――世界を救った経験があるか?
そんな問いかけを受ければ、ほとんどの人間は答えに窮することだろう。
あるわけがないと。
或いは何を言っているのかと奇異な目でみられるかもしれない。
それは彼女、凛堂ほたるとて変わらない。
「ヒメ」
ほたるが世界を救った少女の愛称を呼ぶと、はたして少女はくりくりとした愛らしいルベライトの瞳をほたるへ向けた。
「う? なあに、ほたるちゃん」
応えるのはきょとん、という感情が大半。そして気のせいでなければ呼ばれてはしゃぐような嬉々とした感情が少しだろうか。
「少し、くすぐったい」
「あはっ、そっかあ! ごめんねえ」
ほたるがそう告げると、少女――天河舞姫は破顔してしきりに撫でていたほたるの左腕から名残惜しそうに指を離した。
「ううーん。むむーん。ねえ、ほたるちゃん?」
こてり、とうつ伏せにほたるのベッドへと半身を伸ばす舞姫。指先が所在なさげにぴろぴろと動いている。
「なに、ヒメ」
「なにかしてほしいこと、ない?」
今度はほたるがきょとんとする番だった。
ただしそれは舞姫が意外な言葉を発したからなどではなく、これまで――いや、本日にして都合八度目にもなる問いかけだったからだ。
カチリカチリと秒針があるような時計ももはや旧時代の代物で、ここはただひたすらに静謐な空間だ。
白く塗られた僅かに凹凸のある壁面は小さくパーテションされて個室を形成している。
およそほとんどの人間が想像する範疇から出ることのないだろう病室そのままの造り。
ほたるが病衣で横たわるベッドは半身を起こした状態で固定してある。
傍に置かれた丸椅子は四つで、そのうちの一つに舞姫が腰掛けていた。
舞姫が撫でていたほたるの左腕、そして右腕はいまや何重にも巻かれた厚みのある包帯で覆われていて、実際にはほたるにくすぐったいと言えるほどの感覚がない。ただひたすらにじんわりと熱をもっている事だけがわかる程度だった。
つまり感想としては正しく『熱い』なのだが、それも舞姫の様子をみていると『くすぐったい』に変化してしまうのだから人心とは奇妙なものだとほたるは思った。
「大丈夫だよ」
ほたるも八度目になる返答をする。
口の端で微笑んだのをみてか、鏡合わせのようにえへーと笑う舞姫。
何度もしているはずなのに飽くることのないやりとりをして、穏やかな時間が流れてゆく。
開け放たれた窓に備え付けのカーテンが緩やかに波打てば、射し込む陽光に照らされた舞姫の白絹のような頭髪がベッドの上でキラキラと反射する。
その様はまるで宝石箱のようだった。
ところどころ跳ねているのが少しもったいないとほたるは思った。
できれば梳ってあげたい。
両腕は感覚がほとんどないだけで、実際動かすに支障はないのだが、一度それをしようとして舞姫が泣きそうな顔で飛びついてきたのでそれ以降は安静に横たえたままにしている。
舞姫がそろりそろりと手を伸ばして、いつの間にか再びほたるの左腕をとって撫でていた。
「傷、残らないといいなあ」
そんな事を言う。
ほたるはされるがまま、瞼を閉じた。
視界を遮れば或いは、と期待したものの熱を帯びただけの両腕からは残念ながら舞姫のぬくもりを感じることはできなかった。
瞬きをすれば優しい手つきで撫でる舞姫が心配そうに眉を顰めていた。
「そうだね」
もしも傷跡が残れば、この先ずっと舞姫は心を痛めることになるのだろうなとほたるは思った。
舞姫はこの見舞いに来る度に何度となく謝った。
私のせいで、とぼろぼろに泣いた事もあった。
――あのとき。
最後の戦い。
番人と呼ばれる大型の〈アンノウン〉との戦いは熾烈を極めた。
ほたるは舞姫とともにこれと相対したが、その強さに追い込まれて劣勢に陥った。
不意をつかれて宙空に跳ね飛ばされた舞姫を、ほたるが庇ったのだ。
ほたるのもつ〈世界〉はその視界にみえる全てのものを空間距離問わずに触れることができる。
それを利用した。
あの瞬間、隙だらけとなってしまった舞姫に向かった攻撃を全て視界にいれて、自分に向けた。
ほたるはそれを刀で全て捌くつもりだったが、結果として適わず両腕に痛烈なダメージを負う事になってしまったのである。
手当を試みた衛生科の医療班に状況を説明したときにはあまりにも大きな代償を支払ってしまったかもしれません、などと言われた。
千葉都市の千種霞からは名誉の負傷ですかね、と彼にしては心配そうな苦々しい面差しを向けられた。
ほたるはどちらも違うと思った。
「病室ってさ? なんでみんなおんなじようなお部屋ばっかりなのかなあ? ほたるちゃんが退屈しないようなつくりだったらよかったのに」
そわそわと落ち着きなく室内をみまわすヒメ。
ほたるははっとしたようにいつしか先日へ馳せていた思考の糸を切って言の葉を紡ぐ。
「病院というのはあえてそうしているんだっていう話だよ」
「ほえ? どして?」
「病院は怪我や病気のある人がくるところだからね。落ち着いて過ごせることが第一。そこに奇を衒えば安静からは程遠くなってしまう。だから人が一般的に想像する病院、想定する病室から決してかけ離れた造りにはしないんだ」
「あんせーにするために」
「そう、安静にするために。意識がない人が運ばれてきたとして目が覚めた時、ここは病院なのだとすぐわかった方が安心するでしょ?」
「あっ、そっかあ! 私も時々自分のお部屋でも朝起きたときにあれっ、ここどこってなるからわかるかも!」
「そうならない為の配慮だろうね」
「さっすがほたるちゃん。ものしりさん」
「物事はすべて観察から始まるからね」
ほたるが信条を口にすると、舞姫は瞳をきらきらと輝かせた。
「あっ。ねえねえほたるちゃん」
「なあに、ヒメ」
「じゃあさじゃあさ?」
「うん」
「私がいま何を考えてるかかわるかなあ?」
「え」
ほたるは実に珍しく答えに窮した。
視線の先の舞姫は上半身をベッドに預けたままほたるの腕をしきりに撫でている。
その様子はいかにも嬉しそうだ。
「そう、だね。これはクイズ?」
「くいず。うんっ、そだねそうかもそ――だった!」
わ―いとばかりに笑う舞姫に、ほたるはなぜだか顔を赤くした。
とてつもなく可愛かったからである。
舞姫はわくわくとした表情で口元をむにむにしている。自身を観察してどうみるのかを期待しているのだろう。
こうなってくると期待には応えてやりたい。
ほたるは舞姫の一番のわかり手と自負している。もっともそれは神奈川四天王と呼ばれる舞姫の親衛隊であれば恐らく全員がそうなのだが、とにかくほたるにとっては絶対にはずせないクイズになってしまった。
「…………」
物事はすべて観察から始まる。
ほたるはあらゆる事象を観察して最適解を導き出す。これまでもこれからもそこは変わらない。その沈着冷静な判断力を買われて神奈川次席まで登りつめたのだ。
ただし、哀しいかな。
ほたるの観察眼をもってしても――いや、ほたるの観察眼は人心にだけは適用されない。
ありていにいって、空気を読めないタイプだった。
舞姫をみつめる。
みつめられてえへーと柳眉を下げる舞姫。
よし。
かわいい。
さっぱりわからない。
だからといってここで舞姫をガッカリさせるという選択肢はほたるにはない。
「ヒメ」
だから。
「気にしないで、いいから」
ほたるは、ただ気持ちを伝える事にした。
感情の機微に疎くとも、舞姫がこの病室にいる間ずっと気にしているであろう事を。
舞姫の撫でていた左腕をわずかに持ち上げてその頬にちょん、と触れた。
「もしもね。私がこの傷を負わなければ、ヒメが負っていたかもしれない。私にとってそれはきっと死ぬよりも耐えがたいことかもしれない」
ひとつひとつ、言葉を選ぶように話したつもりだったが、ほたるは直後に言葉を間違えたと思った。
「死っ……!?」
舞姫がガタリと立ち上がる。
丸椅子が倒れて乾いた音が病院に響いた。
「ゴメンね、ヒメ。間違えた。しなない。ヒメを置いていったりはしない」
「ほんとう?」
「本当だよ」
勢いでベッドに乗り上げた泣きそうな舞姫の顔がほたるの眼前にまで迫っていた。
支えのパイプとスプリングがぎしりとたわんだ音を立てた。
ああ、なんて顔をするんだろう。
過ぎし日の記憶がよみがえる。
はるか遠い昔にした約束のときのように、舞姫は不安そうな眼差しを向けている。
だから、ほたるは。
「私がヒメにウソをついたことがある?」
あのときと同じ言葉をいう。
「…………ううん」
舞姫もまた、はっとしたように首を横に振って、眦に浮かべた涙の雫を散らせて笑った。
それは太陽のような笑顔だ。
みるもの全ての心を暖かなものに変えてしまうとびきりの笑顔だ。
だから、ほたるは思う。
大きな代償なんかじゃない。
名誉の負傷などでもない。
この傷に名前をつけるなら、それは――。
「……勲章だよ」
「ほたる、ちゃん……?」
つぶやいたほたるを不思議そうにみる舞姫。
「ヒメ……」
穏やかな時間。
そっと、前髪と前髪が触れ合う。
そして。
コンコンコン。
控えめなノックの音が室内に響いた。
瞬間、おでことおでこをごっつんこと盛大にぶつけたほたると舞姫は跳ねるように距離をとった。