翌朝。
通勤通学ラッシュに突入する前の穏やかな時間。鈴音は朝食を求めてHunter's rustplaatsのドアを開いた。
「おはよー……」
眠たげに目をこすりながら、鈴音はカウンター席に腰を下ろす。一方、朝刊新聞を読んでいたアルバートは顔を上げると不思議そうな表情を浮かべた。
「鈴音ちゃんが寝不足とは珍しいな」
「うん。昨日の授業で分からなかった所を復習してて、あんまり寝れなかったんだよね……。今日のモーニングは何……?」
「今日はスクランブルエッグを乗せたトーストとチキンソテーだ。すぐ作るから待ってな」
「はーい……」
と、ここまでやり取りした所で鈴音はふと、違和感を覚えた。そういえば、いつもいる奴が一人いない。店内には穏やかなジャズBGMが流れているだけなので、鈴音は話の種としてそのいない奴の事を尋ねた。
「マスター、明嗣は?」
トースターに食パンをセットし、コンロに火をつけたアルバートはフライパンに油を引きながら、いつもと変わらない様子で答えた。
「そういや今日はまだ来てないな……。寝坊か?」
「ふーん……。珍しい事もあるね」
「そうだなー」
眠たげな鈴音に相槌を打ちながら冷蔵庫から卵を2つ取り出したアルバートは、ボウルの
明嗣がいない事を除けば穏やかな時間だけが流れていく。いや、嫌味皮肉などなどの憎まれ口が無い分、むしろこっちの方が平和かもしれない。たまにはこんな朝も良いな、などと思いながら鈴音はウトウトと眠気の誘惑と戦い始める。
だが、その穏やかな時間は一人の来訪者によって、いきなり終わりを告げた。
「ねぇ! あの半吸血鬼の坊やは!?」
大きなドアベルの音と共に、教職員モードの姿であるパンツスーツのミカエラが飛び込んできた。見た所、全力疾走をしてきたのか呼吸が荒い。何やらただ事ではない様子のミカエラに対し、アルバートが厨房から顔を出して返事する。
「明嗣の奴ならまだ来てないぞ。アイツがどうした?」
返事を聞くやいなや、今度はスマートフォンを取り出してミカエラはどこかに連絡し始めた。
「ヴァスコ、そっちは!?」
『いませんシスター、やはり自宅にも帰った形跡がありません……!』
「ねぇ、いきなり飛び込んで来るなりどうしたの。明嗣がどうかした?」
モーニングを作っているため、手が離せないアルバートに代わって鈴音が尋ねてみると、ミカエラはギリッと奥歯を噛んだ。
「消えたのよ……! あの半吸血鬼の坊やがジル・ド・レに攫われてしまったの!」
あれだけ瞼を下ろそうとしていた眠気は一気に吹き飛び、鈴音は深刻な事態の渦中である事を理解した。
一方、Hunter's rustplaatsの様子を知らない明嗣は……。
「ん……」
いつの間にか眠っていたようで、横たわった状態で瞼がピクリと動いた。さらに、背中の慣れない感触で深い底にあった意識が急速浮上する。そして、瞼をゆっくり開いていくと一面真っ白な光景が飛び込んで来た。
「まぶっ……」
目覚めたばかりの目に、照明器具の光がよく反射するこの真っ白な光景はあまりにも眩し過ぎた。明嗣は思わず目を細めて眩しさに耐える。やがて、目が慣れてくると周囲に何があるのかを認識できるようになってきた。
背中の慣れない感触の正体はマットレスだった。どうやらベッドに寝かされていたようで、慣れない感触の理由はメーカーが違うと思われるので当然の話だ。そして、身体を起こして部屋の様子を見回すと、今いる場所が誰かの寝室である事が確認できた。
まず最初に目に付いたデスクの上には読みかけの本とコルク栓がはまったワインボトルが置いてあり、脇にあるグラスは汚れておらず逆さに置いてある事から、誰かが後で飲むために用意した事が伺える。
次に自分の格好。服装はワイシャツの上に真っ赤なパーカーと黒のロングコートにスラックスと、仕事着のままだ。
なんで俺、この格好で……。昨日はたしか……。
明嗣は脳内の昨夜の記憶を手繰った。たしか、昨夜は飛び込みで入ってきた吸血鬼狩りの依頼を片付けて、その後……。
そうだ、あの髭!
明嗣は昨夜の記憶を完全に掘り起こす事に成功した。昨夜は突如目の前に現れた自らジル・ド・レと名乗る吸血鬼と遭遇し、訳も分からない内に意識を刈り取られたのだ。
クソ……。
手を縛られるなどの拘束されている形跡は特になし。出入り口の扉付近に設置された棚を探ると中にはホルスターに納まった白黒で一対の愛銃達があった。2丁とも手にした明嗣はすぐに弾倉を取り出して弾薬の状態をチェックし、すぐに装填し直した。直後、
スゥ、と明嗣は軽く息を吸い込んで吐く。最優先は行方不明のブラッククリムゾンを探し出して奪還し、足を確保。その後、ここがどこなのか把握し、安全な所まで移動してからHunter's rustplaatsを連絡を取って体勢を立て直す。
優先事項の整理は終えた。どこまでできるかは分からないが、現状はこのプランで突っ走るしかない。
うーっし……。行くぜ!
覚悟を決めて明嗣は目の前の扉を蹴破った。蝶番が壊れて倒れた扉の先では、昨夜も会った青ひげ、ジル・ド・レがティーブレイクを楽しんでいた。
「あぁ……。起きられましたか。目覚めたばかりで意識がはっきりしていないでしょう。一緒にお茶でもどうです?」
まるで親しき友と話でもするように、ジル・ド・レは自分のカップを掲げて明嗣へ紅茶を推める。対して、明嗣は答える事無く引き金を引いた。だが、発射された弾丸は何か強烈な力に引っ張られたおかげで明後日の方向へ飛んでいき、天井に大きな穴を開ける。
なっ……!?
引っ張る物の正体を確認すると、明嗣の両手首に虚空から出現した毒々しい色の触手が巻き付いている。一方、穴が開いた天井の方ではもうすぐ小学校に入学するのではと思われるくらい少年少女達が不思議そうな表情で覗き込んでいる。
「ジルさまー。なにかあったんですかー?」
子供……!?
無邪気に呼びかける子供達を目にした明嗣は思わず面食らった表情で固まる。しかも、吸血鬼が持つ“黒い線”ではなく、“赤い線”。つまり、人間の子供だ。なぜ、どうして。まさか、歴史に名を刻んだ時と同じ何かの儀式に使うために攫ってきたのか。ジル・ド・レは子供たちへなんでもないとアピールした後、嫌な想像を巡らせる明嗣へもう一度呼びかけた。
「
子供の目もある手前、引き金を引く訳にも行かなくなった明嗣は、ジル・ド・レの誘いに応じるしか選択肢を選ぶことができなかった。仕方なく卓に着いた明嗣は警戒の表情で差し出された紅茶のカップを受け取り、好々爺の表情で微笑むジル・ド・レを睨んだ。
場所は戻り、Hunter's rustplaats。ヴァスコも合流したので、アルバートと鈴音は連絡を受けただけでイマイチ状況を飲み込めていないミカエラも交え、三人で詳しく話を聞くことになった。まずは、なぜ明嗣が消えるなんて事態になってしまったのか、最初はそこから話を聞くべきだろう。
「一瞬だった……。アーカードとジル・ド・レの接触を確認したから、すぐに狩ってしまおうとシスターに連絡した直後にアーカードが消えた……! 何が起きたのかすら分からなかった……!」
昨夜の出来事を語るヴァスコの表情は苦々しい物だった。唯一の手がかりとしていた明嗣をいともあっさり攫われてしまったのだから無理もない。対して、話を聞いたアルバートは腕を組んで考え込んでいる。おそらく、そんな事ができる手段を自分の中にあるジル・ド・レの情報から探しているのだろう。ただ、これだけでは情報が足りないので考え込んでいるアルバートに代わり、鈴音がヴァスコに質問していく。
「何か変わった事とかもなかったの? たとえば、変な音がしたとか、空気が冷たくなったとかそういうの」
「いきなり言われてもあの時はあの半吸血鬼が消えてそれどころでは……」
言いかけて、ヴァスコは引っかかる物があったのか顎に手をやり、何か考え込み始める。そして、何やら思い当たる節があったのか、ヴァスコはぽつりと呟いた。
「そういえば、何か引きずる音がしたような……。ズルリと、何か粘っこい液体がまとわりついたような物が引きずられるような音だ……」
「あぁ、そういえば消えた現場にもあったわね。何かの粘液。ナメクジでもいたのかしら?」
「……! それは本当か?」
粘液、と聞いて何か閃いたのか、黙り込んでいたアルバートがようやく口を開いた。それを受け、ヴァスコはポケットからビニールの小袋に入れたスポイトを取り出した。スポイトの中には何やらピンクの透き通った液体が入っている。
「一応、採取した物がこれだ。後で分析しようかと思っていたのだが、これがどうかしたか?」
「なるほどな……。ジル・ド・レとなりゃ持っててもおかしくないわな……。でも、本当にそうだとするなら……」
「なに? 明嗣を連れ去った方法が分かったの?」
1人で納得して先の世界へ進もうとするアルバートを鈴音が呼びかけてこちらに引き戻す。呼びかけで我に返ったアルバートは少し困った表情で頬を掻いた。
「いや、すまねえ。思ったより厄介な代物を向こうが持っている可能性が出てきてな……」
「と、言うと?」
その厄介な代物の正体を知るべく、ミカエラが続きを促す。すると、アルバートは緊張した面持ちでその名を口にした。
「おそらく、明嗣を攫った方法は『ネクロノミコン』に書かれた魔術だ」
「ねく……何?」
聞き慣れない単語に鈴音が困惑した表情を浮かべた。すると、ヴァスコが噛み砕いた形で補足した。
「ネクロノミコン。古今東西、ありとあらゆる黒魔術が記された
「そんな物があるんだ……」
ヴァスコの言葉にアルバートが頷いてみせると、鈴音はとりあえずは理解したのか困惑した表情を引っ込めた。だが、アルバートが示した可能性を前にミカエラは思わず爪を噛んだ。
「ネクロノミコン……。もし、本当にそれがジル・ド・レの手にあるとしたら、ちょっとまずいわね……」
「ああ。広範囲に病を振りまく呪いから悪魔召喚の儀まで文字通りの人類の脅威になり得る黒魔術があれ一冊に全部つめこまれている。まさか現存していたとはな……」
「で、でも! ジル・ド・レって真祖なんでしょ? なら、能力を使った時の明嗣みたいにその魔術を使う度に血液を消費するから連発できないとか、なにか制限があるかもしれないよね?」
確かに鈴音の言う事は一理あるかもしれない。だが、ミカエラがその希望をいともあっさりと否定した。
「残念だけど、
「ジル・ド・レは『吸血鬼と人間の理想郷』を謳う事で
ギリッとヴァスコが悔しげに奥歯を噛む。鈴音も話を聞いた途端、その邪悪さに嫌悪するような表情を浮かべる。一方で、アルバートはふと浮かんだ、
「ところでお前さん方、やけに真祖について詳しいが何かそういう資料でも残っているのか?」
「当然だろう。悪魔召喚による真祖の誕生は今でも起きていて、私達はそれを
ヴァスコがそれが当然だ、と言いたげな口調で非道な事実を明かす横で、ミカエラは言ってしまった、という表情でため息を吐いた。それを受け、鈴音が怒りと驚きが入り混じった声を上げる。
「何それ!? ただのとばっちりじゃん!」
「それがどうした。神が定めた人の
なるほど。明嗣が嫌うのも納得である。今までは話に聞いた程度で、なんとなく関わり合いになってはいけない程度の認識だった。だが、今この瞬間に鈴音の中で、こいつは嫌いな奴から許してはならない奴になった。
「いくら身内が吸血鬼に成ったからって、その家族全員まで殺すなんて許されるはずないでしょ!?」
「何を言っているんだ? 放っておけば同じ家族から後続が出るかもしれない。そして、そうなる原因のほとんどが、
「でも、だからって……!」
「貴様は自分の家族が吸血鬼の被害に遭ったとしても同じ言葉を吐けるのか?」
口調自体は静かだが、ヴァスコの表情には明確な怒りが浮かんでいた。その威圧感に鈴音は思わずたじろぎかけてしまう。だが、それでも。隠蔽だけではなく、推定有罪で裁きを下す事を当然と
「それでも……そんなの間違ってるよ! 人を守るために戦っているのにその人を殺しちゃうなんて……!」
「ヴァスコ、やめなさい。あなたの
「鈴音ちゃんもそこまでだ。今は道徳の授業の時間じゃない」
大人二人に
「ごめんね。ヴァスコは家族が吸血鬼に殺された過去があってね……。だから、吸血鬼が絡んでくるとちょっと苛烈になるきらいがあるのよね……」
「なるほどなぁ……」
「それより、これからどうしましょうか。あの半吸血鬼の坊やを探そうにも手がかりがないんじゃねぇ……」
「現状、一番の問題はまずそれだな……。さて、どうするか……」
何をするにも、まずは情報がいる。だが、一番欲しい情報をどうやって入手するかが分からず、アルバートは考え込むように再び腕を組んでため息を吐いた。