────私立秀知院学園。
都内屈指の名門附属校であり、高等部の編入には偏差値七十七前後が必要とされる。無論、授業中に私語は無く、真面目に取り込む生徒がほとんどである。とは言え、睡魔と言うものは名門校であろうがなかろうが、容赦なく生徒たちを襲う。
白髪混じりの頭。世界史を受け持つ男性教師は、黒板への板書を終え、体を百八十度回転させた。教師の前には教壇。そして、規則正しく並べられた座席に着く生徒たち。生徒たちの視線は、黒板と机の間を往復し、手に持つペンをノートに走らせる。その中で、手が止まった生徒を見つけるのは容易なことで、男性教師は、垂れ下がった頭に向かって注意を入れる。
「
不意に名前を呼ばれ、汐崎
「・・・・・・すいません」
消え入るような声で謝罪を口にする。普段は気が強そうな大きな瞳も、この時ばかりは瞼が重く締まりのない顔である。周囲の生徒は、やはり見つかったかと、憐れむような呆れるような視線を彼に向ける。ただ一人、隣の席の早坂愛は心配そうに彼を見つめていた。
昨夜、才雅はバイトだった。元々、バイトの日は、寝る時間が遅くなる傾向にはあったが、店のステージに立った日の翌日は、ほぼこの状態に陥る。目立ちたがり屋、と言うわけではないが、唯一の特技と言って良いヴァイオリンを人前で弾き、注目を浴び拍手を送られれば嬉しいもの。結果、神経が高ぶって眠れなくなり、寝不足の状態で学校に登校し、授業中に寝落ちする。そして、教師に注意されるまでがワンセットだ。
時計の針は進み、待っていたチャイムの音が彼の耳に届く。安堵の気持ちから、才雅は机へ突っ伏した。が、直ぐに意識を引き戻される。
「ねぇ、またバイト?」
愛嬌のある可愛らしい声。彼を気遣ってか、声は小さい。突っ伏した顔を横に向け、才雅は声の主を見上げる。彼女は、早坂愛。制服を着崩したギャルで、色々と軽そうな見た目をしているが、れっきとした秀知院生である。ただし、前回の試験順位で中央値に位置する早坂に対し、才雅はそれより三十位ほど上。この男、居眠りの常習犯のくせに常に平均より上をキープしている。
「んー」
気のない返事をし、そのまま顔を伏せた。
「ノート貸してあげよっか?」
「マジ?」
才雅は、勢い良く体を起こすと、目を輝かせた。自身を薄情だと思いつつ、やはり持つべきものは友達である、心の中で強く肯定する。期末試験まで、あと二週間。そのうち教室はピリつきだすだろう。情報収集は今がチャンスだ。
「一つ貸しだからね〜」
「昼休みに購買で何か買って来るよ」
二人のこのやり取りは、クラスでは見慣れた光景である。才雅は早坂からノートを借りると、購買でお菓子類を買って来て礼の品としていた。
一連のやり取りを見ていた、早坂といつも行動を共にする女子二人が話の輪に加わる。
「ウチはポッキーが良いな」
ポニーテールがトレードマークの火ノ口三鈴だ。彼女のリクエストに才雅は顔を歪ます。
「火ノ口に買う義理はない」
「早坂のものはウチのもの、ウチのものはウチのもの」
「お前はガキ大将か!!」
「二人の邪魔したら悪いって」
駿河すばるは、もー駄目じゃないのみたい雰囲気で、隣に立つ火ノ口を軽く小突いた。
早坂の青い瞳は大きく揺れる。興味のない異性とのイジりは最悪だが、彼は別。口元を緩め、チラチラと才雅に視線を送る。
「別にそんなんじゃないしー。ただ、席が隣なだけって言うかぁ」
まんざらでもない表情の裏では、心臓がバクバク鳴っている。彼に気付かれたい気持ちと気付かれたくない気持ちが、彼女の内でせめぎ合う。
しかし、当の本人は「俺はプリッツが好きだ」なんて言って火ノ口に語っている。彼女もノリが良いので「ロースト美味しいよね」なんて会話を繰り広げていた。
(少しくらいコッチ向いてくれたって良いじゃん!!)
彼は完全に色気より食い気。思えば、彼から貰った礼は、結局、彼と一緒に食べている。持ち帰ったところで、口にする時間は無いし、そう言う過ごし方を楽しむ自分が居るのも事実だが。焦れったい、あまりにも焦れったい。早坂は、小さく溜め息を付いた。
────昼休み。
教室の隅で早坂は、火ノ口、駿河と弁当を広げていた。一日ある三食の食事の内、唯一ゆっくり食べられる時間である。朝は時間がないので、片手間に食べやすいサンドイッチを、昼は手弁当で、夜は従業員用の休憩室で夕食を頂く。その際に顔を合わせた同僚から、悩みや愚痴を聞くのも四宮家別邸を取り仕切る彼女の役目でもある。食事は全て、四宮家のコックが従業員用に作る手料理だ。主人のかぐやと比べれば、豪勢さは欠けるが、一日フルで働けるだけの栄養管理はされている。
そんな主人は、今は生徒会室である。早坂にとって、生徒会室は聖域。かぐやの指示無しで立ち入ることは
「早坂さー。最近、お
「え〜。そぉーかな」
火ノ口の言葉に、早坂はトボけた反応をし、卵焼きにパクつく。ちなみに、お弦さんとは、汐崎才雅のこと。早坂が二人に頼んだのだ。必要以上に彼との仲を取り持つことはしないで欲しいと。ならば、私たちにしか分からない彼の呼び名を作ろうよなんて話になり────才雅は、ヴァイオリンを弾く。ヴァイオリンは、弦楽器。だから、弦。漢字は違うが、某アーティストをモジッた。
二人に予め釘を刺しておいたのは正解だったと早坂は思う。ずっと彼女の中で疑惑だった、彼はハーサカのことが好きなんじゃないか説。その信憑性は高く、彼に気持ちがある以上、アプローチは慎重に行わなければならない。だが、全く気付かれないのは、それはそれで腹が立つ。
当人を他所に友人二人は話を進める。
「駿河はどう思う?」
「まぁ、愛ちゃんの好き好きーって気持ちは分かるけど、このままだと都合の良い女になっちゃうかもね」
「え」
駿河から投下された爆弾に、早坂は凍りつく。
普段、恋愛について知った風を装い二人と話をする早坂だが、実際は、恋愛経験ゼロな上に、ファーストキスにアレコレ夢を見る、ピュアピュアな少女である。その手に関して言えば、二人の経験値はずっと上。今の自分の立場は、そんなにヤバいのだろうか。正体の分からない焦りに駆られる。
同意するように火ノ口から第二波が放たれる。
「だよね〜。恋愛は駆け引き、ただ優しくすれば良いってもんじゃないのよ。それに、お弦さんだって、このままだとダメンズになっちゃうよ? 男は甘やかした分だけ何もしなくなるから」
(────ダ、ダメンズ!?)
「そうそう。あと、最悪の場合がオカン認定されることだからね。尽くし過ぎた結果、ウザがられて距離を置かれるパターン。お前は俺の母親かって」
(────オ、オカン認定!?)
二人の言葉に早坂は目眩を覚えた。最近、早坂愛として、彼に尽くそうとする自分が居る自覚はあった。彼の気持ちをハーサカから少しでも引き離したかったから。では、どうしたら彼の心を揺さぶることが出来るのだろうか。すがる思いで、二人に問う。
「ウチ、どうしたら良いのかな?」
「少し冷たくしてみるとか」
「他の男の存在を匂わす」
「・・・・・・やっぱ、そうなるよね」
恋愛の駆け引きにおいて有名なアレだ。押して駄目なら引いてみろ。しかし、期待した反応が返って来なかったら辛いし、そもそも彼に効果があるのだろうか。性格的に、人生は一期一会、出会いがあれば別れがあるとか思っていそう。彼に対する早坂のイメージ。匂わせた男の存在を祝福されたら心を抉られるし、距離を置いて、それをすんなり受け入れられた日には寝込むかもしれない。
「ひとまず、仲の良い女友達って関門は突破してるわけだし、試してみる価値はあるんじゃない? ゆる~く聞いてみてさ」
「案外、焦ってくれるかもよ?」
もし彼に「早坂、行かないでくれ!!」と、懇願されたら────なんて、早坂は想像する。控えめに言って、あり。追いかけるばかりで、追われることは考えていなかった。
ここだけの話、愛し愛されたい欲の強い彼女。つまりまぁ、妄想の中の彼はちょっとばかり狼なのである。これ以上は彼女の尊厳に関わるので、ご想像にお任せしよう。
●
数日後。事件は放課後に起きた。
早坂が足早に去った二年A組の教室。才雅は、火ノ口と駿河に声を掛けた。
「ね。今度、どっかの放課後でさ、数学教えてよ」
「それ、ウチらに言ってるの?」
「うん」
火ノ口の問いに躊躇なく頷く彼。火ノ口と駿河は顔を見合わせた。早坂と言う者がありながら、他の女に声をかけるなんてと思い、二人は口撃に移る。
「愛ちゃんは良いの? よくノート借りてるでしょ」
「早坂は放課後バイトだろ」
────た、確かに。
二人は再び顔を見合わせた。実際、早坂は今も居ないし、バイトを理由に放課後や休日の付き合いが良くないことを二人はよく知っている。否定しようのない、事実だ。
「でもやっぱさ、まずは早坂に聞くのが筋って言うか」
「ノート借りた上に勉強教えろって言うのは図々しい気がするんだけど」
────何も言えねぇ。
彼の反論に怯む。手持ちのカードを失った火ノ口と駿河は、黙り込むと、挑むようなオーラを醸し出す。そんな二人を前に、流石の才雅も異変を察するわけで。
(何この早坂推し)
才雅は、彼女らが早坂を推す理由を考える。まず、早坂のノートが綺麗なのは認めよう。しかし、数学が得意だと聞いたことは無い。それに、言ってしまえば、前回の学年順位は自身の方が上だ。教える、教わるの関係で考えた時、いささか実力不足を感じる。そして、彼は口を開く。
「俺、前回の試験順位、早坂より上なんだよね。だから、教わるなら自分より上の────え?」
様子が一転、青ざめる火ノ口と駿河。彼女らが向ける視線は、才雅の後方だ。彼は素直に振り向けば、満面の笑みの早坂が居た。その手には表紙に数学と書かれたノート。
「へー。人からノート借りておいて、そう言うこと言っちゃうんだ」
この場合、怒りの沸点を超えた笑顔と言うのが正しいだろう。
「は、早坂・・・・・・」
「ウチはノートを貸してくれる都合の良い女ってこと?」
「いや、今のは違くて・・・・・・」
「最っ、低!!!!」
走り去る彼女を前に、才雅は呆然と立ち尽くす。
「これは完全に
「弁護のしようがないよね」
「あーあ。早坂に嫌われちゃったんじゃないの?」
「普段、怒らない愛ちゃんが怒るなんて相当だよ」
友人二人の言葉が才雅の背中に突き刺さる。顔面蒼白の彼は、静止画のように固まっている。
微動だにしない彼に危機感を覚え、火ノ口と駿河は、手の平を返すように対応を切り替える。このまま、二人の仲が修復不可能なんてことになったら、非常に不味い。彼を煽ったことに対し、彼女らも責任は感じていた。
「とにかく追い掛けて謝った方が良いよ」
「土下座でも何でもすれば大丈夫だって」
「話せば分かる子だから、誠心誠意向き合ってさ」
「こう言うのは絶対に早い方が良いから」
その後、背中を押された才雅は、早坂を捜しに校舎中を回ったが、彼女を見つけることは出来なかった。
●
「早かったけど、用はもう済んだの?」
車に乗り込む早坂に向かって、かぐやは言い放った。忘れ物を取りに行くと言う彼女を待つため、校舎から少し離れた場所に、車を待機させていた。
「はい。お待たせして、申し訳ありませんでした」
「別に構わないけど、彼と何かあった?」
「いえ。何も」
かぐやは、彼女の異変に直ぐ気付いた。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもの。しかし今日は、帰宅したら来客の対応がある。その件について、話し合う余裕は無い。ひとまず、仕事に影響は無いだろうと、かぐやは判断する。時間が出来たら、問いただせねばならない。
「そう。なら良いけど」
「この後の流れになりますが────」
早坂は、スケジュールを纏めた用紙をスクールバッグから取り出そうと、手を突っ込む。その時、彼女の気を引くように、スカートのポケットの中で、スマホが震える。大方、友人二人か彼であろう。
(・・・・・・サイレントにしとけば良かった)
緊急の用件に対応が出来るよう、音無しのバイブ設定が基本である。脳裏には、初めて見た動揺する彼の姿が蘇る。
これを機に少し反省すれば良いと、彼女は思う。私が普段、どれだけ貴方に気を掛けているのか、知らないでしょと言ってやりたい。ただ、自分の意志でやっているものであって、見返りを求めるのは筋違いだとは分かっている。けど、流石に今回はあんまりだ。
(私を大切にしないと、いつか後悔するんだから)