ケロイド   作:石花漱一

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二十四、ファン感謝祭とその後④

 タキオンが、昼食時に田上の下に来たのには、それを待ち望んでいた田上自身が一番驚いたが、タキオンは何にも言わずただ田上の体にしがみ付くばかりだった。これでは、カラオケの話題は出せそうにない。田上は、とりあえず、タキオンを自分の体から中途半端に引き剥がしつつ、椅子から立ち上がり、そして、もう引っ付いてくるタキオンは放っておいて、マテリアルさんとタキオンと田上の三人でカフェテリアに向かった。

 カフェテリアで自分の食事をテーブルまで運ぶときになっても、タキオンは田上の体に張り付いて何もしようとはしなかったので、田上が仕方なく右手にタキオンの分、左手に自分の分の食事を持って、席につくことにした。

 そこまですると、さすがにタキオンも田上から離れて昼食を食べるのかと思ったのだが、それでも、タキオンは田上から離れようとせず、さらに昼食も自分でも食べようとはしなかった。だから、田上は仕方なくタキオンに食事を食べさせてあげた。タキオンはそれが嬉しかったようだ。田上が自分に食べさせてくれる間は、終始ニコニコしながら、口を開けていた。そして、その口にまるで、親鳥が雛に食事を与えるように、田上が肉やら米やらを入れていた。田上は、タキオンのその嬉しそうな顔を、悲しみとも愛おしさとも取れる表情で見つめていた。

 タキオンは、自分の分の食事を十分に食べると、後は田上に完璧にくっつくことに専念した。そのおかげで田上は少々食べにくくはあったが、同時に、自分の食事にもありつけるようになった。タキオンにせっせと食事を与えている間に、自分の食事はすっかり冷え切っていたが、文句も言っていられなかった。タキオンで時間を取り過ぎたのだ。自分が食事をする時間はあまり残されてはいなかった。だから、田上が急いで食べ終わる頃には、もう昼休みは終わろうとしていた。

 タキオンは、昼休み中、田上にくっついていたことで、田上エネルギーを補充できたようだ。幾らか元気になったように見えたが、それでも、何も話さずにタキオンは自分の教室に帰っていった。

 田上は、ようやくタキオンが自分から離れると、疲弊したため息を吐いて、マテリアルに愚痴を言った。

「マテリアルさん…。あいつ、大変ですね…」

「そりゃあ、今まであなたを振り回してきたんですから、今頃それを悟ったってしょうがないのでは?」

「しょうがないかもしれませんけど、今日という今日は疲れました…。本当にどうしようもない奴です…」

「それを聞いたら、タキオンさん悲しみますよ?」

 マテリアルが、若干からかうような口調で言ったので、田上は少し腹が立って言い返した。

「悲しんだって…、悲しんだって…、あいつは、俺の事が好きだって言うんですから、あんまり変わりませんよ」

「私、惚気話を聞かされているんですか?」

 マテリアルが、ニヤニヤしながら言った。

「…いや、…今のは忘れてください」

「いや、忘れませんよ!何言ってるんですか!絶対にタキオンさんに言いますからね!」

「ええ…」

 田上は返す言葉が見つからずに、ただそう困惑しただけだったので、マテリアルはハハハと笑った。

「別に、本気で嫌なら言いませんけど、話のタネにくらいしたっていいでしょう?」

 これにも田上は言葉で答えることができずに、ただ曖昧に首を傾げるだけだった。別に、言ってほしいわけではないのだが、それを言ったらタキオンは喜んでくれるだろうなぁ、という気はあった。

 

 そういうわけで、田上の愚痴は終わりを迎えたのだが、トレーナー室で二人の会話はまだ続いていた。というのも、田上が、今まで忘れていた赤坂先生の存在をふと思い出してマテリアルに聞いたからだ。

「マテリアルさん」

「はい、なんでしょう」

「今度のカラオケって赤坂先生も行く、というか、誘いたいんでしたよね?」

「あ、はい。そうですね。タキオンさんが、私と赤坂先生の相性が良いって言ってたので」「多分、タキオンは、まだ赤坂先生に何も言ってませんよね?」

「…多分、言っていないと思います」

「そうですよね。…僕が、誘いに行っても問題ないと思いますか?」

「…別に、私にそれを聞かれてもしょうがないとは思いますけど…。いいんじゃないですか?」

「タキオンが、何か言ったりしないでしょうか?」

「タキオンさんが…?大丈夫なんじゃないですか?」

 マテリアルは、あんまり考える事もせずにそう言うと、反対に、田上は少しの間自分の机を見つめてむっつりと考え込んだ後言った。

「本当に相性が良いんでしょうかね?」

「知りませんよ」

「……カラオケで一緒になって話せる自信がありますか?」

 すると、マテリアルは空中に視線を向けて、考えてから言った。

「あんまり…不安はありませんけどね。話題とか…が、合わない…。合う…?があるのかは分かりませんけど、まぁ、合コンじゃないんでしょう?」

「合コンじゃありませんよ」

「なら、大丈夫ですよ。…あ、でも、タキオンさん、マンハッタンカフェさんのトレーナーさんを巻き込むとか言ってませんでしたか?」

「ああ、あれですね」

「そう。あの人、結構イケメンじゃなかったですか?あれで、彼女いなかったら、私にもワンチャンスあると思いませんか?」

「…どうでしょうね?…あのくらいイケメンなら、彼女の一人や二人いてもおかしくはなさそうですよね」

「ホントそれですよ。田上トレーナーだって、恋人がいるんですから、あの人も一人や二人いてもおかしくなさそうですよ」

 田上は、自分がやんわりと侮辱されたように感じたが、その違和感は置いておいて、話を続けた。

「マテリアルさんだって、いてもおかしくはなさそうな顔をしているんですけど」

「いやぁ、私も昔はブイブイいわせていたんですけど、ここ最近は、私の周りにボディーガードが多いからあんまり声をかけられることがありませんね」

 この言葉に、田上はちょっと笑って聞いた。

「ボディーガードって、俺の事ですか?」

「いや、ホントに誰がボディーガードとは言わないんですけど、ホントに強面のボディーガードがトレーニング中ずっと近くにいるもんですからねー」

 マテリアルは、終始お道化た口調でそれを言ってのけたから、田上も顔に満面の笑みを浮かべて返した。

「その強面の人って、もしかして、苗字に田んぼの田がついてませんか?」

「あ、そうそうそれです。田がついて、その後に、上……、あ、田上トレーナーの事じゃないですからね。別の田上です」

「俺以外に田上トレーナーが何人もいて堪りますか」

 田上がそうツッコミを入れると、二人はハハハと一頻り笑った。それから、気を取り直すと田上が言った。

「一回、赤坂先生に会ってみます?」

「会う?…でも、…失礼というか、…お邪魔じゃないんですか?向こうは仕事中でしょう?」

「仕事中でも話す時間くらいはあると思いますけど」

「えー、…でも、…そうなると何話せばいいか分からないでしょう?…会うって言われてもですねぇ」

 マテリアルは、珍しく弱気だった。それを不思議そうに見つめながら、田上はまた言った。

「会ってみるくらいいいんじゃないですか?」

「会う?…ちょっと待って、ちょっと考えさせてください」

 そう言われたので、田上は、少しの間そわそわしながらマテリアルが口を開くのを待った。マテリアルは、暫く両の親指を眉間に押し当てて、机に肘をついた丸まった背中で考え込んでいたのだが、やがておもむろに口を開いた。

「……行くとしても…カラオケに行くとも決まっていない今ではないんじゃないですか?」

「…えー、でも、別にカラオケに行かなくたって仲良くはなりたかったんじゃないですか?」

「あー…、それはそうですけど、…難しい質問ですね…。…つまりぃ、…私は、…ここぞという時じゃないと頑張りたくないと言うか、…難しいですね。…ちょっと待ってくださいね…。うーん…。私は、…失礼じゃありませんか?急に見知らぬ人が訪問してくるんですよ?――あなたとお友達になりたくて…。それ以外に何もありませんよ。ただ友達が欲しいから友達になってくれる人を探すって……おかしくありませんか?」

「おかしい…か?と問われれば、…まぁ、微妙なような気はしますね。…ただ、友達がほしいって言うのなら…、…友達…ねぇ。…難しいですね」

「でしょう?だから、さすがに今は会えませんよ」

「……でも、……。言ってもいいのかな?」

「なんですか?」

「いや、…でも、……カラオケに一緒に行けたとしても、それは同じことなんじゃないですか?」

「……それは、…私は、趣味が合えばいいと思っているので…」

「でも、……それって、じゃあ、マテリアルさんが赤坂先生の事を振り回している事になりませんか?」

「…どういうことです?」

 マテリアルが、不安そうに聞いた。

「…だって、マテリアルさんが、赤坂先生と友達にならなければ、このカラオケを開いた意味がないじゃないですか。それに、タキオンだってマテリアルさんの為にカラオケをしてあげようと言ったのに、それが実を結ばなかったとしたら、タキオンまで振り回している事になる…と思います」

「………でも、…タキオンさんが橋渡しをしてくれると言ったから、私はそれに甘えようかな…って」

「…そうか…。……どうでしょう?ガツガツ友達を作りたいという事であれば、合コンみたいなのとあんまり変わりそうにないんじゃないですか?」

「…ガツガツ…。どうなんでしょう?あんまり想像がつきませんけど、私って、カラオケでどういう立ち回りをしたらいいんですか?確かに、友達は欲しいんですけど、…欲しいっちゃ欲しいんですけど、…赤坂先生と…どうすればいいんでしょう?友達になれなければ、カラオケは失敗って事なんですか?」

「……タキオンとも、どういう意図があったのか、一回話し合ったほうが良いかもしれませんね」

 田上がそう言うと、話は一旦終わりを迎えた。その後も幾つか話をしてはいたのだが、それらの話は、全てトレーニングに関する事だった。

 

 昼の一時間目、つまり、五時間目の休みになると、タキオンはトレーナー室に来てくれたが、その目的は、昼食時と同じ、田上に甘えるためだった。初めは何も喋ろうとしないで、ただ猫のように嬉しそうに田上にすり寄って来るだけだったが、田上が今度のカラオケの事を話すと、顔を田上に向けて言った。

「別に、赤坂君とマテリアル君が友達にならなくても失敗ではないだろう?あくまでも、私は、あの二人が気が合うんじゃないかと言っただけだ」

「じゃあ、マンハッタンカフェさんはどうするんです?そのトレーナーさんも巻き込むとか言ってましたけど」

「ああ、…それだね、問題は。…何にも考えてないや」

「考えてくれないと、火曜日までには全員に報告したいんだけど」と田上が、自分の頬をくすぐるタキオンのアホ毛を鬱陶しそうに払いのけながら言った。

「…中止という線は?」

 タキオンが、田上の首の匂いをしきりに嗅ぎながら言った。

「今更中止…?…リリーさんの友達も参加したいって言っていたしなぁ」

「私は何だか面倒臭くなってきちゃったよ。もう、君と居るだけでいい」

 また、タキオンが田上に全てを預けるような言葉を聞いて、田上は注意しようかどうか迷ったが、今注意をしても意味の無い不和を生むだけなので、それは見逃して言い返した。

「それだけじゃ、事は収まらないし、タキオンだってカラオケは別に嫌いじゃないだろ?」

「うるさいからそんなに好きじゃない」

 タキオンは、田上の首にしがみ付きながら言った。

「じゃあ、話が終わっちゃう。…どうだ?今日のトレーニングは休みって言っただろ?そして、明日は授業に出なくてもいいんじゃないか?」

「出なくていい…」

「なら、今日のトレーニングのうちに考えておいてくれ。考えがまとまらないなら、俺も一緒に考えるから」

 これについて、タキオンは明確に答えることはしなかったが、その言葉を受けるとより一層田上の首を強く抱きしめて「好き…」と耳元で呟いた。そうされると、田上少し嬉しさが込み上げてきたが、それは、長机に座っていたマテリアルのわざとらしいオホンという咳払いによって、払い落された。

 田上は気を取り直すと、もう一言付け加えた。

「俺は、少し楽しみだよ。タキオンと一緒にカラオケに行くの」

 今度は、タキオンは「好き」とも答えなかった。けれども、嬉しそうに田上の顎に頬を擦りつけた。

 

 その話が終わった直ぐ後に、六時間目の授業のチャイムが鳴った。チャイムが鳴ってから教室に行くのでは、最早遅すぎたが、タキオンは特に何も気にしていないようだった。ただ、田上と離れるというとてつもなく困難な大仕事をやった後に、悲しそうに田上に「また、次ね」と言って、自分の教室へと戻っていった。

 そんなタキオンに田上がニコニコしながら手を振ると、タキオンがトレーナー室のドアを閉めた後にマテリアルが彼に声をかけた。

「随分と恋人の事がお好きなようですね」

「まぁ…、まぁ…、そうですね…」

 田上は、照れを隠すために首を左右に振って、肩こりのマッサージをしながら言った。

「本当にタキオンさんに惚れてますね。他の人があなたに抱き着いても、タキオンさんが抱き着いた時のようになりますか?」

「…そりゃあ、…なりませんよ。…どんな風なのかは知りませんが」

「もう、なんかくっつくっていうのが当たり前みたいなところありますよね。タキオンさんがくっついてきても、全然気にしていない。…タキオンさんが、くっついてこなくなったら寂しくなるんじゃないですか?」

「……あいつが、くっついて来ないっていうのが、想像つきませんね」

 すると、マテリアルは、我が意を得たりとばかりに顔を輝かせて言った。

「ほら!当たり前じゃないですか!くっつかなくなった時の事が想像できていない」

「でも、くっつかなる時ってありますか?」

 田上も少し意地になって反論した。そう言われると、マテリアルは、ちょっと考えてから言った。

「ほら、三十歳四十歳になった時とか。二人ってどうなってると思います?」

「タキオンが三十?」

「そうです」

「タキオンが三十だと、…今から十二年後ですよ?その時には、もう何が起こってるのか分かりませんよ」

「じゃあ、三十のタキオンさんを想像してみてください。今の子供っぽいまま老けた感じですか?それとも、もう落ち着いていそうですか?」

 これには、田上も少し考えてから答えた。

「……子供ができていれば落ち着いては良そうですけどね…」

「誰の子供ですか?」

 これは、答えは分かり切っているというのに、質問してくるマテリアルの意地の悪い意図が見えた。だから、田上はしかめっ面をしたが、ちゃんと答えた。

「そりゃあ、今付き合ってるんですから、俺の子供を想像しないでどうするんです?」

「……その時に私ってどうなってます?…田上トレーナーとその時も付き合いがあるんでしょうか?」

「そりゃ、分かりませんよ。俺に聞かないでください」

「え、田上トレーナーはどうしてほしいですか?」

「え、俺ですか?…何が?」

「私が、補佐をやめて自分のチームを作るか、それとも、補佐としてこのチームに在籍し続けるか」

「……それは、…マテリアルさん次第なんじゃないですか?元々、俺とタキオンから学びたくてここに来たんじゃないんですか?」

「……確かにそうですが…、なんか、ここの居心地が良くて――このままでもいいかなー、って感じがしてるんです」

 マテリアルは、そう言ってにこにこした。

「それは、褒められてるって事でいいんですか?」

「褒めてるって言うより、面白いなって事です。…そりゃ、面倒臭い事もあるんですけど、想像以上にここの居心地が良いんです」

「はぁ…」

 そんなに褒められると、田上も戸惑ったが、その田上にマテリアルはこう聞いた。

「田上トレーナーは、どのぐらいになったら引退するつもりですか?死ぬまで?」

「ええ?…それは、考えたことがなかったけど……、いつまでだろう?…病気になって動けなくなったら、さすがに辞めないといけないけどね…」

「タキオンさんは、いつ引退するつもりですか?ピークが過ぎたらですか?それとも、二人で相談して辞めるつもりですか?」

「勿論、相談して辞めるつもりはあるんですけど、…いつ頃辞めるのかは…まだ分かりませんね」

「タキオンさんから引退の話なんかの話は出たことがありますか?」

「引退…というよりかは、俺と一緒に暮らしたいという話はちょいちょいありますね」

「暮らしたい!?結婚したらですか?」

「まぁ、…あの…結婚は、…引退と卒業がセットかなぁ、とは思っていますから」

「それで、タキオンさんはあれですか。…目の前に広がっている結婚と、競走人生とでごっちゃになっている感じですか」

「そんな感じだと思います…」

「そりゃあ、あなたの責任は重いですよ。あなたがしっかりしていないと、タキオンさんもどっちを頑張ればいいのか分からないでしょう」

「…僕は、一応…宝塚に出走すること自体が嫌そうに見えたので、一応、タキオンに引退…する事も薦めましたが、ダメでしたかね?」

「ええ…、…そもそも宝塚記念が嫌そうだったんですか?」

「そうです。…あれは、少し無責任な感じもありますね。…ただ、その後にちゃんと話し合って、走ってくれるとは言ったんですけど…難しいですね」

「ええ…、私、あんまり状況が飲み込めていないんですけど、…まぁ、そこらへんはいいや。本当に結婚するんですか?」

「え?」

「いや、結婚ですよ。私、お二人の結婚ってあんまり想像できなくて…、家はどうするんです?あの寮には住めないですよね?」

「ああ、だから、住むときには、家族寮の方に移ろうかな、と考えてます」

「へー、そんな事も考えているんですか。…それも二人で話し合ったんですか?」

「まぁ、一応話し合いました。…まだ、先の話にはなりますけど」

「へー、…結婚式には私は呼んでくれるんですか?当然呼びますよね?チームの子はどうします?リリーちゃん以外にも担当する予定の子がいるんでしょう?」

「あー、…結婚式は、…そんなに話し合うこと自体をしていませんから、結婚式はどうなるか分かりません」

「えー、私呼んでくださいよ?晴れ姿のタキオンさん見たいですもん」

「ははは」と田上は、適当に愛想笑いをして、その話を曖昧に下した。マテリアルは、その後も何個か質問を重ねてきたのだが、それらも適当に返しながら、田上は放課後になってトレーニングが始まるのを待った。

 

 放課後になると、リリックは真っ先にいつもトレーニングする場所へと向かった。ここへ来るのが、田上たちより大分早くなったのは様々な要因があるが、その要因の一つの中に、リリックは、友達と少しも話さないでここまで来たのがある。普段のリリックだったら、時間があれば、もう少し友達と話などでもして時間を潰していたかもしれないが、今日はもう苛々して仕方がなかった。なにかに八つ当たりをするという性格でもないため、吐き気のするような苛々と、心臓のバクバクという音を聞きながら常に過ごすしかなかった。

 もう一つの要因としては、あの土手に行けばこの苛々も多少は収まるのじゃないかと考えたからだ。あの風の吹く土手に寝転がって、トレーニングが始まるまでの時間をできるだけ多く過ごせば、その分苛々も和らいでくれると思った。

 そのため、リリックは、いつものトレーニング場に来ると、田上たちがまだ居ない事を確認して、そこに寝転がった。その土手には、あの時のように風は吹いていたが、春も盛りを持った季節になった事によって、大分暑さもあった。そこに寝転がって、まだ高い太陽と青い空を見つめても、胸の中にあるモヤモヤや苛立ちは消えなかった。しかし、少しくらいであれば、気分は落ち着いた。未だに、頭の中をぐるぐるぐるぐると苛立ちが回り続けてはいるが、それらを多少なりとも忘れることができた。

 ただ、暑さは次第にリリックにとって鬱陶しい物になっていった。じんわりじんわりとリリックに汗ばませて来るその暑さは、脳が考えるのを阻害してもくれたが、熱の籠ったような嫌な気持ちにもなった。

 そうして、リリックが土手のに寝転がって気怠く過ごしていると、いつしかマテリアルが上の方の道を通ってやって来た。

「あ、リリーちゃん、ここですね」

「ああ、マテリアルさん」

 リリックは、唐突に声をかけられたので、戸惑いながら暗い声で答えた。そんなリリックの事は気にせずに、マテリアルが明るく言った。

「田上トレーナーが、ちょっとタキオンさんの扱いに困っているみたいなので、先にトレーニング始めちゃってくださいって。今日のメニューは~~」とマテリアルが言うのを、リリックは半身を起こして、ぼーっとしながら聞いていた。そして、マテリアルが最後まで言い終わり「分かりました?」と聞くと、リリックは当然今までの話をぼんやりとして聞いていなかったから、「分かりません、というか、ぼーっとしていて聞いてませんでした。すみません。最初から話してくれますか?」と答えた。マテリアルは、優しい人だったので、仕方がなさそうに笑うと、「分かりました。じゃあ、初めから言うので今度はちゃんと聞いてくださいよ」と言って、また話を始めた。

 今度は、リリックもしっかりと立ち上がり、マテリアルと同じ高さの所に立って、話を聞いた。トレーニングのメニューは、これからは主に身体機能の向上を目指すと聞かされた。詳しい事はあまり分からなかったが、とりあえず、自分が聞けばいいのはトレーニングメニューだけで良いと言うのは分かっていたので、それを素直に聞いて飲み込んだ。

 どうにもまだ本調子ではなかったが、リリックは、マテリアルの指導の下、素直にトレーニングを開始した。

 田上とタキオンは、リリックがウォーミングアップを済ませて、今からメニューをこなしていこうという時になって現れた。遅くなった理由は、やっぱりタキオンのせいのようで、田上の前面にはタキオンががっしりとしがみ付いていて、そのしがみ付き方が、田上の腕や足を抑えて歩きにくくさせるようなしがみ付き方だったので、田上は、怪我をした人のような歩き方をしてここまで来ていた。さすがに、ここまで来るとタキオンも田上から降りていたが、それでも、田上の腕にしっかりと恋人らしくくっついていた。それを遠目に見ながら、リリックは――良いなぁ…と思った。――あんなに恥も外聞なく人に甘えられるような人間になりたかった…。

 田上の横で嬉しそうに笑っているタキオンが少し憎くもあった。タキオンは、自分が持っていないものを全て持っている。足の速さも、人を心配するという人間性も、頼れる恋人も…。持っていないものと言ったら、それこそ恥と外聞だろう。だが、リリックは、こんなものは好きではなかった。羞恥心なんて、持っているだけ損な物だ。羞恥心の無い人間の方が、幾らか生きやすくはなるだろう。少なくとも、自分自身に苛められずに済むだけ随分とマシだ。あのしがみ付いているのが自分であれば、恥と外聞に苛められ、それでも、恋人に抱き着きたいという欲があるから、二つの想いに板挟みになってしょうがなかったはずだ。それをタキオンなら簡単にやってのける。リリックは、走りながら「はぁ…」とため息を一つ吐いた。

 

 タキオンと田上は、土手に座ってカラオケの事を話そうとしていたのだが、タキオンは、田上が何回呼び掛けても話そうとする前に嫌だ嫌だと言って、田上の腕にしがみ付くので、田上は少し途方に暮れていた。タキオンが何が嫌なのかは分からなかったが、少なくとも、自分の腕を抱き締めてくるタキオンの顔は嬉しそうな物であった。

 それをようやく遮って、田上は、タキオンに言った。

「お前、イヤイヤじゃなんだよ!赤ちゃんか、お前は!」

「君の赤ちゃんでいいよ」

 タキオンは、にっこりしながら言った。

「俺は良くないよ。それに、赤ちゃんならさすがに付き合う事はできないんですけど」

「じゃあ、…なんだろ。…君の恋人兼赤ちゃんでいいよ」

「良くないの。俺の話を聞けよ」

「はぁ、仕方がないなぁ。言ってみたまえ」

「お前、カラオケはどうするつもりなんだ?」

「君と皆の前でちゅーをしてみるのも良いかもしれないね」

「良くない!イカレてるのか!」

「本気にしないでくれ。ほんの冗談だよ、冗談。カラオケかい?…君と一緒ならそれでいいんだけどねぇ」

「カフェさんはどうするんだ?松浦さんも巻き込みたいって言ってただろ?」

「言っていたかもしれないが、…今思うと、あんまり望みも無いような気がする」

「じゃあ、どうする?」

「……君と一緒に説得しに行こう。最悪、カフェ一人だけでもいいよ」

「ていうか、俺たち、まだ赤坂先生も誘ってないんだぞ。赤坂先生はどうする?」

「適当に君の方で誘っておいてよ」

「ええ、俺が?」と田上が露骨に嫌そうな顔をすると、タキオンは反対に嬉しそうな顔をして言った。

「いや、やっぱり私も行こう。君と私で交際報告ついでに行こうよ」

「…報告する必要があるか?」

「あるじゃないか。これまで、私たちが幾度となくお世話になった人だぞ」

「主にお前が俺相手に話すのがつまらなくなった時に、話しにいってただけだろ」

「いやいや、君が泣いてたのだって赤坂君が教えてくれたから分かった事…」

「泣いてた?」

 田上が、タキオンの事をじろりと睨んで言った。そこで、タキオンは自分が面倒な事を漏らしてしまった事に気が付いて、慌てて弁明を始めた。

「別に、些細な事だとは思うけどね。…君も私の前で何度か涙を流したわけだから、今更泣いたって事に怒るような事じゃないだろ?」

「いつの話だ?」

 ここで、タキオンは、嘘を吐くかどうか迷ったが、もう三か月以上も前の事なので時効だろうと思って言った。

「君と私が、熱で寝込んだ時の話だよ。…あの赤坂君の報告が無かったら、今私たちはこうしてくっついている事もなかっただろうから、どうかあの人を怒らないでほしいんだけど」

「…あの熱の時?」

 田上には、熱の中でのぼんやりとした記憶が、今になって鮮明に思い出せてきたような気がした。

「そう」とタキオンが声たると、田上は再び聞いた。

「……じゃあ、…タキオンはあの話を聞いたって事なのか?」

「まぁ、そういう事になるね。…ただ、赤坂君が相談しに来ただけなんだよ。私から何か聞いたわけじゃない」

「じゃあ、タキオンは、あの帰省で俺の父さんと幸助に聞きたい事があるって言ってたな。何の話だったんだ?」

「あー…」とタキオンは、なんとかお茶を濁せるような選択肢を探したが、恋人にもなって、本当の事を打ち明けないのはどうかと思ったので、タキオンは言いにくそうに素直に答えた。

「あれだね。…君のお母さんの事を聞こうと思って」

「なんで?」

「………私は、…君が帰りたいと言って泣いたのを愛情不足のせいじゃないかと思ったんだよ。あんまり怒らないでくれ。ただ、…ただ、君がちょっと心配だったってだけで。私が君の事を心配にならなければ、今こうする事はできてない」

「怒ってない…」

 田上は、相変わらずしかめっ面でそう答えた。

「怒っていそうな顔だけどね…」

「怒ってないから、全部話してくれ」

「…あの、…今まで言わなかったのは、機会がなかったからと、あの時はまだ恋人同士じゃなかったからだ。ただ単純に君の事が気になって。…私もあの旅行は楽しかったからね?君と同じように十分に楽しめた。あの旅行は最高だった。あの旅行のお陰で私は君と恋人同士になることができた。本当にあの旅行は良かったと思ってる」

 タキオンは、早口でそう捲し立てたが、田上は、しかめっ面のまま「分かったから早く本題に入ってくれ」と言った。それで、タキオンも少し落ち着いて、やがて、ゆっくりと話し出した。

「お義父さんと幸助君に聞いたのは、君とお母さんの関係だよ」

「何て言った?」

「……これを言うのが難しい。…けど、言ったほうが良いんだろうねぇ」

「包み隠さず言ってくれ。隠し事は無しだ」

「……まぁ、君が子供の頃、…母親から習い事を強制されていたというのを聞いたよ」

「……それを聞いてタキオンはどう思った?」

「ああ、それか!それも話さないといけないかい?」

「包み隠さず」

「……本当に誤解しないでほしいんだけど、私は客観的に物事を見たかったんだ。決して、君のお母さんを侮辱したかったわけじゃない。君のお母さんは私のお義母さんでもあるわけだ。君のお母さんがお腹を痛めて君を生んでくれなければ、私は今はここではない所に行っているかもしれない。君のお母さんが、この世に居たという事には本当に感謝している。……だけど、私がそれを聞いて思ったのは、…君は可哀想な子供だったという事だ」

 暫く二人は黙って見つめ合っていたが、やがて、田上が口を開いた。

「別に、俺は可哀想じゃなかった」

「いや…!…あんまりこの事について君と口論はしたくないんだ。…でも、それは今の君にも関係している。今の君の生き方が、それを引きずっているんだよ。私と付き合って大分マシになった方だ」

 それを聞きながら田上がタキオンの事を睨むと、彼女は、もっと田上の腕を強く抱きしめて言った。

「別に、君と喧嘩したいわけじゃないんだよ。だけど、何回でも言うけど、私は、その事を客観的に受け止めたかったんだ。客観的に!だから、…どうか怒らないで…」

「……もっと詳しく説明してくれ。…なんで、お前は俺の事を可哀想だと思ったんだ?」

「…ああ、あんまり説明したくないな…」

「別に、怒ってどっかに行くなんて事はしない」

 その田上のしかめっ面を見ながら、タキオンは「本当かなぁ」と呟いた。しかし、結局はちゃんと説明した。

「喧嘩したいんじゃない。喧嘩したいんじゃないから、君も冷静になって聞いてほしい。本当に、君の事は愛している。愛しているから喧嘩したくないんだ。私は、常に君の傍に居たいから。いつも言っているだろう?」

「分かったから早く言ってくれ」

「……本当に……。この話が終わったらキスをしてくれ。絶対に。そうじゃないと私は話すことができない」

「ご褒美に?」

「違う。君が怒らないという担保だ。怒ってどこかに行こうとして、それを私が食い止めるためにキスをしたとしても絶対に受け入れてくれ。何があっても」

「…いいよ」

「…なら、話す。……君のお父さんは、君が習い事に嫌がっていると言っていた。…これは間違いないかな?」

「…まぁ、嫌な事は嫌だった」

「それを君のお父さんは、教育熱心だったと評価していたが…。君のお父さんも侮辱をしたいわけじゃないからね?」

「分かってるよ」

「侮辱したいわけではないんだけども、君のお父さんも人間だ。聖人君子であるわけではない。ただの人間なんだ。何様かと思うかもしれないけど、物事は必ず理解しないといけない。君の身内をバカにしたいわけじゃないんだ。…けど、言わせて貰えば、教育熱心は子供に、圭一君には毒だった」

 タキオンは、そう苦しそうに言い切ると、一度目をトレーニング場の方に泳がせた後、唐突に言った。

「一旦、キスで気を紛らわさせてくれないか?」

 そう言うと、タキオンは田上が答える暇もなく、それなりに長いキスをしてきた。勿論、ここには多くの人が集まっている。田上の友達もこれを見ているかもしれない。だから、田上も少しは抵抗したが、その抵抗も及ばず、タキオンにしっかりとキスをされた後、解放された。

 タキオンは、田上を解放した後は少し嬉しそうな顔を彼に向けていたが、田上は変わらないしかめっ面で「強引過ぎる」と少し注意した。タキオンは、その言葉にまた一段と嬉しそうな顔で笑ったが、話を続けた。

「だから、子供の時に君が受けた毒は、今も尚効き続けていたんだよ。それをどこかで解毒しなければならなかった。私は、今がその時だと思う。私は君と一緒に生きるから、君のその毒を一生懸命中和するから」

「お前の目的はそれだけじゃないだろ」と田上が話に割り込むと、タキオンも複雑そうな顔をした後、「その通りだよ」と言った。

「しかし、君の事が一番大切だ。私は、君の事を誰よりも想っているし、君の事を誰よりも、君の親御さんよりも理解しているという自負はある。君のお父さんでも見ないような顔を私は幾つも見てきた。君をこの世で一番知っているのは私だ。私が君を一番愛している」

「それで?」

「それで?…私は、君と一緒に生きようと思っている…」

「違う。母さんは俺に何をした?」

「ああ…、君も懲りないね。あんまり喧嘩はしたくないのだけれど」

「喧嘩じゃない。お前の意見を聞きたいだけだ」

「…私の意見を聞いたってね…」

「お前の意見を知りたい」

「ああ…、嫌いにならないでほしいんだけどなぁ…」

「嫌いにはならないから」

 田上が少し表情を和らげて言うと、タキオンは渋々言った。

「………君のお母さんは、君の決定を無視したわけだ。君が、何度――嫌だと言っても、君の習い事は続いたんだろ?」

「…病気になってからはさすがに続かなかったけど」

「……病気…。…お義母さんは、どうだったんだい?初めから死ぬような病気だったのかい?それとも、…もう手遅れだった?」

 タキオンが言いにくそうに聞いた。

「いや、…通院し始めたのが、中三の初めくらいで、…その後に、だんだん悪くなっていって、大内県の病院で手術して、そのままそこに入院する事になったんだよ。手術がどうなったのかは分からないけど、それでも結局は母さんが死んじゃったから。…最後は、俺たちのあの家で過ごして、看取った」

 田上がそう語ると、タキオンは悲しそうな居た堪れないような顔をして言った。

「ああ、ごめん。そんなに聞くつもりじゃなかったんだけど…」

「もう十年も前の事だよ」

「いや、……看取るというのは壮絶な事だよ。自らの母を中三の時に看取るだなんて…」

「そんなに悲劇の少年じゃないよ?」

「そんな事はないさ!…私が、これから一生懸命愛してあげるからね。君に寂しい思いなんてさせないから」

 このタキオンの言い草に、田上は苦笑しながら「ありがとう」と答えた。それから、こうも言った。

「母さんの病気が今の話と何か関係があったか?」

「…いや、…最後どうだったんだろうな、と思ってね。習い事について、君に何か言ったかい?」

「……あー、…――もう少し自由にさせてあげればよかった、とは言われたことがある」

「……じゃあ、…死ぬ間際に君にしてしまった事を悟ったんだね。…もっと早く分かってあげればよかったのに」

 最後の言葉は、独り言のようだった。土手の芝生のチクチクと刺さる草を遠い何かを憎むような目で見つめながら、タキオンはそう言っていた。

 そして、不意に自分が口走っていたことに気が付くと、タキオンは慌てて田上に言った。

「別に、今ここまでに至る事象は、起こるべくして起きたと理解している。お義母さんが死ななければ、こうして私たちが会う事もなかったかもしれない。ただ単に君が幸せに暮らして、私も別に幸せに暮らしている未来があったかもしれない。もしかしたら、私は、君がテレビで見るウマ娘の中の一人だった可能性もあるわけだから。…こう考えると、人生という物は何で構成されているのか分からない。偶然性が主体として成っているのか、それとも、運命という一言で片付けられるのか…。…私は、そんな事関係ないとは思うけどね。人生とは、人の歴史としてあるわけだから、そこには偶然や運命など絡んでこない。また、気にしている余裕などない。君と共にある『今』を感じたい」

「だけど、『永遠』も魅力的だな?」

 田上が、少しからかうような調子で言うと、タキオンも困ったような顔をして「それもそうだよ」と答えた。

「しかし、…まぁ、今ここで君にこの話をできたのは良かったかもしれない。もしかしたら、また先の未来で、悪いタイミングの時にこの話が出てきてしまっていたかもしれないから。そうなれば、君も私に怒っていた可能性もあるわけだからね。…可能性は捨てきれない。…じゃあ、話は終わりかな?」

「終わりかもしれない」

 田上は、今から起こるかもしれない出来事を予測して、それを避けようと、曖昧な返事をしたのだが、田上の曖昧な口調など関係なかった。顔を少し背けた田上を地面に押さえつけ、タキオンは田上の顔を両手で掴むと、その唇にキスをした。田上は、大衆の目前であるという背徳感も相まって物凄くドキドキしたのだが、タキオンに解放されて辺りを見回すと、途端に背筋が凍った。

 霧島と一瞬目が合ったような気がした。トレーニングをしている場所は、霧島と同じである。田上としっかりと目が合ったかどうかは分からなかった。その一瞬後に、霧島は自分の教え子のササクレと話を始めたからだ。田上の額にはどっと冷や汗が噴き出して、力も抜けて、折角起き上がったのに、また土手の芝生の上に寝転がってしまった。その様子を見ていたタキオンが、田上が自分の事を誘っていると都合よく解釈をして、また少しの間だけ唇を重ねた。田上は、それを気持ちの悪いドキドキで受け入れたが、タキオンがまた唇を離すと言った。

「霧島、……俺のこと見てる?」

「霧島君?どこだい?」

 そう言って、タキオンは土手の下のトレーニング場をキョロキョロと見回した。

「右下。人混みの外れに居る」

「ああ、居るね。今は、あの頭のおかしな子と話しているようだけど」

「ササクレさんだぞ。あんまり喧嘩の種になるようなこと言うなよ」

「こんな所じゃ聞こえないよ。…霧島君と目が合ったのかい?」

「ああ。…多分、合った。さすがにバレたかな…」

「まぁ、こんな大衆の面前で二回、いや、三回もキスをしたんだから、霧島君だけじゃなく、他の誰かにも見られていてもおかしくはないよ」

「……もう手遅れか…」

「手遅れだろうね。私たちの間柄ももう生徒たちの間で出回っているだろうしね。その噂を裏付ける例を、噂好きの人たちに与えてやってもいいと、私は思うね」

「……噂のバレるバレないはもういいけど、普通、こんな人前でキスをするのって躊躇うと思うぞ。それか、若いカップルぐらいだろ?人前でキスをするのは」

「私たちも若い男女だよ?」

「若い?」

「そうだよ。君、まだ二十五だよ。華の二十代さ」

「そうか…。俺、まだ二十五か。…三十後半くらいまで生きてきた気はするな…」

「色々悩み過ぎなんだよ。もうちょっと気楽に生きなきゃ」

 タキオンが、軽い調子でそう言うと、田上は寝転がったまま顔だけ上げてタキオンを見た。そして、数秒間タキオンの顔を見つめた後、また首の力を抜いて空を見上げると言った。

「気楽って……、…どんなもんだろう?」

「君が気にするほど、世界は悪くないって事だよ」

「ここ最近は碌なニュースがないからなぁ…」

「そうだね。…変な政党がいたり、政治家の汚職事件だったり、強盗強盗強盗だったり…、埼玉であった殺人事件だったり…。…ニュースばかり見ていると、気が滅入りそうになるのは間違いない」

「そんな中で、俺たちが報道されたらどうしよう…」

「『トレセン学園!生徒とトレーナーの熱愛報道!しかも、それはあのGⅠ三勝のアグネスタキオンと田上圭一トレーナーだった!』みたいな感じで報道されるのかな?」

「そうかも…」

 田上が、力なく頷いた。

「それなら、一度、バカみたいな報道番組にされたけどね。覚えてないかい?あの時だよ。大阪杯の後のホテルのテレビで見ただろ?」

「…ああ、そんなこともあったな…」

 また元気が無さそうに田上が言うと、タキオンもさすがに苦笑して、田上の顔を上から覗き込むと言った。

「なんでそんなに元気が無いんだい?」

「…霧島に見られてかもしれないから」

「…なら、君は霧島君にはずっと私たちの関係を隠し通すつもりだったのかい?」

「…別に、そうでもないけど…」

「なら、いいじゃないか。霧島君に見られたことを気にする必要があるかい?」

「…じゃあ、単純に元気が無くなった」

「君、一応今はトレーニング中だよ」

 タキオンがそう言うと、途端に田上はぴくりと身動きをして、覗き込んでくるタキオンに深刻そうな顔をして言った。

「あ、忘れてた。…お前の話のせいで。…見に行くつもりだったのに。…いや、今からでも見に行かないと」

 そう言って、田上が、タキオンを押しのけて起き上がろうとすると、タキオンはそれに反抗して、田上を地面に押さえつけて言った。

「今こうして、静かな時間を過ごせている時に君を逃すと思うかい?」

「…仕事だ…」

 その後、暫く二人は見つめ合ったが、やがて、タキオンが仕方なさそうに田上の事を解放した。

「まぁ、仕事ならしょうがない。私は良妻で、ゆくゆくは賢母だからね」

「今も『妻』ではないよ」

 田上が起き上りながらそう言うと、タキオンは「おや!」と目をきらりと光らせて田上の顔を見た。

「もう一度押し倒されたいかい?」

「どうぞ、お好きなように」

 田上は、挑戦するような目つきでそう返した。すると、さすがにタキオンもこれ以上、愛する旦那のお仕事を邪魔する気にはなれずに、「しかたがないね」と首を振った。

「君も言う奴だよ」

 そう言うと、タキオンは田上の腕にくっ付いて、土手を二人で降りていった。

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