五月。大型連休が終わり、学生は学校へ登校し授業を受け、日々勉強の生活が再び始まる。
時刻は午前七時。スマートフォンのアラームがピピッと電子音を鳴らし、部屋の主に起床時間を知らせた。
「・・・・・・・・・・・・」
静かになった部屋で、大きなアクビを一つ。未だ、目覚めとは遠い顔付きで、毎朝恒例のルーティンを行う。トイレで用を足し、顔を洗い髪をとかし、制服へと着替える。
「ん?」
覚醒状態になり、初めて気付く。やけに静かな朝だとは感じていたが、自分以外の人気を感じない。その答えは、リビングに行くと判明した。
「げ。今日からだっけ?」
ダイニングテーブルに置かれた一枚の紙。才雅は書かれた文面に顔を歪ました。『今日から大阪だから、今週は一人暮らし宜しくね』との母からのメッセージと一万円札が二枚。
中学三年の春休み、才雅の両親は離婚した。以来、彼は品川区のマンションで母親と二人暮らしをしている。一般的に母子家庭は生活が大変そう、そのような印象を持つ者が多いかもしれないが、汐崎家は例外だ。才雅の
「あー朝飯・・・・・・」
壁掛けの時計にチラッと視線を動かし、どう動くべきかを思案する。限られた時間、そんなたいそうなものを作る時間はない。直ぐに冷蔵庫を開けると、ラップに包まれた冷凍ご飯を電子レンジで解凍。広げたラップの上で、湯気を上げる白飯の上にお茶漬けの素をふりかけ代わりにかける。再び、ラップで包み直し、手で軽く握ればお手軽おにぎりの完成だ。
「うん。旨い」
才雅の母親の仕事は、舞台女優である。最も、彼が生まれ、彼がヴァイオリンに専念をしていた中学までは仕事を休業していた。その中でも現場から離れないよう、ボイストレーニングや演技など未来ある若者たちに向け、指導を行っていた。そんな母親は、今ではすっかり女優として現役復帰をしている。そのため、舞台の公演に合わせ、地方に赴くことは珍しくない。
「・・・・・・問題は夜からだな」
時たま訪れる一人暮らしの時間。昼食は、毎日学食を利用しているので、考える必要はない。朝食だって、毎日欠かさず食べてはいるが、今日のように軽くお腹を満たせれば充分である。問題は夕食。それなりものを、それなりの量で食べたいものである。才雅は、家事が出来ないわけではない。一人の時は、ちゃんと料理も掃除も洗濯もする。ただ、雑ではあるが。
「もう、こんな時間か!!」
考えごとに時間を費やし過ぎたようだ。止まっていた手に持つ、おにぎりを口の中に押し込み、才雅は家を飛び出した。
才雅は、自転車通学である。青いカラーリングのいわゆるママチャリに乗ると、ペダルを踏み込んだ。前カゴにはスクールバッグが投げ込まれ、背中にはヴァイオリンケースを背負う。自宅から秀知院学園までは、およそ二十分程度の道のりだ。電車通学でも良かったのだが、体力を付けたい、そんな理由で自転車通学を選んだ。
(普通に間に合った・・・・・・)
人間急げば何とかなるものである。
秀知院学園は、歴史ある名門校として有名だが、理由は他にもある。家柄と財力に恵まれた家庭の生徒が多い。つまりは、お金持ち。特権階級などと比喩されるような人間があちらこちらに居るのだ。安全面の兼ね合いから、一部の生徒は車通学をしており、学園の敷地内には、そのための車寄せのロータリーが設けられている。
一方の才雅は正門を自転車で突っ切り、自転車置き場へと抜ける。自転車通学者が少数派のせいか、置き場は奥まった場所にあった。指定の箇所に自転車を停めると、校舎へと向かう。これが地味に遠回りなのだ。
「さーいくん」
聞き慣れた可愛らしい声に才雅の足が止まった。こちらに向かって手をヒラヒラと振るのは、クラスメートの早坂愛。短く折られたスカートの下からは、色の白い足がスラりと伸びる。ワイシャツのボタンは二つ開け、首元にはシンプルなデザインのネックレスが踊る。ちなみにこれらは、風紀委員に見つかると注意を受ける代物だ。
「おっす」
「おはよ」
笑顔で駈け寄る早坂は、金の髪と青い瞳が目を引く。母親がアイルランド人と日本人のハーフで、彼女自身はクォーターになるが、北欧の血が濃いのだろう。天然で、その外見なのだ。
「今日は早いんだな」
「何それ〜。私がいつも遅いみたいじゃーん」
「早坂はいつもギリギリだろ?」
決して、才雅も早く登校するタイプでは無かったが、大抵は早坂より早く教室に居た。
「女の子は朝の準備が大変なんだってばー」
「ふーん。俺は顔洗って髪とかして終わりだけどな」
「少しは労れし」
早坂は頬を膨らませると、手に持ったスクールバッグを才雅に向かって当てた。
「何だよ。荷物でも持ってやろうか?」
「そう言うじゃないんだってばー。気遣いが出来ない男の子は、女の子にモテないよ?」
口では、そう注意を促す早坂であるが、彼が異性にモテるなんてことが起きては、堪ったものではない。ライバルが増えるだけだ。しかし、実際問題、彼の顔立ちは悪くない。真っ直ぐ通った鼻筋に意志の強そうな大きな瞳、そして、裏表のない性格。これで、女の扱いを覚えてしまえば、間違いなくモテるだろう。
「いいよ。俺にはコイツがいるから」
才雅は、背中のヴァイオリンケースを見せる。
「何、将来楽器と結婚する気?」
早坂は冗談のつもりだった。ところが、才雅は少し考える素振りを見せると口を開く。
「相手がいなければそうなるだろうな」
その言葉に早坂の表情は強ばる。
彼と友人としての付き合いを持ち早一ヶ月。現在、汐崎才雅に彼女はいない。世間話として交わした会話の中で早坂が得た情報だ。非常に喜ばしい事実ではあるが、彼は恋愛にあまり興味が無さそう、そんな印象を感じていた。何故なら、彼は中等部時代、ヴァイオリンに集中したいと言う理由で同級生の告白を断っている。その過去を知る早坂としては、今の発言を黙って聞き逃すことは出来ない。
「じゃーさぁ、四宮さんのことは好きじゃないの?」
いたずらっぽく笑う早坂の問いに、思わず才雅の足が止まった。
「え。何で?」
「前に映画を観に行こうって誘ってたでしょ?」
まさかあの時の会話が聞かれていたとは。才雅は全くの予想外だった。いや、他の生徒も居た教室で持ち掛けた時点で、第三者に聞かれていたのは必然と考えるべきか。
校舎に向う生徒の波の中で、止まって会話をする二人。時おり向けられる視線に不快感を覚えながらも、才雅はいつもの調子で表情を崩した。
「そんな、大きな声で話してたつもりなかったんだけどな・・・・・・」
「教室で話せば誰かに聞かれるって発想ないの? 甘いな〜」
「まぁ、確かに。でも見事に振られちゃったよ」
早坂は注意深く彼の表情を読み取る。悲しみや悔しさの感情は読み取れない。その一件は、以前、彼女が予想した通り彼と白銀御行が仕掛けた作戦だったのだろう。辿り着いた結論に安堵する。
「ああいう
二人は再び歩き出す。トーンは軽く、顔は笑顔で、あくまで恋バナの延長として早坂は話題を振る。
「んーどうだろう。でも、髪は長い方が好みかな。上げてる時と下ろしてる時のギャップが個人的にはグッと来る」
「へぇー。じゃあ、内面的には? 真面目な方が良い?」
「・・・・・・グイグイ来るね」
「そりゃ、恋バナ楽しいもーん」
何故、朝からこんなに元気なのだろうか。才雅は少し面倒に感じつつも、素直に答えることにした。日頃の付き合いがなければ、急いでいるとか適当な理由を付けて絶対に逃げていただろう。
「そうだな。お互いを尊敬出来て、尊重し合える関係性なら良いかな」
「・・・・・・真面目な回答でびっくりなんですけど」
「俺、真面目だろ?」
「本当に真面目な人は自分のこと真面目って言わないし」
「否定しづらいな、それ」
その時、校舎前の入口で、小柄な女子生徒が二人の前に立ちはだかった。厳しい視線を浴びせるのは、一年生の伊井野ミコだ。隣には、彼女の友人である大仏こばち。共に校則違反の取り締まりを行う風紀委員である。
「あっ」
瞬間、早坂は才雅の後ろに隠れると、素早くスカートの丈を直し、ワイシャツのボタンを止めだす。オシャレが大好きなギャルの早坂と真面目を絵に書いた優等生で風紀委員の伊井野は只ならぬ関係なのだ。
事態を把握した才雅は、伊井野の足止めに動く。最も校則を守らない側に非があるわけだが、朝から揉めごとは止めて欲しいと、彼は切実に思う。
「伊井野ちゃん、おはよう。朝から精が出るね」
「汐崎先輩、そこをどいて貰えますか?」
険しい表情が緩むことはない。相手が上級生であろうと不良であろうと、校則遵守の信念は突き通す、伊井野ミコはそう言う人間だ。とは言え、秀知院に分かりやすい不良は居ない。偏差値七十七を誇る学園だけのことはあり、生徒は皆、世間一般では優秀と称される優等生ばかり。その中で、スカートの丈を折って短くする、ワイシャツのボタンを一つまでのところを二つ開けるなど、公立校では当たり前な行動一つで、風紀委員に目を付けられてしまう。
「あ。駄目かな、俺の制服?」
「良いですか。校則を守らない早坂先輩をかばう、それは同罪ですよ!!」
「まぁ、まぁ。連休明けで気が緩んじゃったって言うか・・・・・・」
才雅は、何とか場を鎮めようとする。しかし、伊井野にとって、彼は、校則を守ってはいるものの黒に限りなく近いグレーな存在。彼女の
「それと。距離が近いです!! 年頃の男女がそんな近い距離で歩くなんて不健全極まりないですよ!! 秀知院学園の生徒として────」
「伊井野ちゃん、時間」
左手首に巻かれた腕時計を、才雅は見せ付けるように右手で指差す。時間は、始業時間の五分前。
「あ、あれ、もうそんな時間!?」
「そ。だから多目に見てくれないかな? 俺の方から、早坂にはよく注意しておくからさ。ね?」
才雅は、両手の手の平を合わせ、頭を下げる。普段は、押して押しまくる伊井野であるが、いざ素直に頭を下げられると弱かった。
「まぁ、時間も時間ですし。分かってくれるなら・・・・・・」
「サンキュ」
一瞬の間を見逃さず、才雅は早坂の腕を引くと走り出した。
「ちょ、話は、まだ終わってませんよ!! 全く本当に・・・・・・こばちゃん、私たちも教室に戻ろう」
「ミコちゃん。まだ、予鈴もなってないよ」
「え、嘘っ!?」
大仏に指摘され、校舎に設置された時計の針を確認する。予鈴まで、あと五分以上あった。
「汐崎先輩の時計、進んでたんじゃないかな?」
「それはつまり、私を騙したってこと!?」
「多分、元々進めてたのを忘れ────」
「クズじゃん!! 言ってよ!!」
素直な面がある一方で、伊井野は思い込みが激しいところがある。現に大仏の助言に全く聞く耳を持たない。
そして、グレーな存在だった汐崎才雅は、この日、彼女の
●
「引いたら、自分の席に戻ってねー」
六時間目の二年A組の教室。高らかに声を上げるのは、教壇に立つ
(これはもう日頃の行いの結果ね)
不敵な笑みを浮かべるのは、四宮かぐや。彼女は己の運のみで、望み通り才雅の隣の席を手に入れた。目的は、想い人である白銀御行の生徒会室以外での様子を聞き出すこと、その一点に限る。席が近ければ自ずと会話が生まれるわけで、今現在も、かぐやが動かずとも彼から勝手に話し掛けて来る。その話に適当に相槌を打ち、合間に質問を折り込むだけ、簡単に白銀の情報収集が出来てしまう。あくまで、受け身に拘る彼女にとって、これ以上楽なものはない。
しかし、席替えとは常にトラブルが付きもの。中には、不満を漏らす者が居るわけで。
「おいマジかよ!? 二回連続で一番前なんだけど!! 流石にこれは無しだよな!?」
大声を上げるのは、サッカー部の男子生徒。連続で後ろの席の奴は交換しろだの周囲に向かって騒ぎ立てている。彼は、クラスに置ける男子のカースト上位グループ。口と態度だけは、立派なものである。
「じゃあ、俺の席と交換する?」
才雅は呆れた表情、溜め息混じりに提案を持ち掛ける。不満が出ることは想定していた。だが、全員が納得する席にするのは無理なわけで、高校生ともなれば、ある程度は大人だし受け入れてくれる、そう期待をしていたのだが。
「え。マジ?」
「俺は学級委員長だからな。ただし、明日の昼飯奢れ」
「はは・・・・・・なら、三日奢ってやるよ」
強気に答える男子生徒。二人のやり取りは、すっかりクラスの注目の的となっていた。
一学期初めの席順は五十音順であり、学校側が勝手に配置を決めたものだ。その勝手に決められた一番前の席から動かないと言うのは、確かに可哀想ではある。今後、席替えを続ける上で改善の余地はあるだろう。
才雅はクラスメートらに向かって謝罪した。
「みんな、今回は俺のミスだ。悪かった。だからこの機会に、席替えのルールを決めたいと思う。今のケースだと、一番前の席を連続で引いたら、その場で引き直しにする。もちろん、本人の希望があればだけど。他に何かあれば言ってってー」
言いたいことはある。かぐやは言葉が喉まで出かかった。しかし、個人的な要望であって意見に出来るほどの説得力は無い。
(何、勝手に席を替えてるのよ!! あんな馬鹿、放っとけば良いじゃない!!)
彼女の思いを他所に意見は次々と挙がって行く。目が悪い人、勉強に集中したい人は初めから前の席はどうか。紙を引く順番は、残りものにならないよう、前の席の人から優先的に引いたらどうかなど。
「よーし。纏ったな。ちなみに、前の席に行きたい人居るー?」
呼び掛けに対し、手を挙げたのは大人しそうな男子生徒。教壇に立つ才雅は、先ほどの遠吠えの時、彼に席を気にする素振りがあったことを見逃さなかった。とは言え、あのまま二人が席を交換してしまえば、他の生徒の不満の火種になりかねない。あくまで、この場の指揮権を持ち中立である自身を挟む必要があった。彼のコミュニケーションスキルの定評は、性格によるものだけではない。
「はい。オッケー。俺と席交換ね」
「ちょ、ちょっと待て!! それズルいだろ!?」
異議を唱えたのは、再びのサッカー部員。
「何が?」
「いや、だから」
「別に良いだろ。双方の合意の上だ。だいたい、さっき席を替わってくれって騒いでた時、誰も手を挙げてなかったろ?」
事実ではある。が、状況が違う。男子生徒は、そんな表情を露わにする。一方の才雅は、いつまでも言い争う気はサラサラないわけで、畳み掛けるように満面の笑みを向けた。
「ああ。奢りの件なら無かったことで良いよ。俺は、
文句があるなら言い返してみろ、才雅は持ち前の目力で圧を掛ける。押し黙った男子生徒は、直ぐに自身の立場が悪いことを理解したのだろう。座席に着くとそれ以上は何も言わなかった。
その最中、表情にこそ出ていないものの心の内で戸惑うのは四宮かぐや。この短時間で、才雅の席が二回も替わったのだ。
(え、待って。もしかして黒野くんの席って早坂の隣り!?)
かぐやは、窓際中程の席である自分の席と替わるよう、早坂に視線で訴える。早坂は廊下側の一番後ろの席で、その隣が彼。しかし、彼女の願いが届くことはなかった。