リビングへ向かい、茉莉花はダイニングキッチンの一角にある冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。とにかく、喉が渇いて仕方ないので、コップへ並々に注いだ牛乳を一息に飲み干す。だが、茉莉花の渇きが満たされる事はなかった。なので、茉莉花はもう一杯飲むためにパックを傾ける。
あれ、もうない……。
もっと飲みたかったが、中身が空になってしまったようだ。牛乳もこれで最後のようで、もう冷蔵庫の中に残っていない。仕方ないので、今度は水道から水を汲んで飲む事にした。先程の牛乳と同じ量の水がコップに満たされ、茉莉花は同じように一息に煽る。しかし、茉莉花の喉が渇きから解放される事はない。
な、なんで……。
おかしいと思い、茉莉花はもう一杯水を飲んだ。だが、渇きが消えたのは一瞬だけで、再びとてつもない渇望感に襲われる。
わたし、どうしちゃったの……!?
明らかにおかしい。なぜ、喉の渇きが消えないのか。訳も分からないまま、茉莉花は家を飛び出した。日が落ちてネオンの光が街を照らす中、向かう先はあの悪魔召喚の儀式を教えてくれた男の元だ。
たしか、ここに……!
息を切らせて、茉莉花は儀式を教えてくれた者の元へ走る。やがて、茉莉花はあの薬を与え、描く魔法陣の図面を教えてもらった路地へたどり着く。相変わらず喉の渇きと飢えている感覚はとてつもない。だが、なぜか走る速さは以前よりも上がっているように思える。そして、茉莉花に悪魔召喚の儀式を教えた者は待っていたように、そこへ佇んでいた。
「やぁ、そろそろ来る頃だと思ったよ。その様子だと……。うん、しっかり儀式を行ったようだ」
もう夏だと言うのにも関わらず、スーツの上にトレンチコートを羽織る男は、サングラスをかけたその眼で息を切らす茉莉花を頭からつま先まで観察すると、満足げに頷いた。対して、先ほどから何を飲んでも喉が渇いて渇いて仕方ない茉莉花は、さっそく本題にはいる。
「わたしに何をしたの……。
「教えたはずだよ。悪魔だよ。正真正銘、地獄で退屈しのぎに人の魂を嬲って遊んでいるしかない、暇を持て余した神の敵」
男は茉莉花に己の眼を見せるように、かけていたサングラスを外す。ルビーを思わせるような光を放つ眼に茉莉花は思わず息を呑む。
「そして、君はその悪魔と契約した。だから、キミはもう人間ではなくなり、吸血鬼になったのだよ。契約の代価としてね」
「き、吸血鬼ってふざけないで! あんなの、ただのおとぎ話でしょ!」
「それなら、試してみよう。これを使ってね」
自分の言う事を頑なに認めようとしない茉莉花に、男は懐から小さな小瓶を取り出し、茉莉花へ見せつけるように軽く振って見せた。中に入っているのは赤い液体に、茉莉花は警戒するように後ずさる。
「な、何……それ……」
「これかい? これは――」
男は小瓶の栓を抜くと茉莉花に差し出し、口を歪めた。その際、口の中から人間の物にしては細長く鋭い犬歯が覗く。
「
「嘘をつかないで! 血液を常温で持ち運べないのを知らないと思ったの!?」
「そう思うのなら別に良い。そのまま帰ってもらって構わないよ」
からかわれていると思った。ドラマなどで、輸血などに用いられる血液パックをクーラーボックスに入れて運んでいるシーンを見た事があったので、常温で保存できない物なのだろうというのもなんとなく理解している。だから、差し出されたそれはトマトジュースだろう。そのはずなのに……。
なんで……目が離せないの……!?
特にトマトジュースが好きな訳でもない。なのに、目の前にあるそれがとても魅力的な物に見える。身体の奥底から欲しているのが、自分でも分かった。
「どうする? 帰るかい? それなら、この小瓶は引っ込める事にするが」
「あ……あぁ……」
引きずるような足取りで歩きながら、茉莉花は男が持つ小瓶へ手を伸ばす。
「く……」
「どうかしたのかね?」
「ください……」
「何だね?」
もう一度、自分の意思である事を確認するように、男は茉莉花に聞き返す。すると、茉莉花ははっきりと口にした。
「その瓶を……ください……。それを飲んでこの渇きが消えるなら……」
「うん。やはり、君ぐらいの子は素直なくらいでちょうど良い。よく味わって飲むと良い」
満足げに頷き、男は茉莉花に小瓶を手渡した。そして、小瓶を受け取った茉莉花は一口、舐めるように舌先を液体につけてみる。すると……。
「おいしい……!」
茉莉花はその美味しさに思わず目を見開く。今まで飲んだ事がない味わいの物だった。ずっとつけた舌先に絡みつく甘い風味。これを舌全体で味わえば、いったいどれだけ美味なのだろう。そう思い、茉莉花は小瓶を傾ける角度を上げて、中身を流し込む。すると、旨味、塩味、甘味……言葉にしきれない程の風味が茉莉花の口内に溢れかえる。
もっと……! もっと飲みたい!
欲するがまま、茉莉花は小瓶の中身を流し込んでゆく。そして、あっという間に飲み干してしまった。
「も、もうないの……?」
「残念ながら、持ち合わせがそれしかなくてね。もう、おかわりは渡せそうにない」
「そんな……! なら、この飲み物はどこで手に入るの!?」
喉の渇きなんて、一口舐めた瞬間に消えていた。強烈な飢餓感も一瞬で満たされている。だが、そんな事はもうどうでも良くなった。もう、これ無しでは生きていけない。もっとあの赤い液体が欲しい。そう、思うようになっていた。自分でも手に入れることができるのなら、すぐにでもある所へ向かおう。そのつもりで、茉莉花は先程の液体の所在を尋ねる。だが、男は意地の悪い笑みを浮かべ、首を横に振る。
「だから言っただろう。血だと。手に入れようと思えば、いつでもそこら辺を歩いているさ。その気があるなら、ね……」
「そんな……。嘘でしょ……?」
まさか、本当に……? 本当に人間の血液なのか? 受け入れがたい表情で後ずさる茉莉花。対して、男は名刺ケースから1枚名刺を取り出すと、茉莉花に差し出した。
「まぁ、何かあればここに電話をすると良い。“伯爵に会いたい”、そう伝えれば分かる」
そうして、名刺を受け取った茉莉花は家に帰る事しかできなかった。そして、家に到着するなり、茉莉花は風呂を済ませたばかりの蓮と鉢合わせする。
「あ……」
先ほどの事を気にしてか、気まずい沈黙の空気が二人の間に流れる。だが、蓮が向けてくる視線には先ほどとは違う何かがあった。
「お、お兄ちゃん……。あの……さっきは……!」
「もう……良いから。ほら、母さん達がご飯作って待ってる」
そう言い、リビングに向かおうとする蓮。しかし、茉莉花は引き留めようと手を伸ばす。
「おねがい……。わたしは……」
そうして、蓮の腕に掴んだ瞬間だった。茉莉花の時が止まる。この腕の温かみは何だ? 風呂から出たばかりで温まっているからか? 違う。これは血の流れだ。こんなに温かい物が身体の中を流れていたのか。人の身体とはこんなに温かかったのか。もし、先程飲んだ物が本当に人間の血なら……。ここで、蓮に「血を飲ませてくれ」とお願いしたら、飲ませてくれるだろうか。
グルグルと、どす黒い欲望が茉莉花の中で回り始める。一方、腕を掴まれている蓮は、茉莉花に起きた異常に気づき、驚きの声を上げる。
「茉莉花ちゃん、この手どうしたの!?」
「え……?」
自覚がない茉莉花は不思議がるように小首を傾げた。いったい手がどうしたのか。どうでもいいじゃないかと思っていると、蓮は顔を青くして続ける。
「
この一言で茉莉花は、もう全てを理解してしまった。どうやら、自分はもう本当に人間ではなくなってしまったらしい事。そして、今どうしようもなく目の前の男の血が欲しくてたまらない事を。
「ねぇ……お兄ちゃん」
茉莉花は口を開き、静かに蓮に呼びかける。
「ちょっと待ってて! 今、病院に……」
法律上だけの仮初の関係だが、それでも兄として安心させようと、蓮は茉莉花に笑顔を向けた。だが、茉莉花はそんな兄の気遣いを踏みにじるように、
「“お兄ちゃんの全部、わたしにちょうだい?”」
瞬間、蓮は腕を広げて彫像のように固まってしまった。まるで、誰かが抱きしめてくれるのを待つように。茉莉花はその物言わぬ温かな彫像に抱きつくと唇を重ねた。これから愛し合うための儀式のように、茉莉花は深く情熱的に兄の唇を貪る。そして、唇から離れると、今度はくすぐるように舌先で首筋を撫でる。
「ありがとう、お兄ちゃん。大好き」
これからも、ずっと。茉莉花は愛を込めて、自ら兄の首筋に噛みついた。力はいらなかった。どうやら、あの男と同じ物があったようで、皮膚を食い破るのに苦労しなかった。やがて、食い破って溢れてきた血液を舌先で転がした瞬間、茉莉花は今まで生きてきた中で一番の多幸感に包まれた。
「ま、茉莉花……ちゃん……」
何か言おうとしているみたいだ。でも、どうでもいい。今はこの幸せの中で溺れていたい。己の欲望の赴くまま、茉莉花は己の兄を味わっていく。やがて、
「茉莉花? 帰ってきたの? さっきの音は……!?」
先ほどの物音を聞きつけてか、母親が様子を見に来たようだ。目の前で転がる死体、そして血に塗れた口元の我が娘を前に凍りついてしまう。
「あーあ……。見つかちゃった……」
いたずらがバレた子どものようバツの悪い笑みを浮かべると、茉莉花は次の標的へ襲いかかった。母親にも同じように愛を囁き、その血を啜る。やがて、出なくなったら父親から。茉莉花は家族全員の生き血を啜り尽くして、己の欲を満たした。そして、茉莉花はスマートフォンを手にすると、もらった名刺に書かれた番号へ連絡した。
『はい、デュークインダストリアルです。本日はいかがなされましたか?』
「伯爵に会わせて」
『かしこまりました。それでは、迎えの者を向かわせます。しばらくお待ちください』
その指示の後、通話はプツリと切れてしまった。茉莉花は冷たくなってしまった愛しき人を抱きかかえると、涙を流しながら慈しむように頬を撫でる。
途方に暮れていたら、くぅ、と腹が鳴った。もう、ご飯を作ってくれる家族はいない。
「ふふ……。あはは……」
独りになってしまった事を理解し、少女は己が作り出した惨状の中心で孤独に笑う。壊れた人形のようにただひたすらに。
こうして、独りになった茉莉花は人を捨てた。
時計の針が現在へ戻る。
自分の過去を思い返し、茉莉花は縋るように明嗣へ呼びかけた。
「明嗣くん、おねがい……。もう、わたしには明嗣くんしかないの……! だから、わたしの物になって……!」
茉莉花の声にはもう悲しみしかなかった。街を歩いていれば、声を掛けてくる男はいるが、どいつも奥底には下心が透けて見えた。自分の事を見てもらえていない、毎日そんな気分で過ごす日々。吸血鬼になってからは、一層その気持ちが強くなった。はっきり言って孤独だった。
「燐藤、俺は……」
縋る茉莉花に、明嗣は哀れむような視線を向ける。哀れ過ぎて、もう何も言う事がない。だが、それでも自分に縋ってくるこの少女は、はっきりと自分の気持ちを言わないと分からないのだろう。
だから、明嗣はあの時と同じように、自分の気持ちを口にした。
「俺はお前の物にはならない。俺にはお前の望みを叶える事はできねぇよ」