第105話 茉莉花からの呼び出し
遡る事、5分前。
下宿先の叔母が経営する夏目写真館に帰った澪は、メガネをかけて机に向かっていた。無論、今日行うはずだった期末試験が明日にずれ込んだので、試験範囲の復習をするためだ。
えーっと、この化学式は……。
教科書と照らし合わせながら、配られた問題集の設問を解いていく。その途中、澪はふと部屋の中にもう1人いるような気配を感じた。
「叔母さん?」
夕食ができたから呼びにきたのだろうか? そう思い、澪は呼びかけてみるが返事は無い。静まり返る部屋の中では、澪とどこから入ってきたのかアゲハ蝶が一匹。
「あれ? どこから入ってきたんだろ……」
気付かない内に服に止まっていたのだろうか。澪は連れてきた覚えのないアゲハ蝶を外に出すため、窓を開けようとサッシに手を伸ばす。すると、突然背後から手が伸びて澪の口を塞いだ。
「んぅ!?」
「しーっ……。静かにしないと喉を掻き切っちゃうよ?」
助けを呼ぶために叫ぼうとした澪が、ピタリと固まる。口元を覆う感触に覚えがあったからだ。この石膏のようにひんやりと冷たい手の感触は……。
き、吸血鬼……!?
間違いない。明らかに冷た過ぎるこの感触は、前に吸血鬼や“切り裂きジャック”に触れられた時と全く同じ物だ。
大人しく言うことを聞いて動きを止めた澪。抵抗の意思が消えたとみなした侵入者は、澪を解放して次の指示を出す。
「じゃあ、ゆっくりとこっちを向いて」
指示に従い、澪はゆっくりと振り返って侵入者と対面すると、その正体に言葉を失った。
夜を思わせるような深青の髪、ドレスを思わせるような紫のワンピース、そして血のように赤い妖しげな瞳。女の自分から見ても魅力的に見える程の色香を纏う少女の姿があった。
「女の子でもそんな反応するんだ。なんか新鮮だなぁ……」
手を口元にやり、クスクスと笑う仕草ですら目が離せずに釘付けになってしまう。先程のアゲハ蝶の存在など、一瞬でどこかへ飛んでしまう存在感だ。
「あ、あなたは誰……」
目の前の人物の正体を知る澪は、極力感情が出ないように口を開いた。だが、その気になれば一瞬で自分を殺せる存在を前に、思わず声が震えてしまう。それを承知してなのか、侵入者もクスクスと笑ったまま、楽しむように返す。
「ビクビクしちゃって可愛いなぁ……。そんなに怯えなくても大丈夫だよ。別に怖い事なんてしないから」
「答えて……! あなたは誰なの……!?」
大きな声を出さないようになるべく声量は抑えつつ、強めの語気になるように澪は重ねて問う。もし叫んだら、何事かと様子を見に来た叔母の
一方、この場の主導権を握っているのは自分である事を理解してる故か、少女は余裕を崩さずに微笑を浮かべる。
「そうだなぁ……。蝶へ羽化する前の
「だったら、血の匂いがする理由は何……」
「あ、ごめんね? ここに来る前に――」
少女は確かめるように親指で下唇をなでると、指先をすり合わせながら背筋の凍るような一言を口にした。
「ちょっとご飯を食べてきたから、そのせいかな?」
「なっ……!?」
吸血鬼においての食事、すなわち人の命を奪ってきた事を示す。澪は自然と後退りしてなるべく距離を取ろうとした。
「あなた、は……もしかして……」
目の前の少女の特徴を前に、澪は声を震わせて頭の中に浮かんだ名前を口にした。
「燐藤 茉莉花……ちゃん……?」
「もしかして、わたしって有名人なのかな? 最近、初めて会った人み〜んながわたしの事知ってるんだよね」
答えの代わりに疑問を口にしながら少女あらため、茉莉花は人指し指を顎に当てて小首を傾げる。一方、窓際に追い詰められて逃げ場がない澪は、身体の震えを抑えるように自分で手を握る。
「目的はなに……! あたしに何の用なの……!」
「ちょっとお話したいだけだよ? さっきまで一緒にいた子についてね」
「さっきまで、って……もしかして鈴音ちゃんの事?」
「あの子、鈴音ちゃんって言うんだ。名前、聞きそびれちゃって分からなかったんだよね」
コクコクと、飲み込むかのように頷きながら、茉莉花が鈴音の名前を繰り返す。そして、今度は澪に名前を尋ねる。
「じゃあ、あなたの名前は?」
「どうして、そんな事を聞くの?」
「だって、あなたって呼ぶの不便だもん。それに、なんだか仲良くなれそうな気がするんだよね、わたし達」
「ふざけないで……! あたしは仲良くする気なんてない。あなたが明嗣くんに何をしたか知っているんだよ」
ゆっくりとすり足で移動しながら、澪は机の上に置いてあるスマートフォンに近づく。このまま、密かに回収できたら、隙を見て助けを呼ぶだけだ。だが、その場で立てた澪の計画はあっさりと瓦解する事となった。
「まぁ、あなたの意思なんて関係ないんだけどね。ねぇ、“わたしの言う事を聞いてよ”」
瞬間、茉莉花の赤い瞳が妖しく輝いた。異能を持つ吸血鬼、真相となった茉莉花も当然持っている服従の魔眼が効果を発揮したのだ。よって、澪の身体は意思に反して、茉莉花の言いなりとなってしまう。
「じゃあ、スマホのロックを解除してわたしに渡して?」
抵抗する事なく、澪は言う通りにスマートフォンを渡した。その後、茉莉花は重ねて命令を下す。
「いい子。じゃあ、“眠って”」
なす術もなく、澪の身体は糸の切れた操り人形のように膝から崩れ落ちて意識を失う。そして、茉莉花は澪のスマートフォンに指を走らせた。
現在に戻る。
澪のスマートフォンから連絡してきた茉莉花に対し、鈴音は敵意をむき出しにした声を出す。
「なんであんたがそのスマホを持ってるの?」
「ちょっと借りただけだよ。連絡したくても、ほら。わたし、連絡先知らないから。ね、鈴音ちゃん?」
「澪はどうしたの?」
「今は眠ってもらってるの。だって、こうでもしないと落ち着いてお話できないから」
スピーカーから聞こえてくる声に、鈴音は思わず奥歯を噛む。言うまでもなく、これは人質だ。裏を返せば、何か要求したい意思表示でもある。澪の無事を確認した事で冷静さを取り戻した鈴音は、静かに茉莉花の要求を引き出す事を試みる。
「分かった。面倒だから間を飛ばすけど、アタシにいったいどうして欲しいの?」
「もっと順序よく進めない? わたし、ゆっくりするのが好きだな〜」
「話していて楽しい人なら、そうしたいんだけどね。でも、あんたはそうじゃない」
嫌悪の表情を声色に乗せて、鈴音は淡々と拒絶を示す。すると、スピーカーから茉莉花の涙ぐむ声が聞こえてくる。
「ひどい。わたし、傷ついちゃった。ショックで泣いちゃいそう」
「騙されたりすると思った? そんな事思ってないでしょ?」
「……どうして?」
「だって、あんたもアタシと同じ、
「……」
図星を突かれたのか、茉莉花の声が返って来なくなってしまった。その反応を受け、鈴音はさらに畳み掛ける。
「アタシに用があるなら、澪を解放して直接来なよ。そんな卑怯な事をしなくても、アタシは逃げも隠れもしないから。それとも、アタシが怖くて人質がいなくちゃお話すらできないの?」
「……23時に駅前に来て。もし、他の誰かに……明嗣くんに教えたりしたら、この子を殺すから」
茉莉花が一方的に集合する時間と場所を告げて、通話が切れてしまった。
「言われなくても最初からそのつもりだし」
黙り込んだ電話を握りしめたまま呟く鈴音の瞳には、堪忍袋の緒が切れたと言いたげな、怒りの炎が静かに揺らめいていた。