった。

 小さな人間達?いや子供達と言った方が適切だろうか。

 逃げていった先では閉め忘れられた扉が、キィキィと悲しげな音を立てて揺れていた。

 扉の隙間から流れてくる柔らかい風と、仄かに香る土の匂い。

 見慣れない木製のベッドの上にいた。

 ふと横を見ると、はめ込み式の薄汚れた窓に、見覚えのあるアバターの酷くやつれた顔が映っていた。

 窓の向こうで風の動きに任せて揺れる草木をぼーっと眺めていると、少しだけまともな思考が戻ってきて、イリスは膝を抱きその上に額を預けるようにして項垂れた。

 死んでない。またこの世界に帰ってきてしまった。   

 じくじくと心の底から滲んでくる殺戮衝動も、それを抑えている時の、耐え難い頭痛と体の痛みも健在だった。腹が背中につきそうな程の空腹も。

 これは罰なのだろう。怒っているのだ。イリス(この子)は。

 みんなが突然の転移で混乱する最中、自分が呑気に崖の底で眠っていたことに。これだけ並外れた力を持っておきながら、その一切を発揮することなくこんな平和な時代に目覚めたことに。

 きっと大変なことがあったはずだ。そしてイリス(この子)の力があれば助けになれたことだって、救えたものだって、沢山あったはずだ。

 みんながどんな最期を迎えたのかなんて分からないけど…どうしてもハッピーエンドで終わったとは思えなかった。

 

__この世界を征服し、滅びるまでの物語が、な__

 

 牢獄でのイビルアイとの会話を思い出す。彼女から発せられる言葉一つ一つに、どこか棘のようなものを感じなかったか。

 征服、支配、滅び、そして八欲王。どれも平和に世界を統治した王様から連想される言葉ではない。どちらかと言えば恐怖の魔王ではないか。

 イビルアイ自身、八欲王に対する嫌悪感を微塵も隠していなかったように思う。

 それほどまでに嫌悪される何かがあったのだ。

 想像したくはなかった。ユグドラシルのステータスをそのまま持ってきたような世界で、レベル100という上限に達したプレイヤーが行う嫌悪されるべき()()など。

 イリスがいたなら何か変わっていたのだろうか。彼らが道を踏み違えそうになった時、真っ向から向き合って寄り添うことが出来たなら、彼女から語られる言葉は、もっと違うものになってたのではないだろうか。

 だが、結局自分は間に合わなかった。寄り添うどころか寝ていただけだ。戦う力を持っていながら、一人だけ世界級(ワールド)アイテムに隠れて、安全なところでぐっすりと。

 ガリガリと削れるような痛みが走る。

 だからこれは罰なのだ。振るうべき時に振るうべき力を使わなかった愚か者は、いつ爆発するとも知れぬ巨大な爆弾(ちから)と殺戮衝動という火種を抱えて、異形種の永劫とも思える寿命の中、死ぬまで針の(むしろ)の上を歩いて行けと、そう言われているのだ。

 立て続けに見るこの悪夢も、友に手を差し伸べることが出来なかった自責の念が見せているものなのかもしれない。

 

「お姉ちゃん大丈夫?すごく震えているよ?」

「えっ」

 

 突然肩に置かれた温かい感触。伏せていた顔を上げると、ビー玉のような二つの瞳と目が合った。

 そこには麦わら帽子を被った、少しクセのある茶髪を2つ括りにした可愛らしい女の子がいた。

 そばかすのある顔を歪ませて、心配そうな表情で此方を覗き込んでいる。

 

(やばいっ!!)

 

 咄嗟に彼女に伸びそうになった右手を、もう片方の手で握り締め、腹の上に抱き込むことでなんとか抑えた。

 折れる程の力で握っているにも関わらず、その手はグラグラと震え、目の前の獲物を八つ裂きにしろと吠えたけっている。

 

(やめろやめろやめろやめろやめろ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ考えるな考えるな考えるな)

 

 無差別すぎるだろう。こんな小さな子供まで殺意の対象だと言うのか。ここぞとばかりに屍竜達の殺人絶叫コールが頭の中に響き渡った。

 あまりの声量に頭が爆発しそうだ。外に聞こえていないのが不思議なくらいである。

 

(大人気ないとは思わんのかこの腐れドラゴンどもがああ!)

 

 握っているだけでは駄目だ。

 イリスは体を起こして両膝をつくと、暴れる右腕をベッドの床板に押し付け、全体重をかけて押さえ込んだ。

 

「う、うおおおおおお鎮まれええええええ!」

 

 イリスの意に反してバッタバッタとのたうつ右腕。

 気性の荒い野良猫の如く暴れ狂う己の一部と、死に物狂いの格闘を繰り広げていると、ちょんちょんと肩をつつかれた。

 さっきの少女だろう。だが今はかまってあげられる余裕が無い。彼女に危害が及ぶ前に一刻も早くここから離れてもらわなければならない。

 

「ごめんっ!!危ないから外にで…て?」

 

 半ば絶叫しながら少女の方を向いて、イリスは驚いて言葉を詰まらせた。

 それは彼女の表情が、ビー玉のようなその瞳がとても光り輝いていたからだ。

 明らかな羨望の眼差し。それはまるでメジャーリーガーに握手してもらった少年のような…

 

(え、なんで?怖がるところだよね普通)

 

「ねぇ…(うず)くの?」

「えっ」

「疼くんだよね!?呪いの右腕が!ねえもう一回!もう一回やって見せて!!」

「いや、もう一回も何も…うおおおおおお鎮まれええええええええ!!」

 

 気が抜けた瞬間動き出した腕を抑えつける。

 イリスは理解した。この子は何か猛烈な勘違いをしているのだと。

 

「うはぁ。そうやってやるのかぁ。カッケェ…」

 

(ご、ごっこ遊びだと思われてるー!!)

 

 冗談ではない。こちとら必死なのだ。そんなパントマイムの達人を見るような目で見つめられるのは心外極まりない。

 

「上手だなぁ。ねえ?こう?こう動かしたらいいの?」

「キミさぁ…」

 

 無邪気に腕をこねくり回している少女をイリスは恨めしい目で睨んだ。

 この少女に言いたいことは山ほどあるが、依然として危機は危機のままである。さっさと逃げてもらわなければ、ふとした拍子に殺してしまうかもしれない。

 だが、この少女に危機感を持ってもらうのは最早不可能だろう。大変不本意ではあるが、ごっこ遊びの延長でうまいこと出て行ってもらうしかない。

 イリスは2秒ほど目を閉じて決心した。恥を捨てる覚悟を持って。

 

「うおおおおお!!じ、邪悪な力が溢れてくるぅぞぉー!!このままでは漆黒のパウァーが世界を滅ぼしてしまうううううう!はやく、早く外に逃げるんだ小娘ぇー!!」

「…小娘じゃないし、ネムだし。お姉ちゃん元気そうだね。心配して損したよ。今からお父さんとお姉ちゃん呼んでくるから待っててね」

「え」

「あ、それと()()()()()お姉ちゃん怒るからお姉ちゃんの前では()()やらないでね。もう()()()なんだからちゃんと真面目にしてね。じゃあ」

 

 そういうと、ネムと名乗った小娘は乱暴に扉を閉めて出て行ってしまった。

 少し遅れて、土の匂いを乗せた隙間風が、部屋の中を通り過ぎていった。

 

「………クソが」

 

 しんと鎮まりかえった室内。すっかり静かになった右腕を抱いて、イリスは情けなさのあまり少しだけ泣いた。

 

「ん?」

 

 服の袖で涙を拭ってみて気がついた。自分の服が変わっていることに。

 年季の入った生地の分厚いダボダボのシャツにダボダボのズボン。アムドールに貰ったチュニックとローブよりも使い古されているのではないだろうか、襟が緩すぎて肩からずり落ちそうだ。

 改めて部屋を見渡すと、甲斐甲斐しく看病してくれたであろう痕跡が幾つか見てとれた。

 枕元のキャビネットの上には水の張った桶があり、それに浸るように布が数枚かけられている。部屋の隅に置かれた籠には、取り替えられたであろう血のついた服が山のように…血?

 ベッドから下りて籠の中を漁ってみる。イリスの着ている服と同じような物が複数…そのどれもにべっとりと赤黒い染みがついていた。

 顔に近づけて匂いを嗅ぐ。

 人間のとは違う異質な臭み。そしてこれだけ近くで嗅いでも、全く食欲がそそられないということは…

 

(これ私の血…なのか?)

 

 体の何処にも外傷はない。それではどこから出血したというのか。

 ゴソゴソと奥の方も探ってみるが、見たところ血が付着しているのは上の服の前面ばかりだった。

 

血反吐(ちへど)撒き散らしたってこと…?寝てる間に?…マジで死ぬ寸前だったのかな)

 

 何にせよ人間のものでなくて良かったとイリスはホッと息を吐いた。眠っている間に人間を襲ってしまっていた可能性もあったのだから。

 と、部屋の外からバタバタと複数の足音が近づいてきた。

 慌てて服を籠に戻し、ベッド上にダイブする。

 これだけ世話になったのだ。お礼もせずに去ることはできない。また殺意が暴走しそうになればすぐ≪転移≫でここから離れれば良い。

 そう考えながら、さも何事も無かった様な表情を苦心して作ること数秒後、部屋の中に高めのノック音が数回響いた。

 

「どうぞ…」

「開けるよ」

 

 そう言って入って来たのは背の高い茶髪の男と、栗毛色の髪をした少女。そしてその少女の服の裾をぎゅっと掴んで此方を覗き見る小娘…ネム。

 3人を一瞥するが、脳が完全に覚醒しているからなのだろうか、さっきのような異常な殺意の奔流は湧き出てこなかった。

 もしかしたらイリスの自我…月本茜の残滓が弱まるとアレの力が強まるのかもしれない。

 安堵と共に緊張していた腕の力を抜く。

 そしてその力の抜けた手を、唐突にガシッと握られた。

 

「うげ」

「目を覚ましたんだね!良かった…!良かったよ!正直もうダメなんじゃないかって…良かった!!」

 

 ネムによく似たビー玉のような瞳に涙を溜めて、茶髪の男は良かったと、そう繰り返した。

 

「あ、えと…この度はその…ありがとうございました。助けていただいてしまって…」

「とんでもないよ!助けてもらったのは僕なんだから!君がいなければ今頃僕はゴブリン達の腹の中だよ」

「あ」

 

 その言葉にイリスはハッとした。そうか、この男はあの森で転がされていた2人の内のどちらかなのだと。

 状況が状況だったので正直顔など覚えていないが、多分こんな感じの雰囲気の人間だった気がする。

 ということは…この男はあの後イリスをおぶって森を抜け、この家まで運び込んだということになる。

 全くご苦労なことだ。わざわざ命懸けで森を抜けてこんな化け物の看病をするとは。

 何にせよこれ以上厄介になるわけにはいかない。ふとしたきっかけでメンタルが弱れば、また暴走してしまうかもしれないのだから。

 

「いや…こちらこそホント世話になりました。もう大丈夫なので…それじゃ、失礼しました」

「えっ」

 

 そそくさとベッドから降りて足早に立ち去ろうとして…部屋から出る瞬間に腕を掴まれて、思い切り部屋の中に引き戻された。

 背中に衝撃が伝わる。どうやら箪笥(たんす)に叩きつけられたらしい。

 

「???!?」

「こんっなフラフラで…大丈夫なわけないでしょ!!」

「エ、エンリ!?」

 

 見れば栗毛色の髪の少女が、イリスの襟元を掴み上げ、鬼の様な形相で此方を睨んでいた。怖い。

 

「あなたは…5日も、目を覚まさなかったんです。ずっと凄い熱で、ずっとうなされていて、動いたと思ったら沢山の血を吐いて…。私も、お父さんもお母さんも…ネムだってすごく心配しました」

「……」

「本当にもう助からないと思いました。熱は全く引かないし、吐血の量も回数もどんどん増えていって、でも私には…服を取り替えて、体を拭いてあげることくらいのことしかできなくて。私お父さんの命の恩人にお礼すら言えないのかなって思って…すごく悔しくて、悲しくて…それにまだ、あなたの名前だって聞いてないのに…」

 

 胸元に顔を埋めて肩を震わせている少女に、イリスはかける言葉が見つからなかった。

 自分はそんな風に泣いてもらえるような存在ではない。

 あの時だって、紙一重だった。

 あとほんの少しでも欲の力に負けていれば、イリスは命の恩人どころか、父親を食い殺した憎き怪物と成り果てていたはずだ。

 今だって、心の中にある頼りない扉の向こう側へ一歩でも踏み込んだなら、イリスはなんの躊躇いもなくこの一家を惨殺することだろう。この一家だけじゃない、この村の人間全てを殺しても、この衝動は収まることを知らず、世界中の生き物全てを屠るまで止まることはない。

 もう嫌なんだ。イリスは死ぬべきなのだ。この世界に生きていて良い存在ではないのだ。

 助けてほしくなんかなかった。あのまま森の中に捨てておいてくれればよかったのだ。

 苦しい。彼女から伝わる温もりが、痛い。

 誰よりも黒い心を持っているくせに、とっくに芯まで冷めきっているくせに、その仄かな温もりに縋りたくなっている自分の醜さに反吐が出そうだった。

 

「わ…たしは…」

「でも、あなたは目を覚ましてくれました。目を覚ましてくれたんですよ!だから、精一杯看病させてください。あなたが本当に元気になるまで。もう絶対にこんなフラフラになんてさせませんから!!」

 

 肩を持たれて揺さぶられる。確かにフラフラだ。こんな少女に、まるでぬいぐるみのように振り回されるとは、一体どれだけ弱っているのか。

 でも駄目だ。改めてよく分かった。もう自分は生きていてはいけないのだと。

 この家族の優しさは、今のイリスには猛毒だった。

 この世界がいっそ悪人だらけなら良かったのに。みんなが欲に塗れた化け物なら、思いっきり暴れて思いっきり殺し合ってやれるのに。

 ああ、さっさとあの森にでも戻ってケリをつけてしまおう。そうだ。弱っているなら好都合じゃないか。

 誰もいないところでひっそりと、誰にも気づかれることなく、死ね。

 イリスは目の前にある栗色の頭をわしゃわしゃと撫でた。

 

「もういいんだよ、私のことは。いっぱい看病してくれてありがとうね」

「え…」

「服も沢山汚しちゃってほんとごめんね。これ、服代の足しにでもしてよ。何円入ってんのかわかんないけど」

 

 呆然としている彼女の手に、アイテムボックスから取り出した、おにぎり大の皮袋を握らせる。

 バアルから貰った前金である。アイテムボックスに入れていたおかげで没収されずに済んだのだ。この世界の金の価値はわからないが、新しい服を数着買うことくらいはできるだろう。

 

「ネムちゃんもさっきはびっくりさせちゃってごめんね。あれはこの年代特有の病気みたいなもんだから…うん、忘れちゃってくれ」

「えーやだよ。めっちゃ上手だったじゃん。今度みんなの前でやってみせてよー」

「絶対やだ」

 

 そういうとイリスは部屋の奥にいるネムの父親に深々と頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました。いっぱい迷惑かけといてこんなこというのもアレなんですけど…良かったです。最後にこんな温かい人達に会えて」

「なんですか…それ」

「さようなら」

 

 父親の返事を待たずに踵を返すと、イリスはリビングに出て出口を探す。玄関と思しき扉を発見し、そちらに向かおうとして__

 

 

「死んだらダメだあああああああああああああ!!!!!!!」

「ぎゃっ!!」

 

 背後からアメフト選手もびっくりの強烈タックルを見舞われ、顔面から床に突っ込んだ。

 

「な、なにするんだよぉ!!」

「エンリはそっちの足抑えて!!ネムは玄関に鍵かけて」

「は、はいっお父さん!」

「了解!」

 

 床に組み伏せられて腕と足を押さえられた。これくらいちょっと暴れれば簡単に振り解くことができるだろうが、怪我をさせるのが怖くて動けない。

 マウントを取ったネムの父親が、肩で息をしながら此方を見下ろしている。

 

「…何のつもりですか」

「死んだらダメだよ。君は、生きないと」

 

 何故バレたのだろう。顔にでも書いてあったのだろうか。

 だとしても大きなお世話である。

 生きろなどと…何も知らないからそんなことが言えるのだ。自分が今取り押さえている相手がどれほど危険な力を持っているのか。そしてどれだけ黒い欲望をその身に宿しているのか。

 知ればきっと軽蔑し、恐怖し、生かしてはおけないという結論に至るはずだ。

 当たり前だ。誰がお前とお前の家族を殺したくて堪らないと心の底から思っているような奴に、生きろなどと言えるだろうか。そんな奴がいるのならそれは完全に異常者だ。

 でもそれなら、本当にそう思っているのなら、さっさと本当の事を話せば良いのに、何故自分はそうしないのだろうか。

 今すぐ竜化して炎の一つでも吹いてやれば良い。何故それができないでいるのか。

 

(黙れ…私は、私だって…本当は)

 

「君が…今一体何と戦っているのか、何に苦しめられているのかは僕にはわからない」

「…」

「きっと凄く辛い思いをしてるんだと思う。それは僕の想像を絶するようなものなんだろう。…でもその目を見ればわかるよ。君は__」

 

 男の顔が緩む。まるで産まれたての赤子を見るような優しい瞳。

 

「生きたいんだろ?」

「__ッ!!」

 

 言葉が出ない。もうやめてほしい。グラグラグラグラ、元々そんな強い意志なんて持ってない。自分で考えるのも苦手な方だ。

 でも無い頭なりに考えて結論を出したのだ。もうこれしか無いと。

 だからそんな決意が揺らぐようなこと言わないでほしい。

 生きたいよ。生きたいにきまってるよ。あっちもこっちも同じくらい残酷な世界だけど…それでも生きたい。変わらない明日が見たい。

 美味しいもの食べて、色んな所に行って、好きな人達と好きな話して馬鹿みたいに笑っていたい。そんなの、当たり前じゃないか。

 でも、そんな当たり前を誰かから奪うのはもっと嫌だ。それだけの話なんだ。

 

「駄目なんです…私は、私は死なないといけない。生きてちゃいけないんですよ」

「そんなわけあるかよ」

「いや…」

「あの日、君は僕を助けてくれた。なにか、とても恐ろしい何かから僕を守ってくれた。それが原因で君は5日も生死の境を彷徨うことになった…そうだろ?」

 

 腕を持つ力が強まった。きょときょとと視線を散らすイリスの目を、ビー玉のような瞳が真っ直ぐに見据えている。

 これはゴブリンのことを言っているのではない。この男は恐らく…気がついている。いや、勘づいていると言った方がよいだろうか。

 イリスの中で蠢いている化け物の存在に。

 

「今もそうなんだろ?なんで抵抗しない?それは君が僕達を傷つけたくないと思っているからだ」

「あな…あなたに何がわかるんですか。私の…」

「君はとても優しい子だよ。僕にはわかる」

「え…」

「他人のために苦しい思いをできる子が、悪い奴なわけあるかよ。君はとっても優しくて、強い子だ。だから、生きてちゃいけないなんて言わないでくれよ。恩返しをさせてくれよ。君の苦しみを取り除くために、できることをしたい」

 

(なんでよ…)

 

 この世界に来てから、ずっと欲しかった言葉。どうして仲間からじゃなく、ラガちんからでもなく…こんな何も知らない筈の人から…。

 この人の言葉はずっと、イリス(アバター)ではなく茜自身に語りかけてくるようで…

 泣かない。泣いたら負けだ。しかし、イリスの意に反してその瞳には既に、決壊寸前なほどの涙が溢れていた。

 

「君みたいな優しい子が死ななければいけない世界なら、それはもう必要ないかもな、ハハッ」

「優しくなんか無いし…クソ野朗だし…」

「ごめんね!僕はこの目で見たものしか信じない様にしてるんだ。この世界は嘘つきばっかりだからねー。自分にとって大切な物はこの目で見極めるって決めてる。それでいくと、僕は君にすっっごく生きてほしいと思ってるんだけど…ダメかな?」

 

 男は立ち上がってイリスの横に膝をつくと、はにかんだ顔で此方に手を差し出した。

 変われるのだろうか、自分は。生きていても良いのだろうか。

 不思議だった。この人の瞳を見ていると、なんだか本当に昔の自分に戻れたような気がして。

 結果がどうなるのかなんてわからない。でも、もう少しだけ頑張ってみようと思えた。

 少しずつ、少しずつでいい。人の心を取り戻すことができるのなら私は__

 差し出された手を掴む。分厚い皮をした大きな手だった。

 

「イリスです。もう少しだけ…お世話になります」

「エイドだ。エイド・エモット。カルネ村にようこそイリス、歓迎するよ」

 

 

 

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