一般人のショートショート   作:厠坂

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ダルカラリング

 

 

 錆々とした室外機の天板が小さく叩かれる音がしました。私は、ああ、雨が降ってきてしまったんだなと思い、洗濯物を取り込むために立ち上がりました。

 雨の日はなんだか気が滅入るので、私はこの鈍色の空が嫌いでした。私がどれだけ頑張っても届かないほど高くから、空はただの雨粒しか落としてはくれないのです。こんなにたくさん、数えきれないほどの落とし物が世界中に降るのですから、どうせなら金目のものを賜ってくれたらいいのに。

 阿呆な妄想であることは自分で分かっています。しかし、趣味も無ければ莫大に稼ぐわけでもなく、恋人もいない私には、こういった現実の隙間を縫うような絵虚言がとても大切なのです。

 窓を開けると、花宮町の二丁目には雨の匂いが満ちていました。それはつまり、土瀝青《アスファルト》の濡れた匂いであり、服を濡らされた人々が抱く憂鬱の匂いでもありました。予報外れの雨は、あまり多くの人には歓迎されないのです。

 最後に赤い上着を不丁寧に部屋に投げ入れ、私は自分も屋根の下に戻ろうとしました。

 すると、どういうわけでしょうか。先程まで雨粒を受けていた室外機が、一度だけ全く違う音を言ったのです。休日であるためコンタクトレンズを被っていない目を凝らすと、そこには小さな小さな指輪が落ちておりました。

 もう、私の小指にすら入らないでしょう、ちょうど今日の空の色と同じような風にくすんでしまった、安っぽい金属製の小さな指輪です。私はそれに見覚えがあったのです。

 小学校に上がる前だったような気がします。私は毎週、かぶりつくように一つの番組を眺めていました。女子が魔法で変身して悪と戦う、ありふれた物語でした。この指輪は、そのヒロインが着けていたものによく似ていました。母は厳しかったので、私に甘い父親にねだって買ってもらったものでした。本当に嬉しくて、朝も夜も関係無く、私はそれを人差し指に嵌めていました。それなのに、とある朝、私はその指輪を紛失してしまったのです。朝、布団から起き上がると、慣れた重みが手に無いことに気付いて、厳しい母も心配するほど泣き喚きました。それから、しばらくは意気消沈として過ごしたことも覚えています。

 あのとき抱いていた変身願望は消火されていました。もう二十年も経っていて、私は明日を生きるのに精一杯のオフィスレディなのです。ステッキから出る光ではなく、下げ慣れた頭と言い慣れたすみませんが、今の私の魔法でした。

 けれど、それでいいのです。病気をせず、身内に不幸も無い。毎日を生きるのに不自由もありません。こんな雨の日に、屋根の下でのんびりと過ごしています。こんなに幸福なことがあるでしょうか。

 そう理解すると、夜が明けて町を濡らしていた雨染みがすっかり消えるように、指輪は私の手の中から居なくなってしまいました。金属が蒸発するほどの高熱が私の手の平から発せられたわけはありませんが、そうでもなければ説明できないほど、本当に綺麗さっぱり消えてしまったのです。

 誰に話しても白昼夢を見たのだと揶揄われることは間違いない出来事ですが、手の平に残ったひんやりとした感触と、金属の匂いが、それが現実なのだと私に言い聞かせていました。

 間も無くして雨は上がりました。雨雲は少し通りがかっただけだったようでした。関西の温暖な気候から寒い東北に向かうあの雲は、防寒の準備はできているのでしょうか。すでに首の皮一枚だった指輪に対する未練ですが、それを完全に断ち切ってくれた雨雲に、せめてものお礼で、あまり気に入っていない赤い上着を差し上げてもいいな。なんて、私はまた少しだけ、ふざけてみるのでした。

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