それからは、リリックは自分のベッドでスマホをいじったり、夕食を少し食べたり、風呂に入ったりして過ごした。そして、その他今日やるべきことが全て終わると、リリックは再び自分のスマホをいじり始めたのだが、オータムは生活に関わる事をする以外は、全て勉強に費やしていた。リリックとオータムは同じクラスなので宿題も同じ量なはずだ。同じ量であれば、もう土曜の内には終わっているはずだった。だから、オータムが現在しているのは、宿題ではない事は確かである。では一体何の勉強をしているんだろう?とリリックは思った。勉強だって、まだリリックが分からない程難しい問題には直面していない。オータムが、リリックよりも物分かりが遅いなら別だが、普通にリリックよりも勉強はできそうである。少なくとも、こんなに勉強熱心なのだから、リリックより何かしら頭の中に多く勉強の事が詰め込まれていないと、勉強し損という物だろう。ならば、何を勉強するのだろう?オータムは、分からない所を徹底的に潰したいと言ったが、今の所は、リリックの分かる範疇の物しか勉強していない。数学も国語も社会も英語も、今の所は、まだ何とか大丈夫だ。という事は、オータムは今、予習か、または、意味の無い復習を繰り返しているのかもしれない。勿論、反復して覚える事にリリックは理解がないわけではないが、反復して覚える事と理解するために勉強する事は、また別の話だ。オータムが言っていた理由とは重なっていない。ならば、なぜ勉強をするのか?リリックは、オータムが勉強をするのが癖になっているのじゃないかと思った。癖でなければ、こんなに四六時中勉強をできるはずはない。しかし、ここでまた別の――趣味ではないのか?という考えが浮かんだ。趣味と言うからには癖よりは能動的に行う物だろう。ただ、趣味にしては、中々妙だった。少なくとも、リリックには妙に思える。つまり、趣味ならば、勉強を好意的に受け取ってやっているのだろう。勉強が、暇潰しになったり、楽しめたりするものとしてオータムに受け取られているべきだ。それにしては、趣味に大して崇高な理念を持っているようだった。分からない事を分かるまでするだなんていう理念を持ちながら、四六時中趣味をしていてもいいのだろうか?趣味とは、息抜きにするのではないだろうか?
そう考えた所でリリックは、なんだか今まで自分の考えていたことが馬鹿らしくなって、考えるのをやめた。なんにしろ、勉強するしないなど、本人に任せて自分は自分の事をすればいいだけだった。
次の日になると、朝の支度中に自分の母親から電話がかかってきた。リリックは、久々に母と話す機会に少し嬉しがってその電話に出た。
「もしもし、お母さん?何か用なの?」
「ちょっと話が聞きたくなってね。田上トレーナーとどんな感じ?上手くやれそう?」
「多分、良い人だとは思うよ」
「そう。それならいいけど」
「あ、お母さんに伝え忘れてたけど、宝塚記念の日あたりにデビューする事になった」
「あら、本当?勝てそうなの?」
「うーん…、それは分からないけど、まぁ、田上トレーナーはやってみようって言ってた」
「そう。…絶対勝つのよ!そのくらいの意気じゃないと勝てないからね!ファイト!」
「ああ、ありがとう…」
「聞きたかったのはそれだけ…。あ、ちょっと待って。そう言えば、リリックのチームってアグネスタキオンが居るんでしょ?それは本当に大丈夫なのよね?一時期、自分のトレーナーに色々と薬を飲ませてるって話題になってたけど、リリックも何か飲まされていたりしない?」
「大丈夫大丈夫。全然大丈夫。今は、なんか薬とか実験とかそういう雰囲気じゃないよ。…これ、言っても良いのか分からないけど…」
「…何?」
「タキオンさん、ちょっと不調らしいんだよ」
「へー、不調。どうしてまた?」
「知らない。なんか不調らしい。なんか、トレーニングしたくないって駄々こねてた」
「へーー、確かに駄々こねそうな顔をしてる。モルモット君なんて言うのは、やっぱりおかしいからね。あんまり近寄らないようにしておきなさい」
「いや、でもあの人凄いんだからね。お母さんは、レースをあんまり見てないから分からないかもしれないけど、GⅠを三勝もしてる人と一緒にトレーニングをできるなんて本当に凄いんだからね」
「いやぁ、分からないよぉ?多分、田上トレーナーさんが凄かったんでしょ。そうだよ。もしかしたら、薬でドーピングしてたんじゃない?」
「タキオンさんは、ドーピングするような人じゃないと思う」
リリックが少々ムカついた声でそう言うと、反論するのもここらが潮時だと察した母親が言った。
「ん、分かった。じゃあ、また今度ね。レースの日程はどうなの?ちゃんと決まってるの?」
「六月八日の第五レースだって。見に来るの?」
「デビューくらいは見に行かないとね。…六月?八日はね…土曜日か。オッケー。そこ開けておく。あ、ゴールデンウィーク帰って来る?」
「…分かんない。田上トレーナーに聞いてみないと」
「そう。悲しいね。リリックには、早くいい男見つけて結婚して孫を産んでもらいたかったのに、女子校行っちゃうんだから」
「中学生に何言ってんの?…用は終わり?」
「あ、終わりです。オッケーです。六月八日の第五レース。それだけ覚えておきます。元気でね」
「はい。バイバイ」
「バイバイ」と母親から返されて、電話は切れた。今日の朝起きた時までは、まだ調子が良かったが、なんだかまた調子が悪くなってきたような気がした。田上にスカウトされるまでの調子の悪さが再発してきたような気がした。そうなってきたのが、またリリックにとっては嫌だった。嫌な気持ちになって嬉しい人などいないが、特にリリックは、嬉しい心地になんとか戻りたくてしょうがなかった。その胸のムズムズすらも嫌な気分を変に増幅させて、リリックの朝の気分は最悪の物となった。
それでも、友達と話すときは無理に自分を取り繕った。上手く表情を作れたのかは分からなかったが、イツモもオータムもリリックについて何も言わなかった。
田上は、タキオンのモーニングコールで目を覚ました。ここ最近は、最早、田上自身が設定した目覚ましではなく、タキオンの電話で目を覚ますようにしている。タキオンも田上の寝ぼけた声が聞けると嬉しいらしいので、もう目覚ましをかけるのはいいやと思い始めていた。だから、田上は今日も自分の恋人に朝の挨拶をした。
「ふぁ~~~~あ、…おはよう」
田上が寝ぼけた声を出したが、タキオンの方も負けず劣らず大きな欠伸をして言った。
「ふぁ~~~~~あ、……おはよう」
「起きたばっかり?」と田上が聞いた。
「起きたばっかりだよ。……うん。今日も眠いね」
「……授業に出る気にはなったか?」
「………今日は、出席をしなきゃいけない日だ。憂鬱…」
「頑張れ。やる事はやるってちゃんと決めたんだろ?休み時間には俺の所に来ていいから」
「…授業に出たくない。今日のトレーニングはしない」
「んん?しないって?…それは、ちょっと困るなぁ。…眠い」
「また、今日も君の所で朝は食べるからね」
「分かった。今から準備するから、しっかり制服に着替えて来いよ。授業に出る時には抱き締めてあげるから」
「分かった」
心持ち嬉しそうな声でタキオンが言うと、電話は切れた。
それから、田上は朝の支度をして寮の食堂に行くと、次いでタキオンも授業のためのバッグを持ってそこにやって来た。中々に憂鬱そうなくらい顔をしていたから、田上はタキオンを少しでも元気づけてやろうと顔に笑みを浮かべながら言った。
「授業は嫌か?」
「嫌だよ。君と一緒が良い」
「…でも、行くって決めたんだろ?」
「…決めた。…決めたけど、中々面倒臭いね」
「まぁ、あんまり気負うな。一時間足らずして定期的に会えるんだから、そんなに離れてないよ」
「知ってる。…寂しい」
「友達もいるだろ?アルト君とハナミ君」
「あんなのはあんまり役に立たないよ。普通の人だ。君の方がずっと気持ちが楽になる」
「でも、もし、俺がお前と同い年で、同じクラスであったとしても、席が隣同士じゃない限り、話す事はできないだろ?」
田上がそう言うと、タキオンは少しの間箸を止めて考え込んだ。その後に、田上の方を見て言った。
「そんな恋愛をしてみたかったね。君と同じ教室で、漫画のようなような恋愛。学生同士だったら…」
「学生同士だったら、出会うことはまずなかった。お前と同じ年代に生まれたとしても、お前は、絶対にこのトレセン学園に来てただろ?」
田上にそう反論されると、タキオンは田上を少し睨みつけた。けれども、また目を逸らすと言った。
「妄想なんだから、少しくらい話させてくれたって言いだろ…」
「…じゃあ、どんな妄想なんだ?」
田上が、物腰を柔らかくして聞いた。
「……まず、君と私が同じクラスだろ?それで、…付き合ってる」
「どっちが先に付き合おうって言ったんだ?多分、俺がそんな事を言い出す勇気はないぞ」
「……多分、…じゃあ、友達以上恋人未満だ。同じ部活に入っている。私が陸上部で、君がマネージャーだ」
「マネージャーってトレーナーと役割違うの?」
「知らない。そんな事私に聞かないでくれ」
「あと、多分、俺、部活のマネージャーはしないと思う。中学も高校も部活には一切関わらなかったし。自然な流れで行くと、俺は、帰宅部になってる」
「じゃあ、私が帰宅部の君を引っ張って、私専属のマネージャーにする」
「出会いはどこにある?多分、お前からしたら、ただの高校生の俺はつまらない人間だぞ」
これには、タキオンも妄想の行く末に窮したが、こう結論を出した。
「君と偶然、グループ活動なんかで話す事になる。その時に、私は君に惚れる」
「俺は、惚れないな」
「一々水を差さないでくれ。これは私の妄想だ。君の妄想なんかじゃないぞ」
タキオンが、少し怒りながら言うと、田上もこう反論した。
「俺が居るんだったら、大事な当事者の一人じゃん。妄想するんだったら、もっと現実に近付けた妄想しないと、矛盾が生じるだけだよ」
タキオンは、田上をじっと睨みつけながら、ご飯を食べていたが、やがてため息を吐いて言った。
「なら、私にどうやったら惚れると思う?」
「……仲良くなったら?」
「…君は、仲良くなったら誰にでも惚れるのかい?」
「それは、また、話が別だけど、一目惚れはしないよ。さすがに、仲良くならないと、安全な人かどうかは分からないからな」
今度は、タキオンは、田上の顔をよくよく見てから言った。
「では、君にとって私は安全な人だったのかな?」
「……まぁ、俺を殺そうとはしてくれなかった時点で、安全な人であるとは分かる。ちゃんとしたコミュニケーションもとれるから、悪い人ではない事も分かってた。強引なところは少しあるけど。…まぁ、大丈夫だと思う」
「そうか…。君の評価はそんなものか…」
「不味かった?」
田上が少し不安に思って聞くと、タキオンがふふふと顔に笑みを浮かべて返した。
「別に不味くはない。むしろ、嬉しさはある。…いや、初めから分かっていた事ではあったが、君は、私を理解してくれているよ」
「褒め言葉?」
「褒め言葉さ。…褒め言葉…。ねぇ、私をもっと褒めてくれよ。授業に出る元気が湧くから」
「え、褒める?」
「そう、褒めて。じゃないと授業には出ない」
「褒めるぅ?……可愛い。足速い。………かっこいい……」
「もうネタ切れかい?考えすぎだよ。もっとぽんぽん出てくるだろ?」
「ええ?…頭良い」
「もっと心を込めて」
「ええ?褒めろって言われて、心を込めた褒め方なんてできないよ。ちゃんと見送るから、頑張っていってこい」
タキオンは、そう言われると、若干不満足そうではあったものの、とりあえず、頷いて残りの朝食を食べた。
朝食を食べた後は、二人はとりあえずトレーナー室へと向かった。さすがに、朝の人が多い時間帯に、自分の部屋に連れ込むのは黄色い線を跨っているような気がするし、わざわざハグをするためだけにその危険を冒す必要もないように思えたからだ。だから、勿論、トレーナー室に向かった理由は、誰にも見られない場所でハグを交わすためで、時間ギリギリまでタキオンが田上と一緒に居るためだった。ただ、それが最後まで誰にも見られていない、というわけにはいかなかった。田上とタキオンがいちゃいちゃして、それもキスをしている所に、なんとリリックがノックもせずに入ってきたのだ。少しの間、座っていた椅子から驚いて転げ落ちそうになっているタキオンと田上をぼーっと見つめていたリリックだったが、暫くすると自分が二人がいちゃいちゃしている所に入ってきてしまっていたことに気が付いた。リリックがここに来た理由は、ここに定規を置き忘れてきたのじゃないかと思ってきた所だった。ただ、こんな二人のシーンを見るよりかは、定規の存在を忘れたままでいた方がリリックにとっては、まだマシだった。
リリックの最悪の調子は、さらに最悪となり、なにか苦痛を堪えているような表情をしながら軽く頭を下げると、長机の上にあった定規を取って、黙ったままトレーナー室から立ち去って行った。
その立ち去って行った扉をタキオンが暫く見つめていた後、自分を膝の上に乗せている田上に向かって言った。
「今のリリー君の顔、大阪杯前の圭一君みたいだったよ」
「俺?」と田上が、知らんぷりをしながら言いつつも、あんな感じの顔をしていたような自覚はあった。
「そう。君に似てた。表情の取り方がね。多分、あれは結構落ち込んでいると思うよ」
「そうか…。…忙しいな」
「そうだね。私にリリー君に、君の担当する子は今大変な時期だよ。ちゃんと支えててくれよ」
「支えるよ。頑張るけど、難しいよ。タキオンも俺を支えて」
田上がそう弱音を吐くと、タキオンが少しニヤッと笑って言った。
「じゃあ、私もこれからトレーナー補佐かな?」
「いや、そういう方法じゃなくて、…なんかこう、面倒をかけるなって言うんじゃないけど、俺がもし倒れそうになった時は支えてほしいなぁって感じだよ」
「えー、でも、私が授業に出ない限りは、この部屋に君と一緒に居るわけだから、トレーナー補佐には申し分ないんじゃないのかな?」
「補佐はマテリアルさん一人で足りてるし、お前には本来の学生という身分があるんだよ。ちゃんと授業に出なければお義母さんたちに連絡しないといけないからな。少なくとも、お前との帰省の一週間前には連絡するつもりだ」
「ええ!母さんに連絡するのかい!?」
「そうだよ。ちゃんと言ったよ、お前が行かないって言った時に。聞いてなかったのか?」
「聞いていたよ…」
「なら、観念しないと。遅かれ早かれ帰省した時には、絶対に言わないといけないんだからな。俺は、二つも報告をぶら下げて、お前の実家に挨拶なんていきたくないよ」
「良い報告と悪い報告がある、みたいな感じで話しだすのかい?」
タキオンが、少しふざけて言うと、田上が眉を寄せて「冗談じゃないよ…」と苦笑しながら返した。その様子を見て、タキオンは少し黙ったのだが、その後に言った。
「とにかく、今日は授業に行ってトレーニングには出ない。それを目標にして行ってくる」
「はぁ?トレーニングはしろよ。しない理由がないだろ」
「君ともっと居たい」
「居れるよ。金曜にはしっかりトレーニングしただろ?」
「したけど、したくない日もある」
「んん?…タキオン」
「なんだい?」
「……研究でトレーニングをサボってた日があったな」
「昔はそうだったね」
「…あれは、放っておいたな。…元々そういう奴だって事が分かっていたし、トレーニングに来る時は来ていたし…。ただ、今回はな…。…難しいよな…」
「難しい問題ではあるね」
「お前にもう少し自制を利かしてもらいたいけど、ただ、やめろって言ったところでだな…」
「素直に聞くような私じゃないね。…まぁ、じゃあ、トレーニングはまたトレーニングの前に改めて考えさせてもらうよ。…いってらっしゃいのキスをしよう?」
「じゃあ、立ってしよう。このままじゃ動かないかもしれないから」
「失礼だな。動くよ」と言いながら、タキオンは立ち上がって自分のバッグを持つと田上と共にドアの前まで行った。それから、丁度今キスをしようというタイミングで、またドアがガチャリと開いた。今度は、マテリアルだった。マテリアルも初めは、田上とタキオンが何をしようとしているのか察しがつかなかったが、二人の様子をじっくりと見た後に何をしようとしていたか察することができて、「ああ、すみませんでした」と顔を少し赤くさせてまた扉を閉めた。田上は、その後も少し扉の方を気にしていたが、タキオンは気にせずに言った。
「今日は、よく遮られるね」
「こんな時間にあんまり人は来ないと思っていたんだけどな」
「まあ、いい。キスをしよう」
そう言うと、タキオンは田上の頭を引き寄せて、自分の唇と田上の唇を少々強引に重ね合わせた。あんまり長い時間は要しなかったが、田上には、外にマテリアルが待っているのかと考えている分、少し長いように感じた。タキオンは、少しだけだが満足の行くまで田上とキスをしたようだ。唇を離れさせると、微笑を田上に向けて言った。
「帰ってきてからもしてくれ」
「帰ってきてからもは、難しいな。今度は、マテリアルさんが居るからな」
「じゃあ、あのいつものベンチの所でもいい。あそこなら人目が付きにくい」
「分かったから行ってきな。遅れるよ」
「ちゃんと答えてくれよ」
タキオンは、そう言ってドアを開けようとする田上の手をガシッと掴んで抑えた。田上には、タキオンがちょっと怒っているように見えたから、斜め上に目を逸らしながら言った。
「あー、…環境が悪いんだよな。俺たちの周りが。出会った場所が。簡単にキスをできるような場所なんてのはここには無いんだよ」
「…私はそれでもしたい」
タキオンがそう言うと、ドアの向こうからコンコンと軽く叩く音が二回鳴った。マテリアルが、早く中に入りたいけど、中の様子がどうにも分からないから急かしているらしい。タキオンは、それに噛みつくように「うるさい」と答えると、また田上に向かって言った。
「…環境が悪いのは分かってる。どうしようもないのも分かってるけど、私を支えてくれるのは君しか居ないんだ…」
そして、タキオンは縋る様な目付きで田上を見つめたが、田上は冷静に優しく返した。
「お前を支えてくれるのは、何も俺一人じゃないよ。マテリアルさんだって、リリーさんだって、お前の友達だって、お前の事を想ってくれているよ」
田上がそう言うと、タキオンは一瞬何処かに目を逸らした後に、今度は田上を睨んで言った。
「そんな事が聞きたかったんじゃない。嫌いだよ、圭一君の事」
それから、タキオンは怒ったようにドアを開けて、閉めて、自分の教室の方にスタスタと速足で歩いて行った。田上の胸は思いがけない一言にズキリと痛んだが、タキオンは追いかけないで入ってくるマテリアルを出迎えた。マテリアルは、ニヤニヤしたらいいのか、怒ったらいいのか、それとも心配したらいいのか分からない、複雑な表情を田上に向けて言った。
「あなた方、また喧嘩したんですか?」
「まぁ、そんな感じですね」
「また、私が電話したほうが良いですか?」
「…どうでしょう?…休み時間にここに戻ってこなかったら、俺が確認しに行ってみます」
「そう言えば、タキオンさん、今日は授業に出るんですね」
「はい。今日は、出ないといけないそうで」
「大変ですね。あんな人の恋人も……って、あなたがタキオンさんを振り回してる時も言いました。…本当に一番大変なのは、喧嘩の度に付き合わされる私なんじゃないですか?」
「本当にすみません」
田上が、申し訳なさそうな顔をして頭を少し下げると、マテリアルはハハハと笑い返した。
「別に、そんなに謝る事じゃないんですけどね。…中々、収まりませんね?」
「はい…」
「…なんか、これからも苦労が多そうですね」
「そうかもしれません」
「……このチームに入って正解でしたかね?」
「分かりません。別の所に入った方が、まだマシだったかもしれません」
「…んー…。まぁ、多少疲れますけど、その方がやりがいはあっていいですね。人の相談事を聞くのは嫌いじゃないですし」
「…僕も思ったんですけど…」
「…なんですか?」
「マテリアルさんが居なかったら、さすがに、二人も相手はしきれなかったな、って」
「ハハハ。いや、田上トレーナーも見る目はありますよ。ちゃんと私をトレーナー補佐に出来たんだし、タキオンさんも選べたんですから」
「…別に、僕が選んだんじゃないんですけどね。全部」
「あら?そうですか?……まぁ、私が問答無用で詰めた感じはありますが」
「感じじゃなくて、問答無用でしたけどね」
すると、またマテリアルがハハハと笑って話を変えた。
「今日の予定は何ですか?」
「今日は、またリリーさんはメニューを変えていきたいと思っています。最初の一週間で走るトレーニングについては大分掴めたと思いますから。だから、今度は、本格的に体を作っていきたいと思っています。…本人が、あんまり辛すぎると思わないようにメニューを作っていきたいのですが…」
「ふむ、バランスですね?」
「そうです。それと、やっぱりタキオンの問題もトレーナーとして話し合っておかないと行けないのかなぁ、と思うんですけど…」
「ふむふむ。…とりあえず、座って話しましょう?」
そう言ってマテリアルは、長机の方に行って、自分の荷物の場所なんかを整え始めたので、田上もその後について、マテリアルの正面の席に座った。
それから、二人はぼんやりとしつつ色々と話した。途中で、何にも関係の無い雑談も混ざったが、その為もあってか、一時間目の休みまではあっという間だった。田上は、マテリアルと話している間も、頭の片隅にタキオンに嫌いと言われたことが残っていて、話には集中できていたりいなかったりを繰り返していたのだが、とうとう、休み時間になるとそわそわが止まらなくなって、マテリアルも今までしていた話をやめて言った。
「タキオンさん来ますかね?」
「…ああ、…どうでしょうね?来るんじゃないでしょうかね?」と田上は、少し上の空で受け答えしていたが、その目線は心配そうにしっかりとドアに注がれていた。だから、マテリアルは苦笑して言った。
「心配なら迎えに行けばいいじゃないですか」
「……どうでしょうね?…どうでしょうね?…分かりませんけど…」と田上が要領を得ない返事をした後に、ドアがコンコンとまた二回鳴った。その途端に田上は立ち上がると、急いでドアの方に行って開けた。田上は、タキオンを期待して開けたのだが、そこに居たのは、タキオンではなく、タキオンの友達の二人だった。その友達は、扉が勢いよく開いたのに少々驚いていたが、出てきた田上にこう言った。
「ああ、田上トレーナーさん…」
「…タキオンの友達…?…何かあったんですか?」
タキオンではなく友達が来たことに、田上は少し心配の色を浮かべたが、返答は田上が想像したほど重大な物ではなかった。
「あの…、…タキオンちゃんが、トレーナーさんに――嫌いって言った事を少し後悔しているらしくて…。で、…その…、あの…、タキオンちゃんは…、…後悔していましたよ。って事を伝えたくて来ました。…あの、…ちょっとは優しい言葉をかけてあげてほしいなって思って…」
その子が、たどたどしくそう言い終わったと同時に、田上は、廊下の角から曲がってきたタキオンと目が合った。タキオンは、自分のトレーナー室の前で聞こえる話し声の主を確かめるために、慎重に曲がり角から顔を覗かせていたのだが、そこに丁度目線が行った田上と目が合った。すると、すぐにタキオンが引っ込んでいってしまったので、田上は思わず「あ!」と声を出してしまった。その声に、友達二人はすぐに反応して、田上の目線を追って自分たちの後ろを振り返った。そこには、タキオンの栗毛の尻尾が去って行くのがちらりと見えたから、二人はすぐに駆け出して曲がり角を曲がっていった。
そして、数十秒後には「嫌だよ!」と抵抗するタキオンを二人が捕まえて、田上の下へと連れてきた。
「タキオン!あんた、仲直りしたいんでしょ!」と一人が言うと、もう一人も「本当は好きなんでしょ」とこの状況を楽しんでいる笑顔で言った。
タキオンは、勿論それに反論した。
「仲直りなんてしたくない!圭一君が謝るまで私は謝らない!」
「何言ってんの!あんた、ここまで来たのは田上トレーナーさんに謝りたかったからなんでしょ。何の為にここまで来たの!」
「圭一君が、謝るかどうか確かめに来たんだよ!」
「いや、そもそもあんたが、後悔してたんでしょ!あんたが、――一方的に言った、ってさっき言ってたじゃん!」
「そんなのは関係ない!圭一君が謝らないと私は絶対に謝らない!」
すると、そこで田上も口を開いた。
「タキオンは、俺の事が嫌いなのか?」
その落ち着いた声がタキオンの耳に届くと、途端にタキオンが抵抗をやめて静かになった。そして、少し俯いた後に、一瞬だけチラリと田上の顔を見て言った。
「そう言うのは狡いよ」
「でも、嫌いだってさっき言ったから…」
「私が全然君の事嫌ってないってのは分かっているくせに、そんなこと聞いてくるんだから意地悪な事に違いはない」
「じゃあ、嫌いじゃないのか?」
田上がこう聞くと、タキオンは黙りこくった後言った。
「別に、嫌いじゃないけど、…あんなこと言って欲しくなかったのは本当だ」
「あんな事って?」と黒髪の子の方が聞いたが、タキオンは邪険に「君には関係の無い事だ」と返した。そう言われると、黒髪の子も返す言葉が見つからずに、恨めしそうにタキオンの顔を見つめたまま黙った。タキオンは、そんな視線には気付かずにただ田上に夢中になって言った。
「私は、何も正論で返して欲しかったんじゃない。ただ、…ただ、もっとなにかあるんじゃないかと思って、私は――君しか居ないと言ったんだ」
「じゃあ、俺は何を答えれば良かったんだよ」
田上は、タキオンの両隣にいる子を意識して、――話しにくいなぁ、と思いながらタキオンの話に答えた。
「それを探すのが君の役割だ」
「俺は、あの一瞬でお前の思っているような答えを出す程器用な男じゃないぞ」
そう言われると、タキオンは一瞬返答に困って、考えるために黙ったが、次に言った。
「そんな事は分かっているけど、私の気持ちだって分かってくれよ。君だったら、なにか優しい言葉をかけてくれるんじゃないかと思って言ったんだよ」
「でも…」と田上が反論しようとしたところで、躊躇って近くにいる友達の二人を見ると、直ぐにタキオンがそれに気が付いて、その友達二人に言った。
「まだ居たのかい!君たち!今、私と圭一君で大事な話をしているんだから、とっとと失せたまえ」
そう言われると、友達二人は初めショックを受けたような顔をして、顔を見合わせ、それから、二人共少し眉を寄せて「はい…」と言って立ち去っていった。そして、タキオンはそんな二人には構わず田上に言った。
「反論があるなら言いたまえよ!」
「…でも、…でもな。今お前が、失せろと言った相手は、お前の友達だぞ」
田上の言葉にタキオンは一瞬視線を落とした。しかし、また次の瞬間には田上にこう言った。
「私は、友達を失っていいくらい君の事が好きだ」
「良いはずはない。俺は、友達を大事にするお前の方が好きだ」
「そんな綺麗事抜かさないでくれ!」
タキオンがそう言った瞬間に、二時間目の始まりを告げるチャイムの音が、キーンコーンカーンコーンと廊下中に響き渡った。次に言葉を続けようとしていたタキオンも、これに遮られて何も言わなかった。だから、少しの間二人は黙ったまま見つめ合ったが、やがて、田上がゆっくりと口を開いた。
「授業に行け。今日は出ないといけないんだろ」
「…君の傍に居たい…」
タキオンが泣きそうな声で言った。これには田上も胸が痛んだが、タキオンが今日の授業は出ないといけないと言っている以上、そこを甘やかすわけにはいかなかった。ただ、渋い顔をして、田上は首を横に振った。そして、その後に絞り出すように言った。
「今日のトレーニングはしなくてもいいよ」
その言葉が気休めになったのかどうかは分からないが、そのままタキオンは自分の教室へと帰って行った。それから、昼まではもう田上の所には来なかった。田上は、休み時間が来るたびにマテリアルにも分かるくらいそわそわしていたのだが、ついぞ、タキオンは来なかったし、田上もタキオンを訪ねようとはしなかった。
田上は、午前の内は、今度行くカラオケについても調べていて、大体の目星はついたが、行く人数を把握していなかった。タキオンが、カフェを誘いたいと言っていたのを田上は覚えていたが、今の所それを聞けそうな状態に無かったし、そもそも、タキオンがカラオケに行きたがるのかもまだ怪しかった。