八欲王の生き残り   作:たろたぁろ

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勇気

 

 

「おはよーエンリ」

「あ、イリスさん。おはようございます…もうすぐお昼ですけどね」

 

 ジトっとした少女の瞳が突き刺さり、イリスはばつが悪そうに寝癖のついた髪をわしゃしゃと掻いた。

 

「ごめん。目覚ましないとなかなか起きられなくって」

「だから一緒に寝ようって言ってるじゃないですか。一人だけあんな離れの小屋で寝るなんて、変ですよやっぱり」

「んー…でもやっぱりまだ怖いかなって。寝起きでみんな血塗れになってたらシャレにならないじゃん?」

「それが心配だから言っているのに…。せめて隣の部屋でも」

「ごめん、心配かけて。でも大丈夫だから。お陰様で最近すごく体調いいんだー」

 

 軽く伸びをした後、ニヤリと犬歯を覗かせて力こぶを作ってみせると、呆れと諦めの混じったため息が返ってきた。

 

「ハァ…それならいいですけど。朝ご飯、ここに置いておくんで早く食べちゃって下さいね。私倉庫の方に行ってますから、何かあったら呼んでください」

「うわあ…!これサンドイッチって奴?めちゃ美味しいそう。ありがとうエンリ」

「どういたしまして。お口に合うかわかりませんけど」

「合うよ!合う!絶対好き!」

 

 テーブルに置かれたバスケットの中には、ハムと卵をふわふわのパンで挟んだ肉厚サンドイッチが3つ、それにレタスっぽい何かが添えられていた。

 見ているだけでその味に期待がいっぱいに膨らみ、涎が溢れてきそうだ。

 エンリを見送ってからテーブルに着き、サンドイッチに舌鼓を打つ。

 食事は良い。平凡な一日において、最も幸福度の高い時間と言えるだろう。

 栄養が体の隅々にまで染み渡っていき、活力が漲ってくるのが分かる。滅茶苦茶に制限のかかったhpの上限値が、ぐんぐんと上昇していくようで…。

 だが__

 

「あー…お腹空いたな」

 

 バスケットの中身を全て平らげても、イリスの空腹は全く満たされることはなかった。

 と言うより、この家で目覚めてから一度も満腹になっていない。この村に来てからもう三日目になるし、沢山食べさせてもらった時もあったが、食べ物を飲み下した瞬間から消滅しているのかと疑いたくなるほどに、胃に物が溜まる感覚がない。

 そして当然の如くう○こも出ない。というか体外に何かが排泄されることが無くなった。

 これは由々しき事態である。取り込んだ質量は一体何処に消えているのか。限界突破したら爆発四散して死んでしまうのだろうか。

 

「う○こで…死ぬのは嫌だよなぁ」

 

 いつだったか。酷い便秘により腸に詰まった大便がコンクリート並みに硬くなり、排便できずに死んでしまった人の話を聞いたことがあるが、そんな死に方だけは御免だ。なんとかして原因を見つけなければならない。

 ぐぅ〜と腹が唸る。

 腹が減るだけならまだ良いのだ。我慢すればいいだけだから。

 この数日で分かったこと。それは例の殺戮衝動とこの空腹感は、かなり相関性が高いということだ。

 少しお腹が空いた程度ならまだ全身の激痛に耐えればなんとかなるが…飢餓状態になるとやばい。その状態で人に会おうものなら、この間の腕の暴走のように身体の一部が全く言うことをきかなくなるだろう。

 寝起きは特にその状態になる可能性が高いため、誰かと一緒に寝たりなどは、危険すぎて絶対にできない。

 エモット家には迷惑をかけるが、有効な対処法が見つかるまでは、とりあえず離れの小屋で夜を明かすしかないのだ。

  

(まあ…それならもうちょっと早起きしないとだめだよね)

 

 立て付けが悪く半開きのままになった窓から、すっかり日の高く昇った空を眺め、イリスは下唇を噛んだ。

 目覚まし時計が欲しい。朝日で目を覚ますなんて、そんなのついこの間まで現代っ子だった人間にできるはずがない。

 だが、このままでは完全なる穀潰しである。

 働かざる者食うべからずという言葉がある。イリスもその言葉に倣って家事当番に名乗り出たのだが…食器洗い中にお皿を五枚粉砕し、洗濯中に服を3着ほど引き裂いたところでエンリから怒りの戦力外通告を言い渡されてしまった。

 この体は力加減が難しい。高レベルの肉体だからなのだろうが、どうもそれだけではない気がする。

 そもそも持っている職業(クラス)や種族が戦闘に特化しすぎているから、繊細な作業をすることができないのだろうか。

 テロワールなどの生産職系のソウルを纏えば少しはマシになるのかもしれないが、ドラゴンソウルの使用は極力控えたかった。

 見た目が変わるのは勿論そうだが、精神的な部分にも影響がある気がして…。

 人の心を取り戻すと決めたのだ。

 ユグドラシルの能力に頼るのはもうやめよう。この平和な世界にこんなスキルは必要無いのだから。

 くよくよしていても仕方がない。今は自分にできることをしなければ。

 

「うし、そろそろ出かけますか」

 

 皿洗いができなくても、それ以外の仕事はいくらでもある。人間はとても忙しい生き物なのだ。

 エイドがイリスにもできそうな仕事を見繕ってくれると言っていたが、それに甘えるつもりはなかった。

 フィジカル特化のこの身体に向いている仕事なんて一つしかないじゃないか。

 イリスは今日の夕飯を狩るために、近場の森へと向かうのだった。

 

 

「うぅー。冷たっ」

 

 流れ行く水に突っ込んだ足先から、痺れるような刺激が伝わってくる。

 陽の光を反射して、キラキラと光る水面をザブザブと踏み潰しながら、イリスは川の中腹に向かって歩みを進めた。

 シャンシャンと木々の間を乱反射する、騒々しい虫たちの求愛コールはすっかりミュートして、川上から流れる圧倒的質量の爆音へと切り替わっていた。

 ここはカルネ村を西に外れたところにある森林である。この森を北に進めば、イリスがエイドを助けた『トブの大森林』へと繋がっているそうだ。

 そこまで地続きなのであれば、ここもトブの大森林と言えるのだろうが、そこに関しては村人達の中でしっかりと線引きがあるらしい。

 実際あの大森林は、仙人のような大樹がひしめく正に古代樹の森と言う名が相応しい場所であり、それに比べるとこの辺の森は、若い木々のよせ集まった雑木林と言ったところだろうか。

 この森には、大森林の無慈悲な食物連鎖から逃れてきた()弱い野生動物達が沢山生息しており、水場も多く点在しているので、カルネ村の人達にとってはなくてはならないライフラインの一つなのである。

 

「よしよし、この辺でいいかな」

  

 腹の辺りまでの深さになったところで止まる。ゴツゴツとした石ころをしっかりと踏み締めて、イリスは流れ行く水面をじっと眺めた。そして__

 

「そりゃっ!!」

 

 パシャっと水を(えぐ)るように腕を振るう。その手の先には、水中から弾き出された大きな魚がいた。

 魚は程よく太った体をくねらせながら宙を舞い、綺麗な放物線を描いて、イリスが川辺に作った石で囲まれた生簀へとダイブしていった。

 

「ナイッシュー!」

 

 思わずガッツポーズ。この調子でどんどん捕ろう。夕飯ように五匹、自分用に十匹は欲しい。あと村の人達へのお裾分け用も。

 イリスは流れに身を任せるしか無い哀れな獲物達にに向かって獰猛な笑みを浮かべた。

 

 

「大漁大漁!もうこれだけで食っていけそうだな私。ふふふ」

 

 魚達でギチギチになった生簀を見て、イリスは満足気に微笑んだ。

 漁の途中で何匹か丸呑みしているので、ある程度空腹も満たせている。やはり量の問題だったみたいで、一定以上摂取すれば腹にはしっかり溜まるようだ。

 絶好の食事ポイントに気分を良くし、イリスは鼻歌交じりに魚達をアイテムボックスへ放り込んでいく。

 

「空をを食い破って飛んでいけ〜♪果てなき世界へグッドモーニンッモーニンッ遅れぇはとるなよ〜♪」

 

 昔見ていたアニメの主題歌。歌詞などすっかり忘れていると思っていたが、意外と覚えているものだ。

 こうやって記憶の奥にあるものをどんどん掘り出していけば、いつかは昔の自分に戻れるのではないだろうか。

 

「……!!……く!……ろ!!!!」

「ん?」

 

 何か声が聞こえる。川上の方からだ。

 

「子供の声だな…。それも複数」

 

 イリスは魚を手早くしまうと、声を頼りに森の奥へと向かった。

 暫く川沿いに北上していくと、ごうごうと水音が大きくなっていき、やがて大きな滝が見えてきた。

 

「こりゃ迂回しないと登れないかなあ。…おやおや?」

 

 切り立った崖の上に目を凝らすと、数人の子供がいた。あれは確か村の…。

 

「あんなところで何やってるんだろ。あっ」

 

 その中にはネムがいた。何かに怯えているような表情、そしてその目尻には涙が浮かんでいた。

 

「早く飛び込めよ!ネム。あとお前だけなんだぞ!!」

「う…。無理無理無理だよ!!やっぱり怖い!!」

「ビビりかよ。飛び込まないんだったら次からアダマンタイトの役やったらダメだからな」

「そんな…ひどいよ」

「当たり前だろ?ビビりのアダマンタイトがどこにいるんだよー!そんなの絶対おかしくねー!」

 

 他の子供達からも賛同の声が飛び、ネムの目にもっと多くの涙が溜まっていく。

 成程。どうやらここはカルネ村の子供達の遊び場のようだ。そして会話の内容から察するに、この滝はいわゆる通過儀礼のようなものなのだろう。

 この滝に飛び込むことで勇気を示し、共通の困難を乗り越えた仲間として絆を深める…とかそんなところだろうか。

 なかなかアグレッシブな子供達だ。この滝ざっと高さ30メートルはありそうな上に、そこまで川幅が広いわけでもない。

 これを10歳にも満たない少女に飛ばせるなどなかなかに酷な話である。

 仮にイリスが同じくらい年齢の時なら…いや多分嬉々として飛び込んでいるか。そもそもこんな大自然で遊べることなどなかったから。

 

「はーやーく!とーびこーめー!!はやく、飛び込め早く、飛び込め!」

「いけー!ネムがんばれー!!」

「頑張れネムー!!」

「無理だよぉ…怖いよぉ」

 

「何やってるの君達」

「「「「!!!!」」」」

 

 突如背後に出現したイリスに、子供達の驚愕した視線が向けられた。そして__

 

「なぁんだお前かよー」

 

 一瞬にして安堵の表情へと切り替わった。なんだとはなんだ。失礼な。

 子供はネムを入れて5人。男3人の女2人だ。

 その内の一番体格の良い、よく肥えた男の子が此方に指を差してきた。

 

「俺こいつ知ってる。ネムの所のいそーろーだろ?全然仕事できないダメ人間らしいじゃん。迷惑な奴」

 

(もうダメ人間なの知られているのか…ショックだ)

 

 チラッとネムの方を見ると、真っ赤な顔をして俯い

ている。

 

「私も君のこと知ってるよ。鍛冶屋のデンゾの息子ブラウ君。お父さん立派な人なんだね。王都に武器を献上?するくらい鍛冶の腕がいいってネムのお父さんが言ってたよ」

「なっ!!」

 

 父親の話を振られるとは思っていなかったのか、明らかに動揺をみせるブラウ。そう、この子には初日の挨拶回りで既に出会っているのだ。

 初対面でいきなり人のケツを叩いてきた失礼なクソ餓鬼だ。

 

「お、親父の話はどうだっていいだろ!!」

「よくないよ。お父さん頑張ってんのに息子のあんたがこんなとこで女の子いじめてちゃダメじゃん。あんたは飛び込んで楽しいかもしれないけど、そうじゃない子だっているんだよ」

「はあ?いじめてないし!俺らの遊びに口出ししてくるなよ!何にも知らない新入りのくせに!」

「知らないけどネムが怖がってるのはわかるよ。この子達指揮ってんのあんたでしょ?年も一番上なのかな?ならちゃんとそういうのもわかってあげなよ。じゃないと…モテないぞ?」

「モッッ……モテ!?モテるとかどうでもいいし!」

 

 ボッと紅潮した顔で、ネムの方をチラチラと見るブラウ。そんな彼とイリスの間を、残りの子達の不安そうな視線が行ったり来たりしている。

 

(おや…この反応はひょっとして)

 

「あーっもー!!!!つまんねー!!もう帰ろうぜ!」

「ああっ!ブーちゃん待ってよ」

 

 ブラウは大股でズカズカと歩き崖の淵に立つと、未だ赤みの引いていないぷっくりとした顔で此方を振り返った。

 

「ネムっ!手本見せてやるから見とけよ!これできるまで冒険者ごっこはしてやらないからな!!」

 

 そういうと彼は迷うことなく地を蹴って、滝壺へと飛び降りてしまった。

 

「アーアアー!!!!ヤッホー!」

「もー!待ってったらー!」

「ネム、私信じてるからね。それじゃまたね」

 

 他の子供達もまるでただの帰り道かの如く、ドボンドボンと飛び込んで行った。崖下を見ると、平然と泳ぎながら、キャッキャとはしゃいでいる彼らがいた。

 なんというか…たくましい子達だ。昔の日本でも、子供ってこんな感じだったのだろうか。

 

「腹打ったら普通に死ねるよなこれ。凄いね最近の子供は…ネム?」

「………られ…なかった」

「ん?」

「イリスには見られたくながっだ!!なんでぎだの!ほっといてよ!!」

 

(あちゃ…余計なことしたかな)

 

 確かに気心知れた家族にならともかく、いきなりの新参者に見られて気持ちの良い場面ではなかっただろうと思う。

 その上実は、洗濯の時にネムのお気に入りの服を破いてしまってから、あんまり仲良くできていないのだ。平謝りしたけど暫くは許してもらえそうにない。

 

「ごめんね。でもこんなとこ飛び降りる必要なんてないよ。めっちゃ危ないし」

「ダメなの!ここから飛べないと…アダマンタイト冒険者になんかなれないって…ブラウも、みんなも言ってるし」

「冒険者って…あの?アレになりたいのネムは」

 

 惨殺されたアングリードの面々が脳裏に浮かび、イリスは苦笑いをして問いかけた。

 

「ごっこ遊びだけどね。でもいつかはなりたい。それで、悪い奴をいっぱいやっつけて、村のみんなを守ってあげるの」

「……立派な夢だね。そっか、そっかあ!成程、じゃあやっぱり今飛んじゃおう!」

「えっ…!き、今日は無理!!何回か来て…もう少しここに慣れてから…」

「私直でアダマンタイト冒険者見たことあるけど、実際は慣れる時間なんて無いと思うよ?即断即決!臨機応変!って感じでさ。ほら、アレなら一緒に飛ぶ?別にそれでもいいけど」

「む…無理。無理無理、イリス、ほんとに今日は無理ぃ」

 

 ネムはイリスの服の裾に縋り、青くなった顔をぶるぶると横に振った。まさか今から飛ばされるなどとは、考えてもみなかったのだろう。

 心の準備ができていないのだ。

 しかし、彼女がこれから飛び込もうとしている世界には、悠長に心の準備を待ってくれる存在など恐らくいないはずである。

 イリスは軽く息を吐き出し、その場にしゃがんで足元にあった木の枝を拾い上げ、ぬかるんだ土を少しなぞった。

 

「夢ってのはさ。見るだけならめちゃ楽しい妄想で終わりなんだけど、叶えたいってなったら途端に面倒臭くなるんだよね。ほんと、頭痛くなるくらい」

「……?」

「イメージだよ、ネム。今までただの妄想だった世界に具体的な輪郭を持たせて、ゴールを明確にして、そこにたどり着くまでに必要なものを考えて一本の道にしていくの。それで、その道が完成したら、あとはひたすらにその上を突っ走って行くだけ。そうしたら夢だったものは達成するべき目標になる」

 

 ガリガリと土の上に描かれた雑で大きな円から線を引いて、ネム足元まで伸ばしていき、イリスは彼女の顔を見上げた。

 

「ネムがどれだけ本気なのかはわからないけどさ。想像できる?今ここで勇気を出せなかった自分が、アダマンタイト冒険者になってみんなを守っている姿を」

「い、イメージ…?」

 

 

 

 できない。できるわけがない。漠然とただ憧れとしか描いていなかったその背中に、現実として自分の姿を重ねることなんて。

 だって、なりたいって思っていても、実際には不可能なんだって心の底では諦めていたから。

 自分はただの農家の村娘で、いつも姉に守ってもらっていて、特別な才能だってきっと持っていやしない。特別な繋がりも、お金だって持ってない。

 こんなの意地悪だ。馬鹿げた夢を見ている自分に無理難題をけしかけて遊んでいるだけ__

 

「う…」

 

 吸い込まれそうなほどに深い色をした大きな瞳が、ネムをじっと見つめていた。

 彼女の手は、ネムの足元の土を固く握り締めている。

 __違う。

 ブラウ達のように自分を馬鹿にしているわけでも、両親や姉のように、危険な道を諦めさせようとしているわけでもない。

 踏み出せと言っているのだ。夢を現実にしろと。

 勇気を示せと言っているのだ。この道を辿った先にあるとても大きな自分の背中を、はっきりと思い描けるように。

 だが…。恐る恐る崖の淵へ立つ。

 轟轟と滝壺へと吸い込まれていく巨大な水の塊を前に、まるでドラゴンに睨まれたようにネムの足は竦んで動かない。

 こんなところに落ちてしまったら…

 もしうまく飛べなくて岩肌に擦ってしまったら?

 水の中で突き出た岩にぶつかってしまったら?

 そもそも着水できずに地面にぶつかってしまったら? 

 

「うう…やっぱり無…」

「無理は無茶して突き抜けろ。後先の事なんて考えず、目の前のことだけに集中して、一秒先の自分すら想像するな。限界を超えて乗り越えた壁の向こうには、今までとは全くの別世界が広がってる」

 

 ネムの肩に手を置いて、イリスは崖下を見つめながらクスッと笑った。

 

「今のは私のお師匠様の言葉なんだけどね。私もネムと同じで諦め早くってさあ。いっつも無理無理ばっかり言ってて。その度にそうやって窘められたんだよね。でも正直納得はできなかった。だって怖いじゃん?本気出すのってさ」

 

 彼女はネムが返事するよりも早く、ざぶざぶと川の中へ入っていく。

 

「自分の限界なんて自分が一番よく分かってんのにさ。そんな根性論で超えられたら誰も苦労しないだろって、そう思ってた」

 

「でも違ったんだよね。また忘れるところだったよ」

 

 イリスは水面に手を突き入れると、その手をゆっくりと持ち上げた。その手には大きな川魚が握られていた。

 

「ラッキー!ネム、また夕飯増えたぜ!」

「凄い!凄いけど、早く出てきてよぉ。もういいから、早く帰ろーよ!」

 

 ネムの声が届いているはずなのに、彼女はそこから動かない。じっと、何かを憂うような遠い目で、川上の方を眺めている。

 

「さっきの話の続きだけどさ。きっと限界なんてないんだよ、ネム」

「え?」

「限界を超えたら、その先には限界を超えた新しい自分がいるだけで、そしてその自分の前にもまた大きな壁が出てきてさ」

 

 彼女は一体何の話をしているのだろうか。この崖を飛び降りた先に、新しい自分がいると、そう言いたいのだろうか。

 ネムの困惑を悟ったのか、イリスは此方を向いて微笑んだ。

 

「何が言いたいかってさあ。君は絶対アダマンタイト級冒険者になれるってこと!そしたら私も…あっ足がっあっヤベっわあっー!」

「あっっ!!」

 

 背中から倒れるようにして、彼女が視界から消えた。慌てて崖の下を見ると、そこには彼女が飛び込んだであろう水飛沫(みずしぶき)の跡が見られるが…姿が見えない。

 

「イリスー!!大丈夫ーー!?」

 

 暫く待ってみるが、浮かんでくる気配が、ない。まさか、まさか本当に溺れてしまったのだろうか。

 ネムの背中にヒヤリとした汗が伝う。

 雰囲気に飲まれて忘れていた。彼女はとても鈍臭いダメ人間だと言うことを。

 信じられない。川の真ん中でご高説を垂れ流しながら転落して溺れるだなんて。ダサい。ダサすぎる。なんて間抜けなお姉ちゃんなのだろうか。

 だが__あの瞳が忘れられない。ネムの夢を信じてくれた言葉が頭にこびりついて離れない。

 

「助けないと…!!」

 

 しかし、助けを呼ぼうにもブラウ達はとっくの昔に帰ってしまっているし、大人達もこの滝の上まで来ることは滅多にない。そして回り込んで下に降りている時間もない。

 つまり__

 

「う、嘘でしょぉ…。イリス、早く上がってきてよお」

 

 祈るように滝壺を見つめるが、既に彼女が立てた泡沫は消え失せて、どこに落ちたかもわからない状態であった。

 イリスを助けるにはもう飛び降りるしかない。

 もしかしたら自分も溺れるかも知れない。上手く飛び込めたとしてもネムより体の大きい彼女を岸に引っ張っていける自信は無い。

 だが…

 

「後先なんて考えずに…目の前のことに集中して」

 

 死ぬかもしれない。でも、それでも、今ここで逃げたら、自分は一生うだつの上がらない村娘のままだ。

 ネムは踏み込む、冷たい川の中へ。

 一歩一歩歩く度に泣き言が口をついて出そうになるが、涙と一緒に引っ込めた。

 意を決して滝の淵へと立つ。足はガクガクと震え、恐怖心を掻き立てる水音に思わず耳を塞ぎたくなる。

 でも負けない。自分の限界は、きっとこんなところには無いから。

 

「イリスー!!今助けるからぁぁー!!待っててねー!!」

 

 恐怖を大声で掻き消して、ネムは地面を蹴った。

 

「あっ」

 

 下から込み上げるような浮遊感。オレンジ色の夕日の光を背に、上へ上へと流れていく景色は、見慣れた森のそれとは全然違っていて…

 衝撃と共に音が消えた。

 ごぼごぼと全身を包み込む水を無我夢中でかき分けて、ネムは水面へと顔を出した。

 

「ぷっはぁー!!イリス!イリスー!!!!」

 

 周囲を見渡そうとするが、水中に沈まないことに必死でそれどころでは無い。とりあえず岸へ…と思った瞬間、後ろから誰かに抱き留められた。

 

「わあっ」

「アッハッハ!凄いじゃんネムー!めちゃくちゃカッコよかったよー!!」

「えっ?えっっ!?」

「ごめん、溺れたフリしてた。こうでもしないと本気になれないかなって思ってさ」

「イ…イリス?イリス…馬鹿ぁ。私めっちゃ心配したんだからぁ」

 

 安心すると同時に涙が溢れてきた。なんてことをさせるんだこのお姉ちゃんは。もう絶対に許さない。許してあげない。

 

「ごめんね。でも、私嬉しかったよ、凄く。助けに来てくれたんだよね?」

「……」

 

 黙って頷くと、抱き締めている腕の力が少しだけ強くなった。

 

「ほんとにありがとう、ネム。お陰で私は溺れずにすみそうだよ」

「…?どういうこと?フリだったんでしょ?」

「ふふふ。滝…飛んでみてどうだった?まだ怖い?」

 

 言われてみて気がついた。そうだ。自分は飛べたのだ。怖くて怖くて堪らなかったはずなのに、今思えばどうしてあんなに怖がってたのかすら分からない。

 飛んだ時の浮遊感も、通り過ぎてゆく景色も、バクバクと高鳴るこの鼓動も、流れ落ちる水の音も、鳴り止まない虫の声も、背中に伝わる熱いくらいのこの温もりも…今は全てが心地よかった。

 ネムはくてっと頭を後ろの肩に預けた。

 見上げるほどに高い滝。あんなに高いところから飛び降りたのかと、少しだけ誇らしい気分になった。

 横に目を向けると、長い睫毛の影になった琥珀色の瞳と目が合った。普段の鈍臭さからは想像も出来ないほどに整った、お人形みたいに綺麗な顔がくすりと笑った。

 ネムもつられてクツクツと笑ってしまう。

 

「そうだなあ。今すぐもう一回飛び込みたいかも」

 

 あの時の自分はもういない。だって、今ならハッキリとイメージすることができるから。

 勇気を持って新しく踏み込んだ世界は、とても色鮮やかで、美しかった。

 

 

 

 

「二人ともこんな時間までどこに行ってたのかな…?とっくに門限過ぎてるんだけど?おまけに服もそんなに汚して…」

 

 完全に日の沈み切った夜空を見上げた後、エンリは玄関に立っている泥だらけの2人を舐めるように睨みつけた。

 

「一皮剥きに、かな」

「はぁ?」

 

 これだけ心配させておいて、何ともないように飄々とした表情をする妹に、思わず頭に血が上りそうになる。

 ついこの前父親が拐われたばかりだと言うのにこの子は…。

 これは今一度キツく言っておかなければならない。夜の外出がどれだけ危険で、恐ろしいことなのか。

 声量を最大値に引き上げる為に、鼻から思いっきり空気を吸ったところで、ネムを庇うように隣から客人の邪魔が入った。

 

「ご、ごめんエンリ遅くなって!私のせいなんだ。晩御飯採りに行ってたら夢中になっちゃってさ、ねー!ネム、そうだよねぇ」

「まあ…イリスお姉ちゃんがそう言うなら、そうかもね」

「そうなんだよ変な含み方しないで。あ、エンリ、すぐ出すから、魚いっぱいあるから、怒らないで」

「え…お魚?」

 

 イリスは此方に手を向けて待っててと合図すると、開けっぱなしの玄関から外に出ていった。

 数秒後、チャプチャプと音を鳴らしながら現れた彼女の腕には、ネムの身長程もありそうな大きな桶が抱えられていた。

 音もなくエンリの足元に置かれた桶の中には、食べきれない程の魚が所狭しと詰まっていた。

 エンリは驚愕に目を見開いて口元を手で覆った。

 

「す…凄い!どうやって獲ったんですかこんなに沢山」

「えへへ、こう…素手で熊みたいにバシッと、ね。私こういうの得意みたいです」

「素手で…?」

 

 にこにこと誇らしげに笑う彼女を、エンリは信じられない気持ちで見ていた。

 エンリは魚のことはあまり詳しくない。何故なら魚など滅多にお目にかかれない代物だからである。

 お祝いの時などにエ・ランテルから友人が買ってきてくれたり、行商人から購入することはあるが…生きた川魚を見る機会など本当に少ないのだ。

 村の大人達も川の魚は獲れないものだと諦めているので、エンリもそういうものなのだと割り切っていた。

 それがこんなに沢山。そのどれもが丸々と太って脂がのっているのが分かる。

 

「ど、どうしよう。私お魚捌けないや。とりあえず父さん呼んでくるから、2人は先に体洗ってきて下さい!着替えの場所わかるでしょ、ネム。案内してあげて」

「はーい。イリスお姉ちゃんこっちきて」

「うぃーっす」

 

 トタトタと2人が脱衣所に消えるのを見送り、エンリは家の裏で薪割りをしているであろう父を呼びに行った。

 

 

「嘘だろ…?これ…全部ゴルドホースだぞ。お父さん興奮して今夜眠れないかも」

「私もびっくりしちゃって。お魚手でとるなんて滅茶苦茶だよね」

「手!?手で取ったってか!!?…それが本当ならあの子は天才だな。彼女の体には狩猟の女神が宿っているのかもしれない」

 

 エイドが桶の中に手を突っ込み、一匹の魚を掴み上げてまな板の上へ寝かせた。

 ぴちぴちと跳ねた水滴が、エンリのエプロンにかかる。

 

「私よく知らないんだけど、このお魚ってあんまり獲れないんだよね?」

「コイツを獲りに行くくらいなら、猪の方がずっと簡単だよ」

「そんなに凄い魚なの?」

「凄いなんてもんじゃない。この時期にはあんまり川に入るなってエンリも教わってるだろう?水位が乱高下しやすくて危ないっていうのも理由の一つだけど…一番の理由はコイツが下流から上ってくるからなんだ」

 

 ランタンの灯りを反射し、まな板の上で金塊のように輝く魚を、エイドは優しく撫でた。

 

 ゴルドホースとは、トブの大森林最強の川魚の名称である。旬は初夏〜夏下旬頃までで、この時期が一番脂が乗っていて、香り高く美味である。

 その味は舌の肥えた美食家でさえ震えるほど美味く、この魚を食べたいが為に冒険者に高額で依頼を出す貴族も珍しくないのだとか。

 だが、獲れない。熟達した冒険者であってもなかなか獲れない。何故か。

 その原因はこの魚の異常なまでの遊泳速度と、とある強力な特性にある。

 まず基本的に速すぎて目視での発見は不可能である。この魚の位置を確認するには生体感知の魔法かマジックアイテムが必須なのだ。

 そしてよしんば位置を割り出して捕えようにも、ゴルドホースは一定の速度で泳いでいる間、第七位階以下の魔法の一切を無効化し、物理耐性が急上昇するという常時発動型特殊技術(パッシブスキル)を所持している為、生半可な攻撃では傷一つつけることはできない。

 川を堰き止めて動きを止めようとしても彼らの貫通力の前では無意味。それならばと釣り上げようとすれば、釣り人ごと上流に持っていかれる始末である。

 それでもこの魚を捕まえようと、この村には例年少なくない人がやってくる。そして少なくない人が怪我を負い、時には命を落としていく。

 仕方がないのだ。だって美味しいんだもの。

 

「…イリスさんって何者なの?」

「僕が聞きたいよ。ま、何者であっても関係ないさ。こうして僕達の為にできることをしようと頑張ってくれてる。それだけで十分だよ」

「そうだね。…本音言うとまだ病み上がりなんだからもっと安静にしといてほしいんだけど」

 

 エンリが脱衣所の方に目を向けると、2人の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

 水の掛け合いっこでもしているのだろうか。何にせよ仲直りできたみたいでよかった。

 

「確かにそれはそうだね。でもあの子は多分家でじっとしている方が気分が悪くなるタイプでしょ。僕と同じだな」

「お父さんは遊びすぎです。もう少しはお家のこともしてよね」

「耳が痛いよ…。じゃあ今日は僕が腕を奮ってご馳走を振る舞うとしょうかな」

 

 これみよがしに腕捲りをしたエイドが、包丁をギラつかせて笑った。

 

 

 

 

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