その後のクオリディア・コード   作:逢庭一八

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序章――③千種霞と千種明日葉

 こと身支度の速さという点において、兄に勝る妹などいない。

 

 少なくとも千種霞はそう思っていた。

 

 経験則で。

 

 いざお出かけという際の妹の準備の遅さはマジ異常とさえ思っている。一度などまだかと催促で部屋にいったらうつ伏せに寝そべってマンガを読んでいた事さえある。

 

 千種明日葉は実に素晴らしい妹だった。

 

 

「お兄ぃ、まだなん?」

 

 

 その妹が。

 

 明日葉が霞をせかしている。

 

 なんということだろう。

 

 あの明日葉が。

 

 早く出かけようと兄を急かすのだ。

 

 なんということでしょう。

 

 明日は雨かしらん、などと考えてしまう。

 

 無論、その間もとうとうと流し台の蛇口からはとめどなく水流がうねりを造っているし、霞は実に手際よく食器をスポンジでさばいてゆく。

 

 一つ二つとスポンジを握っては泡だったそれを皿の円周に時計回りに磨き、残った中央を線で寄せて汚れを落とす。

 

 油汚れの多そうな食器は予め厚紙のキッチンペーパーで油分を充分に吸わせてから水に浸している為に繰り返し擦る必要もない。それでも霞は念の為に皿へ軽く小指を這わせて油分の残りがないか時々確認していた。

 

 

「ま――だ――な――ん? もういいっしょ、皿洗いとか帰ってからやれば」

 

「帰ってからもやるの俺なんだよなぁ……」

 

 

 

 シンク内で角度のズレたお玉から跳ねた水滴が盛大に霞のエプロンを濡らした。

 

 せめて帰ったらあたしがやるから、くらい言って欲しかった霞である。

 

 実際、霞とて物事を後回しにしない立派な性格などというわけではない。できる限り先延ばしにしたいし、なんならやりたくないまである。

 

 だが結論自分がやるはめになるならいま片付けたかっただけの話だ。

 

 いやお兄ちゃんえらくないですかね、と蛇口を引き絞って止めると、手を拭った布巾を台所ハンガーへかけてエプロンを丸めた。

 

 椅子に前向きで腰掛けて頬杖をついていた明日葉がたん、と踵を打って立ち上がった。

 

 

「ほらもういいっしょ、いこ。はやく。は――や――く」

 

「いやいやダメでしょまだ。みて明日葉ちゃん、ほら。いま洗濯機まわしてる最中。出かけるのはそれが終わって干してから……」

 

「はぁ――? 意味わかんないんだけど。なに洗濯機とかまわしてんの。バカじゃん。はいはいストップ終了とりまも―ちょっぱやで出かけるから準備よろマジほら、最&速で!」

 

 

 明日葉、怒りの人差し指が洗濯機の息の根を止めた。

 

 緊急停止ボタンを押された洗濯機のかん高い静止音が霞にはなぜか無念の断末魔に聞こえた。

 

「つかね? 明日葉ちゃん。お兄ちゃん実は今日体調よくないんだよね」

 

「はいウソ――。今いいからそういうの。つかなんなん、さっきから。わざと先延ばししてない? お兄ぃ、おかあさんに会いたくないワケ?」

 

「そうね。普通に会いたくないね」

 

「したら普通に会わなきゃいいだけじゃん。サプライズで会いにいくんだから普通じゃないっしょ。はい、おけまる」

 

「普通の意味が違うんだよなぁ……」

 

 

 日本語ってムズカシイネ。

 

 霞がぼやきながら家を出たのはこの十分後。

 

 道すがらあれこれと引き伸ばし作戦を試みたもののそれらが実を結ぶことはなく無情にも病院についてしまったのはさらに四〇分後の事である。

 

「――~♪」

 

 明日葉は母の病室がある階下にたどり着くと小走りに廊下を駆けてゆく。

 

 霞は閉じゆくエレベーターのボタンのうち五の数字だけやたらにくすんでいた事や、廊下に備え付けのソファの革張りの硬さだとかが無意味に気になった。

 

「……おかあさんっ」

 

「あらあら? いらっしゃい可愛い私の明日葉ちゃん。今日はとうこないのではないかと思っていましたよ」

 

 ……などどいうやり取りが取っ手を握った霞の扉一枚向こうで繰り広げられている。

 

 あ――入りたくね、とぼさぼさの後頭部を撫でつけてからわざとぶっきらぼうな表情を作った。

 

「お兄ちゃん、遅いし」

 

 はたして扉をスライドさせれば母が半身を起こしたベッドに突っ伏す勢いで体を預ける妹とその背中を撫でる母親の姿が映り、霞はついと視線を逸らした。

 

 予想はしていたが、俺いないほうがよくね? である。

 

「霞くん」

 

 ちょいちょい。

 

 そんな仕草で明日葉の背を撫でる手は止めずにもう片方で手まねきする母――千種夜羽。

 

 反対側が空いていますよという合図。

 

 ホントやだ。

 

 霞は目元に手をあてて首を横に振った。

 

「いや、普通にいかないしね?」

 

「まあまあ? 普通じゃ嫌だなんて。天使な私の霞くんはまるでお父さんのような事をいいますね。思えば晴磨さんもいつもそうでした。私が少しでも他の男性と接しようものなら自分だけをみてくれとばかりに強引に私の手を引いて……」

 

「普通の意味が違うんだよなぁ……つかなんなのさっきから。示し合わせてんの? 母娘だからなの? そんなコンビネーション今いらんし両親のそんな話そもそも聞きたくねんだわ」

 

「え、あたし聞きたい。お父さんの話っしょ?」

 

 兄の心は妹に届かなかった。

 

「そうですねえ。明日葉ちゃんもお年頃ですからそういう事に興味をもつのも無理からぬこと。そしてそれを寛容に受け入れて教育する事こそがお母さんの義務。無論お母さんとしては明日葉ちゃんにはいつまでもいつまでも傍にいて欲しいのですが、いつかくるその時の為には正しい知識を身につけておかなければいけません。そう、あれはまだ梅雨の湿気が多分に残る初夏の日。野獣の如き欲望の赴くまま無垢な私を家に招いた晴磨さんはそっと部屋のカーテンを……」

 

 おしゃべりなその口を霞の手が封印した。

 

「ゴメンなさい本当にやめてください」

 

「素直じゃない霞くんも大好きですよ」

 

 顔を近づけた霞の首の後ろに手を伸ばした夜羽がぐいと引き寄せると、霞は観念したようにうなだれた。明日葉ともどもベッドに抱き寄せられた形である。

 

「こんな日がくるのを私はずっとずっと夢みてきましたよ。もちろんゼロベースよりコミットする為の努力は日々惜しみませんでしたが。それでもこうして愛しい霞くんと明日葉ちゃんが私の腕の中に戻ってきてくれた。お母さんは今とても幸せです」

 

 ちらりと顔をあげた明日葉は、霞と視線を合わせると頬を綻ばせたまま少し困ったように口をぱくぱくとさせた。

 

 ――え、こんな時なんていったらいいわけ?

 

 ――や、知らんけど。

 

 そんなアイコンタクトを交わす。

 

 ――は? なにお兄ぃつっかえな!

 

 ――お兄ちゃんはつかうものじゃないんだよなぁ……。

 

「んんんん――? この子たちったら目と目で会話しちゃってます? お母さんにはバレバレですよ」

 

「あ――、や、その、違くて。えと、」

 

「……明日葉。お見舞いの品は?」

 

「あ、そだ、おかあさん……果物、そう、リンゴ」

 

 持つといっても譲らなかったビニール袋を顎で促すと、明日葉はわたわたとリンゴを取り出した。

 

「ああ、お腹すいちゃいましたか。どれお母さんが剥いてあげますよ」

 

「えっ、いや、ちがっ」

 

「こんなこともあろうかと懐には常にドス……果物ナイフを持ち歩いていますから」

 

「どんな事があっても果物ナイフは懐に忍ばせないんだよなぁ……」

 

 つか今、ドスっていった?

 

 霞が二度見した大ぶりのそれはどうみてもサバイバルナイフよりごつかった。絶対果物ナイフじゃない。

 

「明日葉ちゃん。はい、あ――ん」

 

 こなれた手つきでつるりと桂剥きしたリンゴを小皿に分けて切れ目をつけると楊枝で一刺し。差し出された明日葉はわたわたと手を振った。

 

「あ、え、えぇ、とぉ」

 

 なぜか霞の方をみる明日葉。霞が嘆息しながら短く頷くと、明日葉は顔にかかった横髪を耳の後ろに回しながらおずおずと口を開く。

 

「あ、あ――ん」

 

 小さい。いつも遠慮なく吹き出てくる罵詈雑言を放つ口と同じとは思えなかった。

 

「おいしいですか?」

 

「ん、んう……」

 

 頬いっぱいのリンゴとともに首肯する明日葉。

 

「霞くんも――」

 

「あ――ちょっと俺、飲み物買ってくるから」

 

 言葉の先を期して霞が退室した。

 

 夜羽は目を瞬かせてからゆっくり爪楊枝を果肉に刺して口へ運ぶと、

 

「逃げられちゃいましたか。ふむ……甘酸っぱいですね」

 

 口をほころばせた。

 

「ね、ねえ。おかあさん」

 

「なんですか、明日葉ちゃん。またあ――んですか?」

 

「ち、ちがくて」

 

「はい?」

 

「え、と。その、手」

 

「手?」

 

「手が、その」

 

 明日葉がおそるおそるといった風に自身の手を持ち上げると、付随して夜羽の手もついてきた。なかよし。お手手繋ぎである。

 

「ん――?」

 

「つ、つなぎっぱ、なの?」

 

「ダメですか?」

 

「や、ダメじゃないけど……」

 

 さも繋いでいるのが常識とばかりの夜羽に、指をにぎにぎと動かす明日葉は耳まで真っ赤だった。

 

「……大きくなりましたね、明日葉ちゃん」

 

「はえ? なに急に……」

 

「覚えていないかもしれませんが、実はお母さんが明日葉ちゃんとお手手を繋ぐことはほとんどなかったんですよ」

 

「え……」

 

「明日葉ちゃんはまだこんなでしたから」

 

 懐に抱えるような仕草で夜羽は言葉を続ける。その表情はどこか暖かく懐かしむようだった。

 

「お母さんがお手手をつなぐにはもう少し大きくなっていただく必要がありました。だからお出かけする時はいつも抱っこか、明日葉ちゃんと手をつないでいる霞くんと手を繋ぐかくらいしかできなかったんです」

 

「…………」

 

「やっと、つなぐことができました」

 

「おかあさん……」

 

 そっと、つないだままの手にさらに手を重ねる明日葉。

 

「明日葉ちゃん?」

 

 夜羽がきょとんとみつめてくる。

 

「あの、さ」

 

 重ねた手に、少しだけ力がこもる。

 

 ――覚えていない。

 

 明日葉にはチャイルドコールドスリープ以前の記憶がほとんどない。

 

 目を覚ました時に断片的に湧き出てきたいくつかの感情と、必死にこちらへ手を伸ばしてきた兄の姿だけがかろうじて思い起こせる程度だった。

 

 チャイルドコールドスリープによる記憶障害は特別なものではなく、神奈川都市の凛堂ほたるも患っていたという。ほたるはあるきっかけですべてを思い出したというが……。

 

 自分はどうなんだろう。

 

 霞は気にする必要はないといった。そもそも子供の頃の記憶なんて俺だってろくに覚えてね―わとあっけらかんにいってのけた。まるで大したことじゃないように。実際、忘れてはならないようなかけがえのない記憶など幼少時代の自分にあったとは思えない。

 

 それでも。

 

 明日葉はなんだか悔しかった。

 

 こんなにも愛おしげにみつめてくる母の眼差しをまるで覚えていないことが。

 

 だから。

 

「べつに、さ。手とか。そんなん、いつでも。できるじゃん。これから。ずっと」

 

 そういった。

 

 素直でないと自覚する自分のせいいっぱいでそういった。

 

 すると。

 

「……これからずっと、ですか?」

 

 夜羽がじい、とみつめてくる。

 

「う、うん」

 

 明日葉が照れくさそうに頷いた。

 

「――そう、ですか。ならお母さんは安心しましたよ。……不安にもなりましたが」

 

 悪い人に引っかからないといいのですが、という呟きを明日葉の耳は捉えることができなかった。

 

 ――他方で、病室の外で壁に後頭部を預けてその会話を耳にしていた霞は。

 

「……言質とりましたよ、とか言い出さないで俺も安心したわマジで」

 

 そんなことを独り、口にした。

 

 手にはMAXコーヒーの缶が三つ。

 

 その一つを開けて口にすると「……甘っ」と、言葉と裏腹に嬉しそうに口の端を綻ばせた。

 

「他の階もう一周、してきますかね」

 

 霞はゆっくりゆっくりと病室を離れた。

 

 凛堂の見舞いにもいくって話、明日葉忘れてないよなぁと。満面の笑顔であろう妹の姿を思い浮かべながら。

 

 

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