品川区上大崎。
日は沈み、多くの家庭が夕食の時間帯を迎える。リビングには四人掛けのダイニングテーブル。才雅は母親と向かい合うようにして、食事をしていた。テーブルの上には、デパ地下で購入した惣菜が並ぶ。汐崎家の食卓では、手料理の出現率は低く、辛うじて白飯が自宅で炊いたものである。
「ネイル、変えたんだ」
口を開いた才雅の視線の先は母親の指。爪に水色のネイルが施されていた。母親の仕事は舞台女優である。人前に立ち、人に見られることが常、メイクや美容には気を使っていた。
「少し夏っぽくね」
「ふーん」
聞いておいて気のない返事で返すが、『水色のネイル』で彼が思い浮かべたのは、友人の早坂愛だった。断っておくが、ジロジロ見て、彼女のネイルが水色だと記憶したのではない。秀知院学園において、彼女が異質の存在なのだ。アイルランドの血を引く、金髪碧眼が目立つのは然ることながら、短いスカートに、派手なネイル、第二ボタンまで外したワイシャツの襟の間ではネックレスが光り、控え目だがしっかりとメイクもしている。見事なまでの校則破りで、才雅が風紀委員との仲裁に入ったこともあった。
「気になる人でも出来た?」
「は?」
「何か、そんな感じがする」
そう言って、母親はフフッと小さく笑う。質問を投げ掛けておいて、答えを待たずに決め付けるのは如何なものだろうか。才雅は、露骨に嫌な表情を露わにする。しかし、親とは目ざとい生き物で、彼の普段とは違う間の取り方を察し、恋愛と結び付けたようだ。
「居ねーよ、そんなの」
「あら、残念。お母さんが初めてお付き合いしたのは高二だったのよ」
「いや、聞いてないから。ご馳走さま」
才雅は、席を立ち、キッチンのシンクへ茶碗と箸、グラスを持って行く。彼は、スポンジに洗剤を垂らすと、洗い物を始めた。自分の食器は自分で洗うのが汐崎家のルールだ。
「才雅。明日、食べたいものある? お弁当作ろうか?」
「休みなら休みなよ、得意でも無いんだし」
「・・・・・・そう。いつもごめんね」
母親は家事が苦手だった。と言うのは、三人で暮らしていた頃は、お手伝いさんを雇っていたため、自分でする必要がなかった。だが、生きて行くにはお金が必要で、金銭面で言えば、前と同じ生活は出来ない。それでも、一般庶民から見れば充分良い暮らしを送っている。
才雅は自室へ帰ると、勉強机の椅子に深く座る。見上げたのは、白い天井。少し強く当たってしまったかなと言う罪悪感と、母親のネイルに話題として触れなければ良かったと言う後悔。
(・・・・・・白銀は自分で自分の弁当作ってたけど、早坂の家は明日は何が食べたいのーとかいつも聞かれんのか?)
以前、友人二人それぞれから貰った手弁当。白銀は良いとして、早坂は、『家で才くんのことを話したら、お母さんが勘違いして二人分の弁当を作った』、そう言って弁当をくれた。他所の家と比べるつもりはないが、憐れまれていたりするのだろうか、と彼はふと思う。
(いや、考え過ぎ・・・・・・)
才雅は、徐ろに足元のスクールバッグから厚みのある冊子を取り出した。表紙に『愛憎の女達』と書かれた演劇部の台本である。理由は無い。頭の中のモヤモヤを早く追い出したかった。しかし、読んで数行。台本を閉じると、勉強机に放り投げた。
「あ」
投げられた台本は、机の上の腕時計の収納ケースに当たった。そして、ビリヤードの要領で収納ケースは床に落ち、小さく音を鳴らす。飛び出た腕時計は、黒の文字盤と黒のレザーベルト、白を金で縁取った針と数字、大手ブランドメーカーの名前が刻まれる。
(電池は、大丈夫か)
腕時計を拾い上げ、正確に時を刻む針を眺める。
だが、離れたことで、才雅には分かったことがある。世界的ヴァイオリニストと呼ばれる
彼は思う。理解はしている。けど、納得はしたくない。
「風呂。ささっと入って寝よう」
席から立ち上がった才雅の気を引くように、タイミング良く机の上のスマホの画面がパッと明るくなった。表示されたのは、ラインのメッセージ受信画面だった。
「紀だ」
メッセージの送り主は、秀知院の同級生である。二年C組でマスメディア部の紀かれん。才雅が劇伴を手掛けた演劇部の定期公演『愛憎の女達』の公演前の取材をしたいとの申し入れだ。提示された日程は明日の放課後だった。
「急だな、おい」
才雅と紀の交流は中等部まで遡る。当時の才雅は大のメディア嫌い。学祭のライブステージの取材をしたいと、新聞部に頼まれたが、彼は秒で断った。ちなみに、中等部にマスメディア部は存在しない。近いものとして中等部では新聞部が存在する。しかし、名の通りの活動しか出来ず、高等部と比べて制限も多い。
そんな彼に繰り返し取材の申し込みをしたのが、紀である。彼女のしつこいアプローチならぬ、熱意に折れて取材を受けたのが始まりだった。今では、才雅の取材は紀が担当、と言うのが秀知院における暗黙の了解である。
ただし、アポ無し取材は受けないこと、取材内容を事前に知らせること、この二つを約束したのが、中等部一年の冬。今では、あってないようなものである。
才雅は、ラインで『了解』とだけ返信した。
●
翌日の放課後。才雅は、マスメディア部の部室に居た。インタビュアーは、紀かれん、並び同部員の巨瀬エリカである。巨瀬は、紀と同じ二年C組の生徒であり、才雅に取材がある時は、この二人がいつもセットだ。
彼は、『曲を作るに当たり苦労したことは?』と言う質問に答えていた。
「シーン毎に尺の指定があるのが大変だったかな」
「なるほど。じゃあ最後に、来場する皆様にメッセージを!!」
巨瀬がボイスレコーダーを食い気味に才雅へ向けた。ちなみに、紀はメモ帳とペンのアナログ派のようである。
「ぇと・・・・・・楽しみにして下さい」
「ありがとう。これで記事に関わる質問は以上かなー。で、ここからはオフレコなんだけど────黒野くん。最近、かぐや様とよく話してるよね」
「会長だけでは飽き足らず、かぐや様にも手を出すなんて、身の程知らずも良いところですわね」
二人の急な態度の変わりよう。巨瀬は、四宮かぐやを妄信するかぐや信者。紀は、白銀✕かぐやのカップリング推しのカプ厨である。簡単に言うと、同級生に対してヤバイ妄想をするヤバイ二人なのだ。間違っても本人の耳に入ることがないよう周囲には常に気を配っている、と彼女らは思っている。
実際、二人のディープな生態を知るのは一部の人間のみ。彼女らと仲良しグループのメンバーである四条眞妃、柏木渚、そして────数々の取材を通し、何だかんだ付き合いのある汐崎才雅。故に、面倒ごとも多いが。
「クラスメートなんだから、別に話して良いだろ」
紀は探偵のように目を光らせ、口を開く。
「でも、おかしいですわね。以前、黒野くんは『四宮に嫌われている』と仰っていたのに、辻褄が合いませんわ」
「それは普通に仲直りしたで良いじゃん。前の席は、席前後だったし」
『席前後』に反応したのは、巨瀬。席から立ち上がり、クレーマーの如く火を吹いた。
「前後!? 席前後って何!! 私、聞いてない!!」
「ほら。高等部入ってから、俺、汐崎になったじゃん。四宮の『し』と汐崎の『し』で、新学期始まったばっかの時は席が前後だったんだよ」
彼の言葉に巨瀬の脳内がフル稼働する。もし、自分がかぐやと同じクラスだったら────五十音順ならば、自分が前の席で、かぐやが後ろの席になる。
妄想の中で、巨瀬は、前の席から回って来たプリントを後ろへと回す。
『かぐや様。後ろの席へプリントをお願い致します』
かぐやの指の細い手がプリントを受け取る。
『巨瀬さん、ありがとうございます』
彼女の頭の中のかぐやは、それもう女神のように優しく微笑んだ。
「かぐやしゃまと前後の席・・・・・・」
心の声が漏れ、巨瀬の頬が緩む。しかし、巨瀬と四宮、五十音順としては近いが、間に他の人間が入る可能性もある。現に汐崎が存在するように。そして、彼女はある結論に辿り着く。
「────これはもう、偽装結婚しか!!」
「真面目な顔してボケないでくれる?」
「そうですわよ、エリカ。黒野くんには、は────」
「俺がなんだって?」
「いえ、なんでもないですわ・・・・・・」
紀は、笑顔を作り口を紡ぐ。
(危ないところでしたわ。黒野くんには、早坂さんが居るなんて言ったら、お二人の努力が水の泡ですもの)
補足しよう。紀は、才雅と早坂が秘密の交際関係にあると思い込んでいる。
去ること一ヶ月前。巨瀬がある場面に遭遇した話に始まる。渦中の人物は、白銀御行と藤原千花。『白銀が藤原の弁当を作る約束をする』と言う場面だった。高校生の男女がそのようなやり取りをするなんて、答えは一つしかない。きっとあの二人は男女の仲なのだと、巨瀬は紀へ報告をした。しかし、紀はこれを全面否定。白銀✕かぐや推しの彼女が認めるはずもなく、テーブルゲーム部の藤原がゲーム感覚で推しカプの関係を掻き乱そうとしているに違いないと、とんでもない言い掛かりを付けることで、両者の間で決着が付いた。
しかし、火のないところに煙が立たないと言葉があるように、紀は二人の関係の行方が気掛かりではあった。翌日、昼休みになった瞬間、廊下へ飛び出し調査を始めた。そう、あくまでスクープを狙った調査である。
そして、白銀から弁当を受け取る才雅の姿を目にする。会話の内容は分からないが、才雅は後から登場したかぐやへ弁当を流したのだ。経緯は分からないが、彼女は思う。やはり勝つのは正妻だと。調査は無事終了と言うところで、才雅の手を引き消えたのが早坂愛だった。記者としての予感が働き、後を付けて見れば、人気のない場所で二人は弁当を食べ始めたのだ。早坂の手弁当を。
(全く、エリカもまだまだですわね。早坂さんは、かぐや様ファンクラブの一員。メンバーの恋愛事情にも気付かないなんて)
かぐや様ファンクラブとは、紀と巨瀬による非公式のファンクラブである。日頃のかぐやの様子を報告し合うのはもちろん、生徒会室でのあること無いことを想像し、己の願望を交えながら語り合うのが主な活動だ。とあるきっかけから、早坂は彼女らに仲間と見なされて、ファンクラブの一員となった。
一方、才雅と巨瀬の会話は、変わらずかぐやが話題の中心のようである。
「それで、かぐや様は練習中どんな様子なの? セリフはしっかり覚えて来るタイプ? それとも練習の中で覚えて行くタイプ?」
「知るか!! 四宮に取材しろよ」
「だって、部長が貴女たちは駄目だって言うんだもん!!」
少し怒り気味な巨瀬。取材をするのに私たち以外に相応しい人間はいないとでも言いたげな様子だ。
「マスメディア部の部長は危機管理能力が高いんだな」
「私はただ、かぐや様の素晴らしさを伝えたいだけなのに!!」
いや、絶対に偏った記事を書くだろと才雅は心の内で突っ込む。
「もう少し、エリカがかぐや様の前で平常心で居られたら違うでしょうね」
「ちょっと、かれん!! 人のせいにする気!? 私、かれんみたいにヤバイ発言はしないもん!!」
「ヤバイ発言とはなんですか!! かぐや様にまともに挨拶が出来ない人が取材なんて出来るわけないでしょう!!」
「う、それは仕方ないでしょ!! だって、かぐや様のあのルビーのような瞳を前にすると緊張して!!」
「心配しなくても、かぐや様の目には会長しか映りませんわ」
一体何のコントを見せられているのだろうか。才雅は、二人の軽快なやり取りを、よくも飽きずにと思いながら眺めている。
そして、盛り上がった熱を冷ますように、部室のドアが二回ノックされ、返事をする間もなく開かれた。現れたのは、ショートカットで、メガネを掛けた女子生徒だった。
「二人とも取材は
彼女こそがマスメディア部の部長、朝日雫である。いつまで、
「あー俺、そろそろ帰ろうかな・・・・・・」
空気を読み、才雅は退散の道を選ぶ。静かに去る彼に朝日は声をかける。
「黒野くん、いつもありがとうね」
「あ、いえ。お疲れ様でした」
頭を下げ、才雅は足早にマスメディア部の部室を後にした。