一、アグネスタキオン(前編)
このところ自分の教え子に不確定な好意を抱く。それは、教える立場として如何なものだろうか?トレーナーの立場としてどうなのだろうか?歓迎されるものだろうか?あの子に歓迎されても世間一般はそれを認めるだろうか?それとも、あの子にはこの想いは歓迎されはしないのだろうか?不可解な想いが、脳裏を、胸の内を渦巻く。あの子が好き。ただ、それだけでいられたらどんなに楽だろうか。きっと、もっと頭を悩ませずに軽く気持ちの告白ができただろう。それが一番楽だ。楽で喜ばしい事だ。例え、顔をそっぽに向かれたとしても、気楽にいれるだろう。しかし、俺はそうではなくなった。想いを抱え込むあまり、いつしか好意が自分の一部と化している。これがなくては生きてはいけないのだろう。この想いをどうすればいいのか?いつか向き合わねばならないときがくる。それとどう向き合えばいいのか俺には分からない。分からないまま今日も生きている。
一、アグネスタキオン
今日も一日が始まった。悩める心に少しの不安を抱きながら、今日も田上圭一(たのうえけいいち)は起きた。何か夢を見たような気がした。どんな夢だったか思い出せない。――確か、…薄く黒いベールの向こうにタキオンが歩み去っていく夢だったような気がする。その時に話をしたが、なんだったか…。分からない。
田上は、体を起こした。決して安眠だったとは言えなかったかもしれないが、それはいつものことで、よくある体調の波の様なものだった。良いときは良い。悪いときは悪い。そんなものだ。そう思うと、田上は、体を起こすとカーテンを開け、そのまま洗面台へと歩いて行った。
鏡には、自分のあまり柄の良くない髭面が映る。目つきは悪いし、目の下には隈がある。人に生来好かれたことのない顔だ。この顔を好きになる人といったら、母親くらいなものだろう。その母親も今は、病気で天国へと旅立った。眩しい笑顔をした母親だった。田上は、そう思うと、鏡の前で二ッと笑ってみた。髭面が、不気味に歪む。――やっぱりだめだ。この顔で人にモテようと思う方がおこがましい。田上は、そう思うと、顔を洗い髭を剃った。髭を剃ればいくらか、マシになった。この土日、タキオンとのトレーニングもなかったため寮の部屋の外には出ず、ずっとゴロゴロしていた。携帯ゲーム機やパソコンのモニターなどが、机の上にあるのが見えるだろうか?それが、この二日の田上の生活だった。ご飯などは、土日に籠るために前もって買ってきて冷蔵庫に入れておいた。久々に人と隔離できた生活ができたような気がした。この寮の部屋には、シャワールームしかなかったが、体も清潔に保てたし、やりたいことも満足にできた。寮にいたのでは、ひっきりなしに誰かが訪ねてきたりするので、一人になれる時間がなかった。だから、これも前もって友人らに声を掛けて、「ゴロゴロするから誰も来るな」と言っておいた。友人らは、笑って頷いた。「そうしたい時もあるもんな」
それから、月曜になるまで、田上はゲーム三昧で過ごした。いい気持だった。何もかも忘れる、ということはできなかったが、ある程度忘れることに成功して生活をすることができた。その忘れたことにタキオンへの想いも混ざっている。田上は、自身の教え子であるアグネスタキオンというウマ娘のことが好きだった。いつからかは分からない。少なくとも、初めて出会ったときは、好きではなかったはずだ。初めの印象は、顔色の悪い、眠たそうな目をした子供だった。それがいつしか好意に変わった。彼女に触れていくにつれ、彼女が生活の一部になるにつれ、好意を持っていった。年下の子供だということは分かっている。田上が今、二十五で、タキオンが今、十七だから八つも年が違う。それも、思春期の子供だ。娘かと間違えてしまうくらいには幼さが残っていたりもする。しかし、同時に大人の階段を一歩ずつ着実に上ってきたところだった。時々、ハッとするような美しさを持っていた。だから、田上は、タキオンに惹かれたのだ。では、タキオンはどうなのだろうか?田上に好意を持っているのだろうか?それは、田上には分からなかった。どうも彼女は、相手との距離が近くても構わない人だった。その仕草に女慣れのしていない田上は、ドキドキさせられるのだが、タキオンは相変わらず田上を見てくれているのかどうなのか分からなかった。この前も衝撃の事実を告白されたばかりだ。今は菊花賞を終えたばかりだから少々油断をしていい時期だった。その菊花賞の数日後にタキオンからとんでもないことを聞かされた。なんと、タキオンの足は、本当は菊花賞を走りきれなくても仕方のないくらい危険な状況だったと言う。
この言葉に田上は、相当なショックを受けた。その後も話を聞いていくと、トレーナーとして自分の思ってもいないような話を聞かされた。プランAとプランBがあったり、タキオンが自分の脚を見捨てようとしていたり、それを田上の言葉が予想もつかない場所で食い止めていたりしていた。それを聞いて田上が思ったのは、自身が何の役にも立てていないことだった。確かに、彼女の胸には田上の言葉が刺さっていたのかも知れないということは、田上も理解していた。しかし、同時にそんな危険な綱渡りをしている彼女の手をしっかりと握ってやれなかったことを後悔した。タキオンは、田上の言葉を携えて一人で綱渡りを成功させたのだ。――それは、もしかしたら信頼されていない証なのかもしれない。タキオンにとって危ない橋があるのなら、俺に言っても良かったのじゃないか?俺はそんなに頼りない存在だったのか?様々な思いが田上の頭の中をよぎったが、とりあえず、その場では喜ぶことができた。その後、様々な思いがあり、田上はこの休日で部屋にこもることで考えることをやめようと思ったのだ。上手くいったかいっていないかで言えば、上手くいった方だと思う。ゲームに熱中することができて、考えに耽るのは夜寝る前の時くらいで、その時間もゲームで削りに削ったから、あまり大した物思いにならずに済んだ。しかし、今日という月曜日が少し憂鬱になったりもした。
鏡で顔を洗うと、目の下の隈が少し気になったが、そう気にしている余裕もなく、扉がドンドンと叩かれる音がした。――早速来た。田上はそう思った。まだ、パジャマから着替えていなかったが、仕方がないのでドアを開けた。見ると、栗毛の可愛らしい少女が、興奮した面持ちでドアの前に立っていた。田上が、ドアを開けると、その女の子はすぐに話し出した。
「トレーナー君、新しい薬を徹夜で作り上げてきたよ!……って、君、なんだい?その目の下の隈は?」
タキオンだった。田上は、その少女の姿を見て、声を聴くと、心臓の鼓動が速まった様な気がした。その心臓を無理に抑えつつ、田上はタキオンの話に返事をした。
「お前こそ、その目の下の隈。本当に寝てないな?」
「いやいや、君こそ寝ていないだろ!君は貴重な実験体なんだ!ほら、ちょっと目を見せてくれ」
タキオンは、そう言って、田上の顔を自分の顔に近づけた。その時、田上は、自分の心臓が確かに跳ねたのを確認した。
「ほら~、君、目が充血しているじゃないか。寝ていない証拠だよ」
「…少しは寝たよ」
田上は、慌ててタキオンから顔を引きはがして、できるだけ冷静に言った。
「い~や、君は寝ていない。十分な睡眠を取っていなければ、寝ているとは言えないんだ。だから、ほら、君が不健康なせいで、私の実験が上手くいかないじゃないか。これじゃ、実験は繰り越しだな。ふぁ~~あ」
最後にタキオンは、大きな欠伸をした。田上は、タキオンの言葉に申し訳ないと思いつつも反論した。
「タキオンも寝てないだろ?睡眠不足は美容の天敵ってよく言うし、それに徹夜した方が、次の日のダメージはでかいだろ?」
「……」
タキオンは、黙ってこちらを睨んだ。それから、腕組みして言った。
「それは君も同じだろ?今日の放課後にはトレーニングがあるなんて言っておきながら、大きなハンデを背負ってそれに挑むのかい?…そして、この会話は不毛だ。どっちも不健康なら仕方がない。来週までには絶対に、健康万全にしておいてくれよ。じゃあね」
タキオンは、そう言うと、欠伸をして去っていった。田上は、その後ろ姿をいつまでも眺めていたかったが、廊下の方にちらほら見えるトレーナー陣の視線が怖かったので、少しだけ躊躇った後、ドアの内側に引っ込んだ。
ドアの内側に引っ込んだ後も心臓の鼓動の速度が戻らずに苦労した。それよりもむしろ速まった様な気さえある。鼻と鼻が付きそうなくらいに近い距離で見つめあった瞬間など今まであっただろうか?こういう時に、自分の考えをどう処理すればいいのか分からなかった。大の大人、二十五歳が中学生のように身悶えしていた。
胸の奥が痒くなるような感覚があるだろう。その感覚が、タキオンに恋している田上にもあったのだ。搔きたくて掻きたくて、最後には心臓を取り出してしまいたい。そんな感覚にとらわれる瞬間がある。例えば、タキオンにドキドキする瞬間があったときなどだ。今がそのような時だろう。田上は、どうしようもない痒み、掻こうにも胸の奥が痒いから掻けないその思いに苦しんでいた。しかし、それは、少し喜ばしいことでもあった。田上には、その感情が何なのかはわからないが、とりあえず今日も生きている。
田上は、恋というものをこれまで、幾度もしてきたがこれ程までに好きになった人物はいなかった。中学生の時の最後に好きになった人がそれに近いと思ったが、やはりタキオンまでに想いを募らせはしなかった。これは、なぜなのだろうか、と思った時期もあったが、結局、これが本当の恋だったのだ、ということで決着をつけた。しかし、この答えにもあまり納得はいかなかった。恋にも種類があるのだろうか?そう思ったのだ。偽物の恋があれば、本物の恋があるのだろうか?それとも良い恋があれば、悪い恋があるのだろうか?田上には、そこの所が分からなかった。分からないことだらけだった。だが、やっぱり今日を生きている。
田上は、自分の気持ちに整理がつかないまま、出勤の支度をした。パジャマからワイシャツに着替えるときに、眼鏡をかけた。実を言うと、あの時、タキオンの顔は鮮明には見えていなかったのだが、朧げな顔の形だけが見えたとしても田上にとっては嬉しいことだった。タキオンの姿が見えたというよりも、タキオンが自分を訪ねてきてくれたことが嬉しかったといえるだろう。それに、眼鏡がない分、今日はより顔が近く見えたような気がした。タキオンは、たまにあのような顔と顔を近づけて体調の確認をするという方法を取るのだが、今日は、眼鏡がないだけ少し近くに来ていたような気がした。だが、そうは言っても、そのように顔を近づける際は、眼鏡を外されたりする場合も多々ある。それでも、今日は、一段と顔が近かったような気がした。今でもあの顔を思い出すだけでドキドキするが、少しは平常心に近づけるようになった。だから、田上は、寮のドアを開けて、自身のトレーナー室へと出勤への一歩を進めた。
寮の共同スペースである、広い部屋に大きなテレビ一台とソファーがいくつか並べられている部屋に来た。そこは、男たちで賑わっていた。自分より背の高いのだったり、自分よりも眠そうなやつだったり、様々な人がいた。その中に、仲のいい友人の一人を見かけた。ちょうど、ソファーに座って、スマホを眺めているところだった。田上は、後ろから声をかけた。
「よう、霧島(きりしま)。ちゃんと約束守ってくれたんだな。ありがとう」
霧島は、振り向いた。髪の短い、スポーツマン感溢れる人物だ。内面も外見と同じように、スポーツが好きで明るい誠実な人だった。しかし、同時にゲーム好きでもあった。だから、田上と話が合って、よく田上の部屋に訪れたりしていた。田上にしてみれば、いい迷惑だった。田上と霧島は、同じゲーム好きと言っても、プレイスタイルが違った。田上は、一人で黙々と楽しみたい派。霧島は、皆でワイワイ楽しみたい派だった。この違いから、少し迷惑をしていたのだが、田上は別に皆でワイワイ楽しむという事が嫌いではなかったため、霧島が、格闘ゲームをしようぜと行って来たら、迷いながらも頷いていた。
霧島は振り向くと、田上の顔を見て、おお、と声を上げて言った。
「お前に釘を刺されたから、部屋の前まで行って思い出すってこと何回もしたよ。一人でするって暇なんだもん」
霧島が、唇を尖らせてそういうと、田上は、少し笑って言った。
「お前、俺の部屋の前まで来てたのか?本当に?」
「本当だよ。それでお前の言葉を思い出したから、また仕方なく戻るってことを二,三回繰り返したよ」
田上は、ハッハッハと笑った。
「それが正解だよ。お前が扉を叩いても、この土日だけは絶対に開けなかったからな」
それを聞くと、霧島が顔をしかめて睨んできた。その様子が、タキオンとそっくりだったので、田上は思わずドキリとしてしまった。何か、嫌な気分だった。
霧島が言った。
「お前、この土日が一番楽しかったゲームイベントがあったんだけどな」
「残念、それは俺が部屋で一人でやった」
田上は、少しニヤっとした。
「うわ~、ずるいな~。お前、俺とお前の間に友情ってもんはないのかよ」
「ないね」
田上は、そうお道化た様に言った。それから、ふっと時計を見ると、もうトレーナー室に行きたい時間だったので、田上は言葉を続けた。
「悪い、俺はもう行くよ。まぁ、とりあえずは、土日は俺の集中を乱しに来なくてありがとな」
「おお」
霧島は、そう言うと、また自分のスマホの方に戻した。田上は、人と話せたおかげか、大きく眠気が取れたような気がした。しかし、それも、トレーナー室に着いてしまえば消えてしまい、また眠気が盛り返してきた。
気が付くと、自分の机の上で眠っていた。入ったところまでは覚えているのだが、その後の記憶がなかった。確かに、机の所までは歩いたような気がする。朦朧とした意識の中に微かに残っている記憶の糸を辿った。――多分、机のところまでは歩いた。その記憶がある。しかし、座った記憶まではなかった。田上が、体を起こしてみると、肩にかけられていた白衣がサラッと落ちた。タキオンの白衣だった。そのことを確認すると、田上の心臓が高鳴った。匂いを感じた。甘くほのかに香るタキオンの匂い。それと合わさった薬品の鼻をつく匂い。どうしようもなく胸がドキドキした。――タキオンが、ここに来たのだろうか?時計を見てみると、もう朝の十時になっていた。タキオンが、来る時間は十分にある。きっと来たのだろう。そして、自分が寝ていたのを見てタキオンは自分の白衣をかけてくれたのだ。十一月も少し入った頃だったので、ちょっと肌寒さを感じる時期でもあった。タキオンは、それに配慮して風邪をひかないようにしてくれたのだ。なんと優しい子なんだろう。田上は、そう思った。しかし、すぐに別のことに気が付いた。あの子の白衣の下だ。あの子は、何を思っているのか知らないが、白衣の下には、上着しか着ていなかった。下は、タイツのみで、丈の長い上着でそれをごまかしていたのだ。田上は、それを見てはいつも冷や冷やしていた。何回か注意もしたことがある。しかし、彼女は、ふぅん、と田上を値踏みするように見つめるばかりで改善はしてくれなかった。田上は、この白衣が最後の砦だと思っていた。この白衣があれば、せめて、無防備な尻が大衆の目に晒されることはない。なのに、今は田上が持っている。田上は、ため息をついた。彼女にこれを返しに行こうと思ったからだ。
まだ少し眠たい頭を振って、田上は立ち上がった。すると、机の目の前にあるドアが勝手に開いた。そして、中に入ってきたのはタキオンだった。タキオンは、部屋に入ると真っ先に自身のトレーナーを見つけて呼んだ。
「やあ、起きたんだね。ちょうどよかった。その白衣を返してもらおうと思って、思ったより寒くてね」
「ちょうど俺も返そうと思っていたところだよ。けど…」
田上は、そこで言葉を切った。自分の下心と勘違いされるのを少し恐れたからだ。だから、タキオンが言葉の続きを催促した。
「けど、なんだい?言いにくいことなのかい?それとも…、ああ、分かったよ。また、私の勝負服の件だね?それなら、君の言葉は聞き入れないから、その服を早く寄こしたまえ」
「俺の話は聞かないって…。タキオン、その服装普通じゃないんだよ?その…せめて下を穿いたらどうなんだ?」
「穿いてるじゃないか、タイツを」
「タイツじゃ隠せるものも隠せないだろ!」
田上は、思わず語気を荒げた。すると、今度はタキオンが霧島そっくりの顔つきをして、田上を睨みながら言った。
「君が何を想像しているのかは知らないが、見えてますよ、と声をかけられたこともないし、例え見えていたとしても、それはパンツだ。ただの布だ。これ以上に言う事があるかい?…せっかく、私の脚で菊花賞を走り抜けて、ハッピーエンドにしたというのに、ここで仲違いをさせる気かい」
田上は、言葉に詰まった。言いたいことはそういうことじゃない。タキオンは、何も分かってくれてはいない。そう言いたかったのだが、なぜか言葉が出てこなかった。代わりに、大きなため息が出た。そして、机の上に白衣を置いた。
「持って行ってくれ」
タキオンは、顔をしかめた。
「君が私のところに持ってきたまえ」
「いや、持って行ってくれ」
そういって、田上は、椅子に座った。それから、腕を組むと、それを机の上に置き、顔を見せないように寝ようとし始めた。田上が、見えないところから、タキオンの足音が聞こえた。タキオンが、机の上にある自分の白衣を手に取るとぼそっと呟いた。
「困ったらすぐにふて寝かい?いつまでそうしておくんだい?君の機嫌に合わせるのにも限界があるんだよ?」
タキオンは、そう呟くと、上着を羽織り部屋のドアを開けて出て行った。田上は、嫌な気分だった。自分の思い通りにいかない何かに苛立ちがあった。黒くドロドロと渦巻いていた。汚い墨のようだ。様々なごみでその墨は汚されていた。
田上は、苛立ちを抱えたまま、再び、眠りについていった。苦しくて嫌な夢だったのは覚えているが、内容までは全く思い出せなかった。
田上が、次に起きたのは、十二時少し前だった。もうすぐウマ娘たちの昼休みが始まるころだったが、タキオンには関係がない。それは、タキオンが、大抵の授業は欠席してすましているからだ。もちろん、彼女がいうには最低限の授業は受けているらしい。彼女が、そう言っているのだから、田上にも言うことはなかった。それに、欠席していると彼女がたまにここに訪れる事があるので、欠席してくれた方が田上にとっては嬉しかった。タキオンと同じ空間で時を過ごせるからだ。トレーナー室のソファーにタキオンは座り、読書を嗜む。その後ろ姿をソファーの斜め左後ろの机から時折眺めて、自分は仕事をする。タキオンが、紅茶を啜る音と、自分のパソコンのキーボードの音しか聞こえない世界だったが、幸せな世界だった。だが、今日は、それもないかもしれない。タキオンは、自分とは顔を合わせたくはないだろう。田上は、そう思った。
それから、しばらくの時間が過ぎた。十二時半だ。コンコンと自分の部屋のドアが鳴って、誰かの来訪を告げた。田上は、誰だろう、と疑問に想いながら、入室を許可する言葉を発した。入ってきたのは、マンハッタンカフェ。タキオンと休憩部屋を同じくしながらも、仕切りでその部屋を区切って、決して見ることのできないようにしているウマ娘だ。だが、時として、それは無神経なタキオンに破られることがある。田上は、タキオンが何かして苦情が来たのかと思ったが、カフェが話し始めたことはどうやら違った。
「タキオンさんが、トレーナー君の昼食を持ってきてくれ、って言ってました。あの人が落ち着かないとこちらも落ち着かないので、仕方なくお遣いに来ました。早くお弁当を出して下さい」
田上は、そう言われた途端、あっと叫んだ。カフェが、目を見開いた。
「…まさか、あなた、忘れたんですか?タキオンさんの昼食を作るのを」
「完全に忘れてた…。ごめんだけど、カフェさん…」
「嫌です」
田上が、言葉を言いきらないうちにカフェがそう言った。
「あなたの失敗なんですから、あなたが責任取ってください」
無慈悲にもカフェはそう言った。
「あなた方がなんで喧嘩をしているのかは知りませんが、その尻拭いは、私の役目ではありません。最大限譲歩して、私がタキオンさんのお遣いをしに来たんです。それを完了できないのならば、あなたが責任を取ってください」
カフェは、あまり感情の分からない子だったが、田上が見てもこれは怒っていると勘付いた。ただ、田上にもやっぱり事情があって、それを譲りたくはなかった。だから、少し怒らせないように慎重に言った。
「カフェさんの好きなものとか…」
「嫌です」
カフェは、田上に喋らせてはくれなかった。
「大体、あなた方に、菊花賞を取られたのも心外でなりません。私は、ステイヤーだったからあの菊花賞をあなた方以上に狙っていたというのに、前走の日本ダービーで負けていたタキオンさんにその座を奪われるなんて。あのヘラヘラした動物が、私以上に速かったというんですか?心外です。悔しいです。…それなのに、あの人の使い走りをしている私の気持ちが分かりますか?天皇賞・春にタキオンさんを出させなさい。それ以外にこの話はありません」
田上は、その話に眉をひそめた。
「じゃあ、元々その話をするつもりでここに?」
「いや、今思いついた事ですが、この話もしたかったことです。さあ、天皇賞・春にタキオンさんを出走させてください。そうすれば、面倒くさいですが、私がタキオンさんを処理します」
「…出走って言っても、今のところ、長距離は避けて中距離に行く予定だし、そもそもそれもタキオンと話し合わないといけないから、今決めれないなぁ」
「では、腹を空かせて待っているあなたの可愛い子猫でも想像して待っていてください。私は、どこかに避難します。私のトレーナーさんのところがいいかもしれませんね」
カフェは、そう言って、背後にあるドアを開けて立ち去ろうとした。田上は、慌ててそれを呼び止めた。
「タキオンは、研究室にいるのか?」
「…いや、ここにいるよ」
突然、ドアが開いて、タキオンが入ってきた。
「君たち、変な話をしているから中々入って行きづらかったよ。…それで?カフェ。私に負けたのが悔しいのかい?」
タキオンが、ニヤッと笑ってそう言うと、カフェが顔をしかめた。
「…あなたに聞かせるつもりはありませんでした」
「そうかい、そうかい。…で、トレーナー君、昼食は?」
タキオンが、田上に手を差し出すとカフェが横から口を挟んだ。
「そうです。あなた、私にお遣いに出させておいて、自分も来たんですか?」
「ああ、君に頼んだのは良いけど、やっぱり自分で行く方が手っ取り早くてよさそうだと思ったわけだよ」
「…あなたたち、喧嘩をしていたんじゃなかったんですか?」
「喧嘩?していたさ。今もしている。ただ、私は、昼食を取りに来たんだ。トレーナー君と話をしにきたわけじゃない」
そう言って、タキオンは、トレーナーの方を横目に睨んだ。
「この人いちいちうるさいんだよ。カフェも分かるだろ?」
カフェもまた、田上を睨んだ。そして、数秒黙った後、言った。
「…私には関係のあることじゃありません」
「つれないねぇ」
その時、タキオンの腹がグゥと鳴った。
「そうだそうだ、トレーナー君のご飯を受け取りに来たんだった。ちゃんと作っているんだろうね?」
田上は、座っている椅子からタキオンを見上げたまま、黙って首を横に振った。
「作っていない!?君、何のために私のトレーナーをやっているんだ。今朝は、薬を飲めないし、今は昼食を作ってもくれない。君、本当に何でいるんだ?」
辛辣だった。田上は、うつむいた。それを見かねたカフェが、「少し言いすぎじゃないですか?」とタキオンを諭した。タキオンは、少し表情を曇らせた後、静かに言った。
「すまない、少し言い過ぎたよ。…それにしても昼食がないのかぁ。カフェテリアに行って少しつまむとするしかないのかねぇ」
「カフェテリアがあるじゃないですか。最初からそっちに行けば良かったのに…」
カフェがそう呟いた。
「バカ言え。トレーナー君が昼食を作っているものだと思っていたから、カフェテリアに行かなかったんだ。その方が、研究室に籠るには都合がいい」
タキオンとカフェは、そう言って、トレーナー室のドアを開けて、去っていこうとした。田上も話が終わったと思って、自身のパソコンの方に向かった。しかし、ドアを閉めようとしたところで、タキオンが振り返って言った。
「…トレーナー君もその様子では昼食を食べていないんじゃないのかい?」
田上は、少し顔を上げた。タキオンの少し寂しそうな目が見える。タキオンは、言葉を続けた。
「約束したろ?来週までには健康万全にするって。今から、その約束を破ろうと言うのかい?」
これは、タキオンの最大限の譲歩だったと思う。田上は、低く暗い声で、「ああ、行くよ」と言った。田上の好きなタキオンの優しさに今日も甘えた。